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観客のいない世界  作者: 亀


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220/450

第220章 誰が道を変えたのか

翌朝、主人公は右手の状態を確かめてから、昨日の荷車について記憶を整理した。


箱は三つ。


御者は、渡された荷物をそのまま積んだと主張していた。もう一人の男は、箱が違うと言い、側面の札を剥がした。最後には、荷車を倉庫へ戻すよう命じていた。


だが、主人公が見たのは、その一部にすぎない。


箱がどこから来たのかも、最初の行き先がどこだったのかも知らない。札に何が書かれていたかも確認していなかった。


昨日の出来事を記録することはできる。


しかし、記録できることと、そこから何かを判断できることは別だった。


「また考えているのか」


直人が朝食を持ってきて、向かいに座った。


「昨日の荷車のことだ」


「気になるなら、見に行けばいい」


「何を確かめる?」


「さあな。荷車がまだあるかとか」


主人公は少し考えた。


「それだけなら、行く必要はない」


「なら、何をするつもりだ?」


「今日は工房へ行く。昨日の仕事の続きがあるかもしれない。それに、仕事がなくても、手を悪化させずにできることを探す」


直人は肩をすくめた。


「本当に、仕事のほうが先なんだな」


「仕事を失えば、食べていけないからな」


主人公は食事を終え、右手をかばいながら外へ出た。


工房に着くと、昨日の責任者が入口で待っていた。


「ちょうどよかった。少し確認したいことがあります」


主人公は足を止めた。


「昨日の部品番号の件ですか?」


「それもありますが、別のことです。昨日、あなたが帰ったあと、部品の移送記録について問い合わせがありました」


女性は主人公を工房の奥へ案内した。


机の上には、二冊の帳面が置かれていた。


「こちらの工房から部品を出した記録は残っています。ただ、受領側の記録がありません。昨日見つけた空欄とは別の部品です」


「同じように、受け取った人が分からないということですか?」


「正確には、受け取ったとされる工房は分かっています。しかし、そちらの工房では、受領した記録が見つからないそうです」


女性は一枚の紙を差し出した。


そこには、部品番号と移送日、そして受領先の工房名が書かれていた。


「昨日、問い合わせてきた人物が、この記録の確認を求めてきました。ですが、依頼主から正式な許可を得ていないので、詳細は伝えていません」


主人公は紙を見た。


昨日、荷車の前で起きたことと、似ている部分はある。


しかし、部品番号も日付も異なる。受領側の記録がないというだけで、同じ人物や組織が関係しているとは限らない。


「俺に見せてよかったんですか?」


「あなたは昨日、この工房で働いていました。作業中に見つけた不一致について、説明しておこうと思っただけです。外へ持ち出していいという意味ではありません」


「分かりました」


主人公は紙を返した。


女性は少し迷ってから言った。


「もう一つ。あなたは、昨日、荷車の前で何かを見たのですよね?」


主人公は彼女を見た。


「どうしてそれを?」


「問い合わせてきた人物が、通りで荷物の行き先をめぐる揉め事があったと言っていました。あなたの名前は出ていません。ただ、現場にいた人がいるなら、話を聞きたいと」


主人公はすぐに返事をしなかった。


問い合わせてきた人物が、昨日の男と同一なのかどうかは分からない。


だが、荷車の出来事を知っている人間が、今日になって工房へ問い合わせてきた。それは新しい情報だった。


「俺が見た範囲なら、話せます。ただし、誰が何を指示したのかは知りません」


「それで十分です。無理に関わる必要はありません」


主人公は頷いた。


女性は問い合わせのあった時刻と、相手が残した連絡先を記録した紙を見せた。


連絡先は工房の事務所宛てで、個人名は書かれていなかった。問い合わせの目的も、部品の所在確認と記録の照合とだけ記されている。


