第223章 選べなかった人間
翌日、主人公は仕事募集の紙に書かれていた場所を訪ねた。
小さな倉庫だった。
入口では、数人の作業員が木箱を積み直している。中には金属部品の入った箱もあったが、募集に書かれていたとおり、主人公に任されたのは軽い荷物の整理と番号の照合だった。
責任者は、彼の右手を見ると、作業内容をもう一度説明した。
「箱を持ち上げる必要はない。棚の番号を確認して、同じ番号の札を付けてくれればいい。痛みが出たら、すぐに言うこと」
「分かりました」
「賃金は夕方に支払う。作業が予定より早く終わっても、約束した金額は変えない。ただし、途中で帰る場合は、実際に働いた時間に応じて計算する」
主人公は条件を確認してから仕事を始めた。
棚には、番号の古い箱と、新しく札を付け直された箱が混在していた。いくつかの箱には、古い札の上から別の札が貼られている。
彼は外側の番号を確認し、記録に従って整理した。
昼前、作業員の一人が、棚の奥から小さな箱を引き出した。
「これ、どこに置けばいい?」
責任者が帳面を確認した。
「その番号は、今日の整理対象には入っていない。勝手に動かさず、横に置いておいてくれ」
作業員は箱を指定された場所へ移した。
主人公はその様子を見たが、特に何も言わなかった。
整理対象にない箱を、勝手に分類しない。
それは昨日までの仕事でも、何度か経験したことだった。
昼休み、主人公が水を飲んでいると、倉庫の外から怒鳴り声が聞こえた。
「俺は、ここまで運べと言われたんだ!」
「ここまで運べば終わりだとは聞いていない!」
主人公は窓越しに外を見た。
荷車のそばで、若い作業員と中年の男が言い争っていた。荷台には木箱が二つ積まれている。
中年の男は、荷物を別の場所へ移すよう求めているようだった。若い作業員は首を振り、荷車から離れようとしない。
責任者も声に気づいたらしく、入口へ向かった。
主人公はすぐには立ち上がらなかった。
何が起きているのか、まだ分からない。
しかし、責任者が外へ出たあと、若い作業員の声が倉庫の中まで届いた。
「最初の指示と違うじゃないですか!」
その言葉を聞いた主人公は、少しだけ表情を変えた。
責任者が二人の間に入り、話を聞き始めた。
しばらくすると、若い作業員は荷台から一枚の紙を取り出した。中年の男はそれを見て、すぐに首を振った。
「それは古い指示だ。新しいものが出ている」
「誰からですか?」
「俺が伝えた」
「あなたが、誰から聞いたんですか?」
中年の男は答えなかった。
責任者が尋ねた。
「新しい指示書はありますか?」
「今は持っていない」
「では、確認できるまで荷物を動かすことはできません」
中年の男は不満そうに顔をしかめた。
「ここで止めたら、全員が困るんだぞ」
「指示が確認できないまま動かして、あとで問題になったら、もっと困ります」
責任者の言葉に、中年の男は黙り込んだ。
やがて、彼は荷車から離れ、どこかへ歩いていった。
若い作業員は、その場に立ち尽くしていた。
責任者が近づき、紙を返した。
「この指示書は保管しておいてください。こちらでも、連絡が来た時刻と内容を記録しておきます」
「俺は、仕事を失わないでしょうか」
若い作業員が尋ねた。
責任者は、すぐには答えなかった。
「それは、今ここでは約束できません。ただ、あなたが指示を確認しようとしたことは、記録に残します」
若い作業員は俯いた。
主人公は、倉庫の中からその様子を見ていた。
彼は、外へ出て口を挟むことはしなかった。
責任者が対応している。若い作業員も、自分の持っている指示書を提示できている。今のところ、誰かが暴力を振るっているわけでもない。
彼が介入しなければならない状況ではなかった。
それでも、若い作業員が最後に尋ねた言葉は、耳に残った。
――俺は、仕事を失わないでしょうか。
それは、指示が正しいかどうかとは別の問題だった。
若い作業員は、確認することの必要性を理解していたのだろう。
しかし、確認した結果、仕事を失うかもしれない。
その可能性があるからこそ、簡単には判断できない人間もいる。
主人公は、以前、自分が仕事を断ったときのことを思い出した。
条件が曖昧な仕事を断れば、次の紹介がなくなるかもしれない。引き受ければ、責任の所在が分からないまま問題に巻き込まれるかもしれない。
どちらを選んでも、何かを失う可能性がある。
だからこそ、選べる余地を残すことが重要だった。
しかし、誰もが同じように選べるわけではない。
金がなければ、今日の賃金を優先することもある。家族を養っていれば、仕事を失う危険を避けたいこともある。自分の立場を守るために、他人へ責任を押しつける人間もいる。
それらをすべて同じ理由で説明することはできない。
午後、主人公は作業を再開した。
棚の整理は順調に進み、予定していた範囲の確認を終えた。
責任者は記録を確かめ、賃金を支払った。
「今日は助かりました。明日も来られますか?」
「手の状態を見てから返事をします」
「分かりました。無理はしないでください」
主人公は礼を言い、倉庫を出た。
外では、昼に言い争っていた若い作業員が、荷車の横で一人、紙を見つめていた。
