第222章 教える者の条件
翌朝、主人公は訓練場所へ向かった。
右手の痛みはまだ残っていた。医師からは安静にするよう言われている。だから今日は、走ることも、相手の手を受け流す動きも行わず、先生に昨日の出来事を話すだけにするつもりだった。
倉庫の裏手に着くと、年配の男はすでに待っていた。
「遅かったな」
「約束の時間には間に合っています」
「そういう意味じゃない。顔を見れば分かる。何かあったな」
主人公は、昨日、見知らぬ男に記録帳を要求され、身体をつかまれたことを話した。相手が去った経緯や、店の前で助けを求めたことも隠さずに伝えた。
男は途中で口を挟まなかった。
話が終わると、彼は主人公の右手を見た。
「また悪くしたのか」
「医師には診てもらいました。傷が開いたわけではないそうです。ただ、痛みが強くなっています」
「なら、今日は手を使うな」
「そのつもりです」
「それと、相手を追いかけなかったのは正解だったかもしれんが、そこだけを覚えるな」
主人公は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「お前は、追いかけなかった理由を説明できる。手が使えない。相手の人数が分からない。何を聞けばいいのかも分からない。どれも間違った理由じゃない」
男は足元の小石を拾い、少し離れた場所へ放った。
「だが、同じ理由を並べれば、いつでも動かないことを正当化できる」
主人公は黙って聞いていた。
「反対に、誰かを助けたいという理由を並べれば、いつでも無理をすることもできる。どちらも簡単だ。難しいのは、その場で何をするか決めることだ」
「昨日は、店の前へ移動して助けを求めました」
「それはよかった。だが、最初から店の前にいたら、もっと早く助けを求められたかもしれん」
主人公は、昨日の動きを思い返した。
男と話していた場所から店までは、ほんの数歩だった。相手が手を伸ばす前に移動することはできたかもしれない。
しかし、最初から相手が身体をつかもうとすると決めつけることもできなかった。
「次に同じ状況になったら、どうすればいいと思いますか?」
先生はすぐには答えなかった。
「お前は、何を守りたい?」
「自分の身です。あと、記録帳を勝手に持っていかれないこと」
「その二つを同時に守る必要があるのか?」
主人公は言葉に詰まった。
記録帳は重要だ。自分が見たことを残し、後から確認できるようにするためのものだ。
だが、それを守るために自分が傷つけば、記録を続けること自体が難しくなる。
「……ありません。記録帳を失っても、記憶していることはありますし、別に記録することもできます」
「なら、優先順位は決まるな」
先生は小石をもう一つ拾った。
「物を守るために身体を壊すな。人を助けるために、自分が倒れることも当然だと思うな。だが、自分を守ることを理由に、何も考えずに逃げるな」
「難しいですね」
「だから訓練するんだ」
男はそう言って、小石を地面に置いた。
「今日は動かない。代わりに、昨日の状況をもう一度考えろ。相手が近づいてきたとき、どこに立っていた。どこへ動けた。誰が近くにいた。何が見えていなかった」
主人公は目を閉じ、昨日の通りを思い浮かべた。
相手は一人だった。
最初は正面に立っていた。店は少し横にあり、通行人もいた。相手が記録帳を要求したとき、主人公はその場で返事をしていた。相手が手を伸ばしてから、ようやく距離を取ろうとした。
「最初に、店の前へ移動できたと思います」
「なぜ移動しなかった?」
「相手が何をするつもりなのか分からなかったからです」
「分からないなら、相手が何もしないと決めつけてよかったのか?」
主人公は首を振った。
「いいえ」
「では、相手が必ず襲ってくると決めつける必要はあるか?」
「それも、ありません」
先生は頷いた。
「分からないときは、相手の意図を当てようとするな。自分が選べる位置を確保しろ。話を続けることもできる。離れることもできる。助けを求めることもできる。選択肢を一つに減らすな」
主人公は、その言葉を頭の中で繰り返した。
相手の正体を見抜くことよりも、自分が何を選べるかを残しておくこと。
それなら、今の自分にもできることがある。