主人公は、記録を目で追った。


「昨日の男が来たのは、何時頃ですか?」


「昼過ぎです」


「荷車の前で会った男とは、同じ人物でしたか?」


「顔までは確認していません。声も、はっきりとは覚えていません」


女性は正直に答えた。


主人公はそれ以上、質問しなかった。


これで、二つの出来事がつながったわけではない。


ただ、荷車の行き先をめぐる揉め事と、部品の受領記録の不一致について、誰かが同じ日に確認を求めていた。それだけだった。


「今日は仕事がありますか?」


主人公が尋ねると、女性は少し驚いたように笑った。


「ありますよ。昨日と同じように、部品の整理をお願いしたいです。手を使う作業は避けてください」


「分かりました」


主人公は作業に戻った。


午前中は、部品の番号と数量を確認し、記録と一致しているものを棚に戻した。違いがあれば、勝手に修正せず、責任者に報告する。


以前の彼なら、記録の空欄を見るたびに、その理由を知ろうとしたかもしれない。


今は、空欄があることと、空欄が生まれた理由を分けて考えるようになっていた。


理由が分からなくても、目の前の作業を進めることはできる。


一方で、記録の空欄が誰かの責任を左右するなら、そのままにしておくわけにもいかない。


どこまで確認するかは、状況によって変わる。


昼過ぎ、工房の入口に一人の若い男が現れた。


主人公は、部品を並べる手を止めた。


昨日、倉庫で受取人のことを尋ねていた男だった。


若い男も主人公に気づいたらしく、少し迷ったあと、責任者の女性に声をかけた。


「すみません。ここで、移送記録を確認できると聞いたのですが」


女性は慎重に尋ねた。


「どの記録ですか?」


若い男は、折り畳んだ紙を取り出した。


「この部品です。自分が運んだ荷物ではありません。ただ、以前働いていた人から、この番号について聞きました」


女性は紙を受け取り、帳面と照合した。


主人公は近づかなかった。


若い男が何を知っているのか、まだ分からない。昨日の出来事を説明するために来たのか、それとも別の理由があるのか。


女性は照合を終えると、紙を返した。


「この番号の部品について、こちらで確認できるのは、移送された記録があるということだけです。受領側の記録は、現在確認できていません」


若い男は唇を結んだ。


「やはり、そうですか」


「何か心当たりがあるのですか?」


「いいえ。正確には、心当たりがあるというより……同じことが起きているのかもしれないと思ったんです」


主人公はそこで初めて、若い男に声をかけた。


「同じことというのは?」


若い男は、主人公を見た。


「荷物を運んだ人間はいる。運んだ先も、記録には残っている。でも、受け取った人間がいない。最後には、運んだ人間だけが責任を問われる」


その言葉に、工房の空気がわずかに変わった。


主人公は、若い男の表情を見た。


昨日まで、彼は自分が何を運んだのかを確かめようとしていた。今は、個別の荷物ではなく、同じような問題が繰り返されている可能性を考えている。


だが、可能性はまだ可能性だ。


「あなたが運んだ荷物も、受領記録がなかったんですか?」


「そうです。でも、俺は受取人の顔を覚えています。荷物を渡したことも、間違いありません」


「その人が、正式な受取人だったかどうかは?」


若い男は、苦しそうに首を振った。


「分かりません。指示された場所にいた人に渡しただけです。俺は、相手が受け取ったことを証明する書類を持っていません」


主人公は、すぐには答えなかった。


その状況は、彼が以前から見聞きしてきた問題と似ていた。


しかし、似ているからといって、同じ仕組みで起きているとは限らない。


「あなたは、誰かに責任を負わせたいんですか?」


若い男は、少し驚いたように目を見開いた。


「違います。俺は、何が起きたのか知りたいんです。もし俺が間違っていたなら、間違っていたと認めます。でも、何を間違えたのかも分からないまま、全部自分のせいにされるのは納得できません」