主人公が通り過ぎようとすると、若い作業員が顔を上げた。
「すみません」
主人公は足を止めた。
「何でしょうか」
「さっき、倉庫の中から見ていましたよね」
「はい」
「俺のやったことは、間違っていたと思いますか?」
主人公は、すぐには答えなかった。
「あなたが、どんな指示を受けていたのかは分かりません。だから、間違っていたかどうかは判断できません」
若い作業員は苦笑した。
「そうですよね」
「ただ、確認できない指示で荷物を動かせば、あとで困る可能性はあります。だから、責任者に確認を頼んだのは、理解できます」
「でも、仕事を失うかもしれません」
「そうですね」
主人公は、無理に励まさなかった。
「確認することが正しくても、それで仕事を失わないとは限りません。そこは別の問題です」
若い作業員は、紙を握り直した。
「じゃあ、どうすればいいんでしょう」
主人公は少し考えた。
「俺なら、まず、自分が受けた指示と、変更されたと言われた内容を分けて残します。それから、誰が変更を伝えたのか、確認できる範囲で確かめます。でも、それをすれば必ず解決するとは言えません」
「あなたも、似たようなことがあったんですか?」
「似ていると思ったことはあります。ただ、同じ問題だったとは限りません」
若い作業員は頷いた。
「ありがとうございます」
主人公は、そのまま立ち去ろうとした。
だが、若い作業員がもう一度口を開いた。
「俺、さっきは仕事を失うのが怖かったんです。でも、もし言われたとおりに運んで、あとから自分が責任を取れと言われたら、それも困る。結局、どっちを選んでも怖いんですよ」
主人公は振り返った。
「そうですね」
「あなたなら、どちらを選びますか?」
主人公は、少し長く考えた。
「俺なら、今の情報で何が起きる可能性があるのかを考えて、取り返しがつかなくなるほうを避けます。でも、あなたと俺では、持っている金も、仕事の状況も違うかもしれない。だから、同じ選択をするとは限りません」
若い作業員は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は小さく頷いた。
「分かりました。もう少し考えてみます」
主人公はそれ以上、助言を重ねなかった。
相手の選択を代わりに決めることはできない。
それに、主人公自身も、いつでも正しい判断ができるわけではなかった。
帰り道、直人と合流すると、主人公は今日の出来事を話した。
直人は最後まで聞いてから言った。
「結局、その若い作業員はどうするんだ?」
「分からない。自分で考えると言っていた」
「助けを求められたら、どうするつもりだった?」
「話を聞く。必要なら、俺が知っている範囲のことを伝える。でも、代わりに仕事を決めることはできない」
直人は少し考えた。
「お前も、以前より慎重になったな」
「慎重になったというより、できないことを分けるようになっただけだ」
主人公は、右手をかばいながら歩いた。
以前は、何か問題が起きると、その原因を知ろうとしていた。
原因が分かれば、問題を解決できるかもしれないと思っていたからだ。
今も、その考えが間違っているとは思わない。
ただ、原因を知ることと、相手を助けることは同じではない。
情報があっても、力が足りないことがある。力があっても、相手の事情を知らなければ、かえって状況を悪くすることがある。
そして、本人が何を望んでいるのかを知らなければ、助ける側の都合で選択を奪ってしまうこともある。
「一つ、気づいたことがある」
主人公が言った。
「何だ?」
「昨日まで、俺は自分が何をできるかばかり考えていた。でも、今日の若い作業員を見て、少し違うことも考えた」
「何を?」
「本人が、何を失うことを恐れているのかだ」
直人は、黙って聞いていた。
「仕事を失うのが怖い人間に、仕事を断れと言うのは簡単だ。でも、そのあとどうやって生活するのかまで考えなければ、本人にとっては何の解決にもならない」
「それでも、曖昧な仕事を引き受ければ、危険があるんだろう?」
「そうだ。だから、どちらか一方だけを見て決めることはできない」
主人公は前を向いた。
「俺は、相手の代わりに答えを出す人間にはなりたくない。けれど、選ぶために必要な情報や、選び直す余地を増やす手伝いなら、できるかもしれない」
それは、まだ曖昧な考えだった。
具体的に何をすればいいのか、すべて分かったわけではない。
ただ、昨日までよりも、自分が何を目指して力をつけるのかが少し見えてきた気がした。
強くなることは、誰かの問題をすべて解決するためではない。
危険な状況から逃げられるようになること。自分の生活を維持すること。そして、誰かが選択を迫られたとき、自分まで倒れて選択肢を減らさないこと。
それもまた、必要な力なのだろう。
その夜、主人公は右手を休ませながら、翌日の仕事について考えた。
明日も、条件を確認する。
できることとできないことを伝える。
そして、分からないことを分かったふりはしない。
それは、特別な方法ではなかった。
ただ、自分が選んだ道を、少しずつ自分のものにしていくための習慣だった。




