第220章 誰が道を変えたのか
翌朝、主人公は右手の状態を確かめてから、昨日の荷車について記憶を整理した。
箱は三つ。
御者は、渡された荷物をそのまま積んだと主張していた。もう一人の男は、箱が違うと言い、側面の札を剥がした。最後には、荷車を倉庫へ戻すよう命じていた。
だが、主人公が見たのは、その一部にすぎない。
箱がどこから来たのかも、最初の行き先がどこだったのかも知らない。札に何が書かれていたかも確認していなかった。
昨日の出来事を記録することはできる。
しかし、記録できることと、そこから何かを判断できることは別だった。
「また考えているのか」
直人が朝食を持ってきて、向かいに座った。
「昨日の荷車のことだ」
「気になるなら、見に行けばいい」
「何を確かめる?」
「さあな。荷車がまだあるかとか」
主人公は少し考えた。
「それだけなら、行く必要はない」
「なら、何をするつもりだ?」
「今日は工房へ行く。昨日の仕事の続きがあるかもしれない。それに、仕事がなくても、手を悪化させずにできることを探す」
直人は肩をすくめた。
「本当に、仕事のほうが先なんだな」
「仕事を失えば、食べていけないからな」
主人公は食事を終え、右手をかばいながら外へ出た。
工房に着くと、昨日の責任者が入口で待っていた。
「ちょうどよかった。少し確認したいことがあります」
主人公は足を止めた。
「昨日の部品番号の件ですか?」
「それもありますが、別のことです。昨日、あなたが帰ったあと、部品の移送記録について問い合わせがありました」
女性は主人公を工房の奥へ案内した。
机の上には、二冊の帳面が置かれていた。
「こちらの工房から部品を出した記録は残っています。ただ、受領側の記録がありません。昨日見つけた空欄とは別の部品です」
「同じように、受け取った人が分からないということですか?」
「正確には、受け取ったとされる工房は分かっています。しかし、そちらの工房では、受領した記録が見つからないそうです」
女性は一枚の紙を差し出した。
そこには、部品番号と移送日、そして受領先の工房名が書かれていた。
「昨日、問い合わせてきた人物が、この記録の確認を求めてきました。ですが、依頼主から正式な許可を得ていないので、詳細は伝えていません」
主人公は紙を見た。
昨日、荷車の前で起きたことと、似ている部分はある。
しかし、部品番号も日付も異なる。受領側の記録がないというだけで、同じ人物や組織が関係しているとは限らない。
「俺に見せてよかったんですか?」
「あなたは昨日、この工房で働いていました。作業中に見つけた不一致について、説明しておこうと思っただけです。外へ持ち出していいという意味ではありません」
「分かりました」
主人公は紙を返した。
女性は少し迷ってから言った。
「もう一つ。あなたは、昨日、荷車の前で何かを見たのですよね?」
主人公は彼女を見た。
「どうしてそれを?」
「問い合わせてきた人物が、通りで荷物の行き先をめぐる揉め事があったと言っていました。あなたの名前は出ていません。ただ、現場にいた人がいるなら、話を聞きたいと」
主人公はすぐに返事をしなかった。
問い合わせてきた人物が、昨日の男と同一なのかどうかは分からない。
だが、荷車の出来事を知っている人間が、今日になって工房へ問い合わせてきた。それは新しい情報だった。
「俺が見た範囲なら、話せます。ただし、誰が何を指示したのかは知りません」
「それで十分です。無理に関わる必要はありません」
主人公は頷いた。
女性は問い合わせのあった時刻と、相手が残した連絡先を記録した紙を見せた。
連絡先は工房の事務所宛てで、個人名は書かれていなかった。問い合わせの目的も、部品の所在確認と記録の照合とだけ記されている。
主人公は、記録を目で追った。
「昨日の男が来たのは、何時頃ですか?」
「昼過ぎです」
「荷車の前で会った男とは、同じ人物でしたか?」
「顔までは確認していません。声も、はっきりとは覚えていません」
女性は正直に答えた。
主人公はそれ以上、質問しなかった。