「分かりました」


主人公はそれだけ答えた。


彼の言葉が正しいかどうかは、まだ判断できない。


ただ、若い男が求めているものは、誰かを罰することだけではなさそうだった。


女性は二人の会話を聞いたあと、若い男に言った。


「こちらの記録だけでは、あなたが運んだ荷物と、この部品が同じ案件に属するかどうかは確認できません。依頼主の許可がなければ、ほかの記録も見せられません」


「分かっています」


若い男は紙をしまった。


「ただ、もしこの工房に、同じような問い合わせが来ているなら、記録を残しておいてほしいんです。自分の件だけではないのかもしれないので」


女性はしばらく考えたあと、答えた。


「確認できた事実は、こちらで記録します。ただし、別々の案件を同じものとして扱うことはできません」


「それで構いません」


若い男は頭を下げた。


帰ろうとした彼を、主人公が呼び止めた。


「昨日、あなたを止めようとした男について、何か分かりましたか?」


若い男の顔が曇った。


「いいえ。名前も知りません。以前、荷物を運ぶ仕事を紹介してくれた人間に相談したら、もう関わるなと言われました」


「その紹介者は、昨日の男と同じですか?」


「分かりません。少なくとも、顔は違います」


主人公は頷いた。


これで、少なくとも二人の人物がいることは分かった。


仕事を紹介した人間と、昨日、彼の腕をつかんだ男。


両者がつながっているのかどうかは、まだ不明だった。


「あなたは、これからどうするつもりですか?」


主人公が尋ねると、若い男はしばらく考えた。


「別の仕事を探します。今のままでは、仕事を紹介してもらえないので。でも、今回の件は、諦めたわけじゃありません」


「分かりました」


主人公は、無理に引き止めなかった。


若い男は工房を出ていった。


責任者の女性は、彼が持ってきた部品番号を、正式な照会記録として帳面に残した。


「これで、こちらが確認できる範囲は終わりです」


女性はそう言って、帳面を閉じた。


主人公は作業に戻った。


今日、何かが解決したわけではない。


若い男は、まだ自分が運んだ荷物の受取人を確認できていない。工房の記録も、空欄を埋められていない。昨日の男が何を求めているのかも分からない。


それでも、若い男が持ってきた情報は、記録として残った。


少なくとも、彼が何も言わずに姿を消した場合とは、状況が違う。


夕方、仕事を終えた主人公は、直人と合流した。


「昨日の若い男が来たのか」


直人は、話を聞くとそう言った。


「そうだ。自分の件と似た記録を見つけたらしい。ただ、同じ案件だとは確認できなかった」


「それでも、同じような問題がある可能性は高くなったんじゃないか?」


「可能性はな」


主人公は歩きながら答えた。


「でも、ここから先は、俺が調べ続けることじゃない。工房は記録を残した。若い男も、これから自分で仕事を探すと言っていた」


「また、そこで止めるのか」


「止めるというより、役割を分けるんだ」


主人公は右手をかばいながら、前を向いた。


「俺ができることは、目の前で起きたことを正確に伝えること。自分の仕事で見つけた違いを報告すること。危険が迫ったときに、できる範囲で動くこと。それ以上は、情報も力も足りない」


直人は少し黙ってから、尋ねた。


「もし、また誰かが襲われていたら?」


「そのときは、その場で考える。今から全部を決めることはできない」


それは、逃げるための言葉ではなかった。


何も知らない段階で、自分が何をするかを決めてしまえば、実際の状況が違ったときに、その判断に縛られることになる。


主人公は、そういう失敗を少しずつ知り始めていた。


二人が滞在先へ戻る途中、主人公はふと足を止めた。


通りの向こうに、昨日の男が立っていた。


男はこちらを見ていたが、近づいてはこなかった。


主人公も、すぐには動かなかった。


やがて男は、通りを横切る人々の間に姿を消した。


直人が低い声で言った。


「今度こそ、追うか?」


「いや」


主人公は首を振った。


「追いかけて、何を聞く?」


直人は答えなかった。


主人公は、男が消えた方向をもう一度だけ見た。


彼らが何をしているのか。


何を隠しているのか。


誰が、誰に責任を負わせようとしているのか。


まだ分からないことばかりだった。


だが、分からないことが多いからといって、すべてを自分の手で解明しなければならないわけではない。


彼は、今日も記録を残した。


そして、明日も生きていくために、仕事を探す。


それは小さな選択だった。


けれど、自分の行き先を他人に決めさせないためには、必要な選択でもあった。

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