第221章 逃げるための一歩
翌朝、主人公が目を覚ますと、右手の痛みは少し軽くなっていた。
完全に戻ったわけではない。指を曲げることはできるが、手のひらに力を込めると傷が引きつる。医師に言われたとおり、無理に使わないほうがよさそうだった。
彼は手を布で保護し、外へ出る準備をした。
今日も仕事を探す。
それが今の生活を維持するために必要だった。
ただし、以前と同じように仕事を探して、受けられるものを何でも引き受けるつもりはなかった。仕事内容、賃金、責任の範囲。最低限の条件を確認し、自分にできないことは最初に伝える。
それだけでも、選択肢は少し変わる。
直人と別れ、仲介所へ向かう途中、主人公は背後に人の気配を感じた。
振り返ると、通りの向こうに男が一人いた。
昨日、工房の前で見かけた男だった。
男は主人公と目が合うと、歩く速度を変えずに近づいてきた。
「少し話がある」
主人公は足を止めたが、すぐには近づかなかった。
「ここで話してください」
男は周囲を見た。
人通りはある。近くには店もあり、通りの端には荷車が停まっていた。
「昨日の若い運び手と、まだ関わっているのか」
「工房で会っただけです」
「余計なことをするなと言ったはずだ」
「俺は、見たことを話しただけです。それ以上のことはしていません」
男はしばらく主人公を見つめた。
「お前は、自分が何に首を突っ込んでいるのか分かっていない」
「そうかもしれません。だから、分からないことを勝手に決めつけないようにしています」
男の表情が変わった。
怒ったというより、予想していた返答と違ったようだった。
「記録を残しているそうだな」
主人公は、すぐには答えなかった。
工房で記録帳を開いたことを、この男が知っているとは限らない。別の誰かから聞いた可能性もある。
「仕事で必要なことは記録します」
「何でも記録すれば、自分を守れると思っているのか?」
「いいえ」
主人公は男の目を見た。
「記録があっても、相手がそれを認めなければ、解決しないことはあります。それでも、何も残さないよりは、後から確認できる可能性がある」
男は鼻で笑った。
「その可能性のために、面倒を背負うのか」
「必要な範囲なら」
「その範囲を決めるのは、お前だけじゃない」
主人公は、男の言葉を聞きながら、周囲を確認した。
男は一人だった。
今のところ、武器を持っている様子もない。しかし、右手はまだ十分に動かせず、正面から争うのは避けたい。
逃げるなら、通りの先にある店の前へ移動するのがよさそうだった。
男が一歩近づいた。
「その記録帳を見せろ」
「なぜですか?」
「お前が何を書いているのか、確認する必要がある」
「あなたには、その必要があるんですか?」
男の手が伸びた。
主人公は反射的に後ろへ下がった。
右手をかばいながら、相手の手が届かない距離を保つ。男はさらに一歩進んだが、主人公は通りの端へ移動した。
「逃げるのか?」
「ここで争う理由がありません」
「見せられないものでも書いているのか」
「仕事の記録と、自分が見たことを書いているだけです。見せる必要があるかどうかは、内容と理由を確認してから決めます」
男は、主人公の肩をつかもうとした。
今度は、主人公が先に動いた。
相手の手が届く前に身体を横へずらし、店の入口に近い場所へ移動する。男の手は空を切った。
だが、足元の石に靴が引っかかり、主人公の身体が一瞬傾いた。
男はその隙に距離を詰めた。
主人公は左腕で相手の手を押し返そうとしたが、十分な力が入らなかった。肩をつかまれ、壁際へ押し込まれる。
右手に痛みが走った。
「じっとしていろ」
男が低い声で言った。
主人公は歯を食いしばった。
力では勝てない。
正面から押し返そうとしても、傷ついた手を使えば状況は悪くなるだけだった。
彼は壁を背にしたまま、男の足元を見た。
相手は主人公の進路を塞いでいる。しかし、店の入口側には、まだ人が通れるだけの空間が残っていた。
主人公は、男の手が一瞬緩んだときに身体をひねった。
肩が壁に擦れ、服が引っ張られる。
それでも、腕を抜くことには成功した。
彼は店の前まで移動し、通りにいた人々へ声を上げた。
「すみません。少し助けてください!」
店から出てきた男が、二人の間に入った。
「何をしているんだ?」