これで、二つの出来事がつながったわけではない。
ただ、荷車の行き先をめぐる揉め事と、部品の受領記録の不一致について、誰かが同じ日に確認を求めていた。それだけだった。
「今日は仕事がありますか?」
主人公が尋ねると、女性は少し驚いたように笑った。
「ありますよ。昨日と同じように、部品の整理をお願いしたいです。手を使う作業は避けてください」
「分かりました」
主人公は作業に戻った。
午前中は、部品の番号と数量を確認し、記録と一致しているものを棚に戻した。違いがあれば、勝手に修正せず、責任者に報告する。
以前の彼なら、記録の空欄を見るたびに、その理由を知ろうとしたかもしれない。
今は、空欄があることと、空欄が生まれた理由を分けて考えるようになっていた。
理由が分からなくても、目の前の作業を進めることはできる。
一方で、記録の空欄が誰かの責任を左右するなら、そのままにしておくわけにもいかない。
どこまで確認するかは、状況によって変わる。
昼過ぎ、工房の入口に一人の若い男が現れた。
主人公は、部品を並べる手を止めた。
昨日、倉庫で受取人のことを尋ねていた男だった。
若い男も主人公に気づいたらしく、少し迷ったあと、責任者の女性に声をかけた。
「すみません。ここで、移送記録を確認できると聞いたのですが」
女性は慎重に尋ねた。
「どの記録ですか?」
若い男は、折り畳んだ紙を取り出した。
「この部品です。自分が運んだ荷物ではありません。ただ、以前働いていた人から、この番号について聞きました」
女性は紙を受け取り、帳面と照合した。
主人公は近づかなかった。
若い男が何を知っているのか、まだ分からない。昨日の出来事を説明するために来たのか、それとも別の理由があるのか。
女性は照合を終えると、紙を返した。
「この番号の部品について、こちらで確認できるのは、移送された記録があるということだけです。受領側の記録は、現在確認できていません」
若い男は唇を結んだ。
「やはり、そうですか」
「何か心当たりがあるのですか?」
「いいえ。正確には、心当たりがあるというより……同じことが起きているのかもしれないと思ったんです」
主人公はそこで初めて、若い男に声をかけた。
「同じことというのは?」
若い男は、主人公を見た。
「荷物を運んだ人間はいる。運んだ先も、記録には残っている。でも、受け取った人間がいない。最後には、運んだ人間だけが責任を問われる」
その言葉に、工房の空気がわずかに変わった。
主人公は、若い男の表情を見た。
昨日まで、彼は自分が何を運んだのかを確かめようとしていた。今は、個別の荷物ではなく、同じような問題が繰り返されている可能性を考えている。
だが、可能性はまだ可能性だ。
「あなたが運んだ荷物も、受領記録がなかったんですか?」
「そうです。でも、俺は受取人の顔を覚えています。荷物を渡したことも、間違いありません」
「その人が、正式な受取人だったかどうかは?」
若い男は、苦しそうに首を振った。
「分かりません。指示された場所にいた人に渡しただけです。俺は、相手が受け取ったことを証明する書類を持っていません」
主人公は、すぐには答えなかった。
その状況は、彼が以前から見聞きしてきた問題と似ていた。
しかし、似ているからといって、同じ仕組みで起きているとは限らない。
「あなたは、誰かに責任を負わせたいんですか?」
若い男は、少し驚いたように目を見開いた。
「違います。俺は、何が起きたのか知りたいんです。もし俺が間違っていたなら、間違っていたと認めます。でも、何を間違えたのかも分からないまま、全部自分のせいにされるのは納得できません」
「分かりました」
主人公はそれだけ答えた。
彼の言葉が正しいかどうかは、まだ判断できない。
ただ、若い男が求めているものは、誰かを罰することだけではなさそうだった。
女性は二人の会話を聞いたあと、若い男に言った。
「こちらの記録だけでは、あなたが運んだ荷物と、この部品が同じ案件に属するかどうかは確認できません。依頼主の許可がなければ、ほかの記録も見せられません」
「分かっています」
