第224章 届かなかった言葉
翌朝、主人公は右手の状態を確かめてから、いつもの場所へ向かった。
痛みは残っていた。
何もしなければ気にならない程度まで落ち着いていたが、手首をひねったり、指に力を入れたりすると、まだ鈍い痛みが走る。
医師から無理をしないよう言われている以上、回復を急ぐ理由はなかった。
仕事を失いたくないからといって、治りきっていない手を使い続ければ、結局は働ける時間を減らすことになる。
頭では分かっていても、仕事の紹介がいつまで続くか分からない状況では、休むことにも不安があった。
主人公はその不安を抱えたまま、倉庫へ向かった。
昨日の責任者は、彼の姿を見ると軽く手を上げた。
「今日は昨日の続きではありません。午前中だけ、別の棚を整理してもらいたいんです」
「分かりました。作業内容を確認してもいいですか」
「もちろんです」
責任者は、対象となる棚と整理の範囲を説明した。
昨日と同じく、主人公が担当するのは外側の番号確認と札の整理だった。重い荷物を動かす作業は含まれていない。
主人公は条件を確認してから仕事を始めた。
午前中は、大きな問題もなく過ぎた。
途中、別の作業員が札を貼り間違えたことに気づき、主人公は責任者へ報告した。責任者は元の記録を確認し、貼り直すよう指示した。
それだけのことだった。
しかし、以前の主人公なら、貼り間違いが起きた理由まで調べようとしたかもしれない。
誰が札を作ったのか。なぜ確認されなかったのか。ほかにも間違いがあるのではないか。
今は、必要な範囲で確認し、担当者へ伝えたところで手を止めた。
自分の仕事は、倉庫全体の管理ではない。
問題を見つけたからといって、すべての責任を引き受ける必要はなかった。
昼前、責任者が主人公を呼んだ。
「午後は仕事を頼めなくなりました」
「何かありましたか」
「取引先から、作業を一部止めるよう連絡がありました。理由はまだ確認できていません」
「今日の分の賃金は、どうなりますか」
「午前中の分は予定どおり支払います。午後については、そもそも仕事を依頼していないので、支払いはありません」
主人公は頷いた。
条件に問題はなかった。
責任者が勝手に賃金を減らそうとしているわけでもない。午後の仕事が確定していなかった以上、支払いがないこと自体は不自然ではなかった。
「分かりました。午前中の分をお願いします」
賃金を受け取り、主人公は倉庫を出た。
外へ出たところで、直人から連絡が入った。
『今、どこにいる?』
主人公が場所を伝えると、直人は少し離れた通りまで来るように言った。
待ち合わせ場所に着くと、直人の隣に見覚えのある若い男が立っていた。
昨日、荷物の移動をめぐって責任者に相談していた作業員だった。
若い男は、主人公を見ると少し気まずそうに頭を下げた。
「すみません。急に呼び出して」
「何かありましたか」
「昨日の荷物の件です」
若い男は手に持っていた紙を広げた。
昨日、彼が受け取ったという指示書だった。
「今朝、仕事の紹介元へ行きました。荷物を動かさなかった理由を説明したんです。そしたら、俺が勝手に仕事を止めたことになっていました」
「紹介元は、誰からそう聞いたんですか」
「昨日、荷物を動かすように言ってきた人です。あの人が、俺は指示に従わなかったと言ったそうです」
「あなたが持っていた指示書は見せましたか」
「見せました。でも、古い指示書だから、変更されたことを確認するべきだったと言われました」
若い男は紙を握った。
「俺は、変更されたと聞いただけで、誰が変更を決めたのかも、どこへ運ぶのかも分からなかったんです。それなのに、確認しなかった俺が悪いと言われて……」
言葉が途切れた。
直人が尋ねた。
「それで、仕事はどうなった?」
「次の紹介は保留だそうです。確認が取れるまでは、ほかの仕事も回せないと言われました」
若い男は、怒っているようにも、困っているようにも見えた。
「俺は、昨日の判断が間違っていたとは思っていません。でも、仕事がなくなったら生活できません。だから、どうすればいいのか分からなくなりました」
主人公は指示書を見た。
紙には、荷物の番号と当初の届け先が書かれていた。
変更を示す記載はない。
ただし、この紙が最新の指示だったのかどうかも、主人公には分からなかった。
「この紙は、いつ受け取ったんですか」
「昨日の朝です」
「誰から?」
「紹介元の担当者です。いつも仕事を回してくれる人でした」
「変更を伝えてきた人とは、別ですか」
「はい。昨日、荷物のそばに来た人とは別です」
主人公は紙を返した。
「今分かっているのは、あなたが昨日の朝にこの指示書を受け取り、そのあと別の人から変更を伝えられたこと。そして、変更の根拠を確認できなかったことです」
「それだけですか」
「はい。変更を伝えた人が本当に権限を持っていなかったのか、それとも、正式な変更があなたまで正しく伝わっていなかったのか。そこは、まだ分かりません」
若い男は俯いた。
「でも、俺は仕事を止めた人間だと思われています」
「それは、あなたが今、実際に困っていることですね」
主人公は続けた。
「変更が正しかったかどうかとは別に、紹介元があなたの説明をどう扱うのか。その問題も残っています」
直人が主人公を見た。
主人公は、以前ならここで、紹介元の担当者を探そうと考えていたかもしれない。
誰が嘘をついたのか。誰が責任を押しつけたのか。
しかし、今は、若い男が何を望んでいるのかを先に確認する必要があると思った。
「あなたは、何をしたいですか」
若い男は顔を上げた。
「仕事を取り戻したいです」
「紹介元に、昨日の経緯をもう一度説明することはできますか」