相手の男は舌打ちした。
「話をしていただけだ」
「話をするのに、相手を壁へ押しつける必要があるのか?」
男は答えなかった。
周囲の視線が集まり始めると、主人公をつかんでいた手を離した。
「好きにしろ。だが、後で困るのはお前だ」
それだけ言い残し、男は通りを歩いていった。
主人公は追わなかった。
店の男が、心配そうに尋ねた。
「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
「知り合いか?」
「いいえ。以前、別の場所で会ったことがあるだけです」
店の男は納得していない様子だったが、それ以上は尋ねなかった。
主人公は、右手をかばいながらその場を離れた。
少し歩いたところで、痛みが強くなってきた。
彼は近くの壁際に腰を下ろし、呼吸を整えた。
昨日までなら、相手が去ったことだけを考えていたかもしれない。
今日は違った。
自分が何をできなかったのか、何が原因で動けなかったのかを考えた。
最初に距離を取った判断は悪くなかった。
しかし、逃げ道を確保したつもりで、足元を十分に確認していなかった。相手が接近してきたとき、壁際へ追い込まれる前に、もっと早く人のいる場所へ移動できた可能性がある。
それでも、結果だけを見て自分を責めるつもりはなかった。
相手が手を伸ばしてくることまで、完全に予測することはできない。
必要なのは、次に同じ状況になったとき、今回の経験を使えるようにすることだった。
主人公は立ち上がり、仲介所へ向かうのをやめた。
まず、医師のところへ行く。
今の状態で仕事を探し続けるより、手の傷を確認するほうが先だった。
診察を受けると、医師は傷の周囲を確かめた。
「また、負担をかけましたね」
「少し押されました」
「傷が開いているわけではありません。ただ、痛みが強くなっているなら、今日は安静にしてください」
主人公は頷いた。
診察を終えて外へ出ると、直人が待っていた。
「どうした?」
主人公は、今日起きたことを説明した。
直人の顔が険しくなった。
「昨日の男か?」
「同じ人物だと思う。ただ、名前は知らない」
「今度こそ、こちらから探したほうがいいんじゃないか」
「探して、どうする?」
直人は言葉を止めた。
主人公は続けた。
「相手が何者なのか知ることは必要かもしれない。でも、今の俺には、相手を追いかけて確かめるだけの力がない。それに、相手が俺の記録帳を見たがった理由も、まだ分からない」
「なら、どうする?」
「まず、今日のことを記録する。店の人が見ていたことも、医師に診てもらったことも残す。必要なら、後で確認できるようにしておく」
直人は不満そうだった。
「記録を残すだけで、相手が止まるとは思えない」
「俺もそう思う」
主人公は、正直に答えた。
「だから、記録だけに頼るつもりはない。逃げ方も覚えるし、手が治ったら訓練も続ける。必要なら、人の助けも借りる」
「それで、いつまで待つんだ?」
「待つんじゃない。今できることをやるんだ」
主人公は、ゆっくり歩き始めた。
「相手を追いかけることだけが、動くことじゃないからな」
直人はしばらく黙っていたが、やがて主人公の隣に並んだ。
二人は滞在先へ戻った。
主人公は記録帳を開き、今日の出来事を書いた。
男が記録帳を見せるよう要求したこと。
主人公が拒否したあと、男が身体をつかんだこと。
店の前で助けを求め、第三者が間に入ったこと。
医師の診察を受け、手の傷に大きな変化はないと確認されたこと。
そして、男の名前も所属も、まだ分からないこと。
書き終えたあと、主人公はしばらく記録帳を見つめた。
今日、彼は相手に勝ったわけではない。
相手を捕まえたわけでも、正体を突き止めたわけでもない。
ただ、相手の要求を拒み、距離を取り、人の助けを借りて、その場を離れた。
それだけだった。
しかし、それだけのことを実行するにも、今の自分には足りないものが多かった。
力も、経験も、相手についての情報も足りない。
ならば、これから増やしていくしかない。
主人公は記録帳を閉じ、右手を休ませた。
明日は、今日よりも少しだけ早く危険に気づけるように。
そして、逃げるべきときに、迷わず逃げられるように。
今は、そのための一歩を積み重ねるしかなかった。