若い男は紙をしまった。
「ただ、もしこの工房に、同じような問い合わせが来ているなら、記録を残しておいてほしいんです。自分の件だけではないのかもしれないので」
女性はしばらく考えたあと、答えた。
「確認できた事実は、こちらで記録します。ただし、別々の案件を同じものとして扱うことはできません」
「それで構いません」
若い男は頭を下げた。
帰ろうとした彼を、主人公が呼び止めた。
「昨日、あなたを止めようとした男について、何か分かりましたか?」
若い男の顔が曇った。
「いいえ。名前も知りません。以前、荷物を運ぶ仕事を紹介してくれた人間に相談したら、もう関わるなと言われました」
「その紹介者は、昨日の男と同じですか?」
「分かりません。少なくとも、顔は違います」
主人公は頷いた。
これで、少なくとも二人の人物がいることは分かった。
仕事を紹介した人間と、昨日、彼の腕をつかんだ男。
両者がつながっているのかどうかは、まだ不明だった。
「あなたは、これからどうするつもりですか?」
主人公が尋ねると、若い男はしばらく考えた。
「別の仕事を探します。今のままでは、仕事を紹介してもらえないので。でも、今回の件は、諦めたわけじゃありません」
「分かりました」
主人公は、無理に引き止めなかった。
若い男は工房を出ていった。
責任者の女性は、彼が持ってきた部品番号を、正式な照会記録として帳面に残した。
「これで、こちらが確認できる範囲は終わりです」
女性はそう言って、帳面を閉じた。
主人公は作業に戻った。
今日、何かが解決したわけではない。
若い男は、まだ自分が運んだ荷物の受取人を確認できていない。工房の記録も、空欄を埋められていない。昨日の男が何を求めているのかも分からない。
それでも、若い男が持ってきた情報は、記録として残った。
少なくとも、彼が何も言わずに姿を消した場合とは、状況が違う。
夕方、仕事を終えた主人公は、直人と合流した。
「昨日の若い男が来たのか」
直人は、話を聞くとそう言った。
「そうだ。自分の件と似た記録を見つけたらしい。ただ、同じ案件だとは確認できなかった」
「それでも、同じような問題がある可能性は高くなったんじゃないか?」
「可能性はな」
主人公は歩きながら答えた。
「でも、ここから先は、俺が調べ続けることじゃない。工房は記録を残した。若い男も、これから自分で仕事を探すと言っていた」
「また、そこで止めるのか」
「止めるというより、役割を分けるんだ」
主人公は右手をかばいながら、前を向いた。
「俺ができることは、目の前で起きたことを正確に伝えること。自分の仕事で見つけた違いを報告すること。危険が迫ったときに、できる範囲で動くこと。それ以上は、情報も力も足りない」
直人は少し黙ってから、尋ねた。
「もし、また誰かが襲われていたら?」
「そのときは、その場で考える。今から全部を決めることはできない」
それは、逃げるための言葉ではなかった。
何も知らない段階で、自分が何をするかを決めてしまえば、実際の状況が違ったときに、その判断に縛られることになる。
主人公は、そういう失敗を少しずつ知り始めていた。
二人が滞在先へ戻る途中、主人公はふと足を止めた。
通りの向こうに、昨日の男が立っていた。
男はこちらを見ていたが、近づいてはこなかった。
主人公も、すぐには動かなかった。
やがて男は、通りを横切る人々の間に姿を消した。
直人が低い声で言った。
「今度こそ、追うか?」
「いや」
主人公は首を振った。
「追いかけて、何を聞く?」
直人は答えなかった。
主人公は、男が消えた方向をもう一度だけ見た。
彼らが何をしているのか。
何を隠しているのか。
誰が、誰に責任を負わせようとしているのか。
まだ分からないことばかりだった。
だが、分からないことが多いからといって、すべてを自分の手で解明しなければならないわけではない。
彼は、今日も記録を残した。
そして、明日も生きていくために、仕事を探す。
それは小さな選択だった。
けれど、自分の行き先を他人に決めさせないためには、必要な選択でもあった。