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
「何だ」
「昨日のように、相手が記録帳を奪おうとした場合、抵抗するべきでしょうか」
先生は主人公を見た。
「記録帳が、お前の命より大事なら抵抗しろ」
「そうではありません」
「なら、答えは出ている」
主人公は少し考えたあと、頷いた。
「分かりました」
「分かっていない顔だな」
「……記録帳を渡したくない気持ちはあります。でも、渡さないために戦うことが、本当に必要なのかは、その場で判断しなければならないということですか」
「そうだ。渡せば何が起きるのか。渡さずに抵抗すれば何が起きるのか。どちらも分からないなら、まず自分が動ける場所へ移れ」
先生は立ち上がった。
「お前は、いつも正しい答えを探そうとする。だが、実際の場面では、正しい答えを考えている間に状況が変わる。だから、先に身を置く場所を考えろ」
主人公は、その言葉に反論しなかった。
彼はこれまで、何かが起きたあとで、その理由や関係者を考えることが多かった。
それ自体が無駄だったわけではない。
しかし、昨日のように相手が目の前にいるとき、後から正確に分析できても、身体をつかまれた事実は変わらない。
必要なのは、考えることをやめることではない。
考える順番を変えることだった。
その日の訓練は、それで終わった。
主人公が帰ろうとすると、先生が呼び止めた。
「次から、しばらくは手を使わない訓練に切り替える。走ることも、体調を見ながらだ。痛みが強くなるなら中止する」
「ありがとうございます」
「礼はいい。お前が無理をして、また動けなくなったら、教えた意味がない」
主人公は頭を下げた。
「それと、もう一つ」
先生の声が少し低くなった。
「お前に近づいてくる人間が、みんな同じ目的だと思うな」
主人公は顔を上げた。
「何か知っているんですか?」
「知らん。だから言っている」
先生は淡々と答えた。
「お前は、ここしばらく荷物の受取人や記録の不一致を気にしているようだな。そういう問題に関わる人間が、全員同じ側にいるとは限らない。邪魔をする者もいれば、自分の利益のためにお前を利用しようとする者もいる。何も知らずに動いている者もいるだろう」
「では、どうすればいいんですか?」
「相手が何者かを決める前に、相手が何を求めているかを見ろ。それから、自分が何を渡せるのかを考えろ」
主人公は、昨日の男を思い出した。
記録帳を見せろと言った男。
その理由は、まだ分からない。
記録の中に、自分が知らない何かが書かれていると思ったのかもしれない。あるいは、記録帳を持っていること自体が気に入らなかったのかもしれない。
どちらも仮説にすぎなかった。
「分かりました」
今度の返事には、少しだけ実感があった。
先生のもとを離れた主人公は、帰り道にある店で、簡単な食事を取った。
その途中、店の壁に貼られた仕事募集の紙が目に入った。
短時間の荷物整理。手作業が中心。賃金は低めだが、重い荷物を運ぶ必要はないと書かれている。
主人公は募集内容を読み、連絡先を記録した。
すぐに仕事が決まるとは限らない。
それでも、選択肢を増やすことはできる。
滞在先へ戻ると、直人が机の上の紙を見て尋ねた。
「新しい仕事か?」
「募集を見つけただけだ。明日、条件を確認する」
「今の手でできるのか?」
「それを確認してから決める」
直人は満足そうに頷いた。
主人公は椅子に座り、昨日の記録を読み返した。
男が記録帳を見せるよう要求したこと。身体をつかまれたこと。店の前で助けを求めたこと。
事実は変わらない。
だが、その事実から何を学ぶかは変えられる。
彼は記録の最後に、新しい一文を書き加えた。
――相手の意図が分からないときほど、自分が選べる位置を先に確保する。
書き終えた主人公は、記録帳を閉じた。
明日、あの男が再び現れるかどうかは分からない。
若い運び手が、自分の問題を解決できるかどうかも分からない。
それでも、次に何かが起きたとき、昨日とまったく同じ自分でいる必要はなかった。
強くなるというのは、すべてを予測できるようになることではない。
予測が外れたときにも、選び直せる余地を残しておくこと。
主人公は、少しずつその意味を理解し始めていた。