「できます。でも、また同じことを言われるだけかもしれません」
「その可能性はあります」
主人公は、無理に希望を持たせなかった。
「それでも、あなたが持っている指示書と、昨日の出来事を記録したものを見てもらうことはできます。紹介元が説明を聞くかどうかは、こちらでは決められません」
若い男はしばらく考えた。
「一緒に来てもらえませんか」
主人公は、すぐには返事をしなかった。
紹介元へ同行すれば、若い男の説明を補うことはできるかもしれない。しかし、主人公自身は昨日の現場にいたわけではない。目撃したのは、責任者が二人の話を聞き、荷物の移動を止めたところまでだった。
それ以上のことを証言することはできない。
「一緒に行くことはできます。ただし、俺が見ていないことを証言することはできません。あなたの代わりに、判断を下すこともできません」
「それでも構いません」
若い男は答えた。
「一人で行くと、うまく説明できるか分からないんです。あなたが昨日、何を見たのかを話してくれるだけでも助かります」
主人公は頷いた。
「分かりました。ただ、俺が話せるのは、実際に見たことだけです」
三人は紹介元の事務所へ向かった。
事務所に着くと、受付の女性が若い男の顔を見て、少し困ったような表情を浮かべた。
「先ほども説明しましたが、担当者は外出しています」
「いつ戻りますか」
「分かりません」
「では、別の方に話を聞いてもらえませんか」
女性は少し迷ったあと、奥へ確認に行った。
しばらくして、別の職員が出てきた。
若い男は、昨日の指示書を見せながら説明を始めた。
最初の指示。変更を伝えた人物。荷物を動かさなかった理由。今朝、紹介元で言われたこと。
説明は途中で何度か止まった。
職員は、必要な箇所を質問した。
「変更を伝えた人物の名前は分かりますか」
「分かりません」
「所属は?」
「聞いていません」
「変更を伝えられた際、指示書を確認しましたか」
「その人は、変更されたと言っただけです。新しい指示書は見せてもらっていません」
職員は紙を受け取り、記載内容を確認した。
「この書類には変更の記録がありませんね」
「はい」
「ただ、別の形で指示が出されていた可能性はあります。こちらでも確認します」
若い男は、すぐに尋ねた。
「それでは、俺の仕事は戻りますか」
職員は、答えを急がなかった。
「確認が終わるまでは、約束できません。現場で指示が変更されていた可能性もありますし、変更が正しく伝わっていなかった可能性もあります。まずは、担当者と連絡を取ります」
若い男の表情が曇った。
「いつまで待てばいいですか」
「明日、もう一度連絡してください」
それだけだった。
事務所を出ると、若い男は深く息を吐いた。
「結局、何も決まらなかったですね」
「はい」
主人公は答えた。
「でも、あなたの説明は記録されました」
「それで何か変わるんでしょうか」
「分かりません。ただ、少なくとも、何も説明していない状態とは違います」
若い男は、手元の指示書を見た。
「あなたは、どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」
主人公は少し困った。
自分が落ち着いているのかどうか、よく分からなかった。
「落ち着いているわけではありません。俺にも、分からないことはあります」
「でも、分からないからといって、すぐに何かを決めようとはしない」
「決められないこともありますから」
若い男は、小さく笑った。
「俺は、何かをしないと、状況が悪くなる気がしていました。でも、何をしても悪くなる可能性があるんですね」
「そういう場合もあります」
主人公は、そこで言葉を止めた。
何もしないことにも、何かをすることにも、結果はある。
だからといって、すべての選択が同じ重さというわけではない。今すぐ動かなければ取り返しがつかなくなることもあれば、確認する時間を取ったほうがいいこともある。
その違いを見極めるのは、簡単ではなかった。
若い男は、礼を言って去っていった。
直人は、その背中を見送りながら尋ねた。
「お前は、あの人のために何かできたと思うか?」
主人公は首を振った。
「仕事を取り戻せたわけではないから、何とも言えない」
「それでも、同行した」
「頼まれたからな。俺が知っていることを伝えるくらいならできると思った」
直人は頷いた。
「お前自身の問題も、まだ解決していないんだろう」
「そうだな」
主人公は右手を見た。
仕事を続けるために、手を治さなければならない。生活を維持するためには、仕事も探さなければならない。自分が巻き込まれている問題についても、分からないことが残っている。
誰かを助けることと、自分の生活を守ること。
その二つは、いつも両立するとは限らない。
「だから、無理をしない範囲でやる」
主人公は言った。
「自分にできることを全部やるんじゃない。自分がやったことで、何が変わる可能性があるのかを考える。それから決める」
直人は、しばらく黙っていた。
「それが、今のお前のやり方か」
「今のところはな」
二人は歩き始めた。
主人公は、若い作業員が紹介元の事務所で何度も言葉を詰まらせていたことを思い出した。
伝えたいことがあっても、相手が聞くとは限らない。
記録を残しても、すぐに状況が変わるとは限らない。
それでも、言葉を届ける場所がなければ、何が起きたのかを確認することさえ難しくなる。
主人公は、まだ自分がどこまで関わるべきなのかを知らなかった。
ただ、少なくとも、相手のために何かを決めることと、相手が自分で決められるように手を貸すことは、同じではないのだと感じていた。




