第219章 選ばされた道
翌朝、主人公はいつもより早く目を覚ました。
右手の痛みは残っていたが、昨日より強くなった様子はない。医師に言われたとおり、手のひらを強く握り込むことは避けた。
今日は仕事を探す。
昨日の男が何者なのかを考え続けても、食費は出てこない。手元の金には限りがあり、回復するまで何もしないという選択も、いつまでも続けられるわけではなかった。
直人と別れたあと、主人公は以前仕事を紹介してもらった仲介所へ向かった。
受付の男は、仕事の一覧をめくりながら言った。
「今日は倉庫の整理が一件ある。ただし、荷物の積み下ろしは含まれる。右手がその状態なら、難しいんじゃないか」
「整理だけに変更できないか?」
「現場が認めればな。だが、向こうが欲しいのは人手だ。作業を選ぶ人間を何人も抱える余裕はない」
主人公は無理に頼まなかった。
「分かった。ほかには?」
男は紙を一枚取り出した。
「工房で、作業場所の片づけを手伝う仕事がある。金属部品を運ぶ作業も少しあるが、重いものはないそうだ。ただ、先方が今日中に人を決めると言っている」
「作業内容を確認してから返事をしてもいいか?」
「それは構わない。ただし、断れば別の人間に回す」
主人公は紹介状を受け取った。
工房へ向かう道すがら、彼は仕事の条件を頭の中で整理した。
手を使わずに済む仕事が理想だが、そんな仕事ばかり探していれば、選択肢は狭まる。一方で、無理をして傷を悪化させれば、数日分の収入どころではなくなる。
できることと、できないこと。
その境界は、毎日同じではない。
工房に着くと、責任者らしい女性が作業台の前で帳面を確認していた。
「紹介所から来た人?」
「はい。仕事内容を確認したいのですが」
女性は主人公の右手を見た。
「その手では、部品を持つのは難しいでしょう。今日は作業台の整理と、部品番号の確認が中心です。箱を動かす作業は、ほかの人に任せます」
「それならできます」
「途中で痛みが出たら、すぐに言ってください。無理をされて作業が止まるほうが困りますから」
主人公は条件を確認してから引き受けた。
仕事は単純だった。
棚に並んだ部品を番号ごとに分け、古い記録と照合し、数量の違いがあれば責任者に報告する。以前の倉庫整理と似ている部分もあったが、今回は誰かの荷物を運ぶ仕事ではない。工房の内部で、部品の所在を確かめるための作業だった。
午前中は、特に問題もなく過ぎた。
昼休み、主人公が水を飲んでいると、工房の入口で声がした。
「昨日、こちらに人を寄越したはずだが」
聞き覚えのある声だった。
主人公は顔を上げた。
入口に立っていたのは、昨日、滞在先まで来た男だった。
男も主人公に気づいたらしい。わずかに視線を止めたが、驚いた様子は見せなかった。
「何の用ですか?」
責任者の女性が尋ねた。
「部品の所在を確認したい。先日、こちらに持ち込まれたものの中に、番号の合わない品があったと聞いた」
「どの番号ですか?」
男は紙を取り出した。
女性は紙を受け取り、帳面と見比べた。
「この番号の部品は、先週、別の工房へ移しています。こちらには残っていません」
「移送記録を見せてもらえるか」
「依頼主の許可が必要です」
「確認するだけだ」
「確認だけでも、記録は記録です。こちらの判断では渡せません」
男は紙をしまった。
「では、責任者に伝えておいてくれ。今のままでは、そちらにも不利益が生じる可能性がある」
「具体的に、どのような不利益でしょうか?」
女性の問いに、男は答えなかった。
そのまま工房を出ていった。
主人公は、男の背中を目で追った。
昨日、男は若い運び手の件から手を引けと言った。
今日は部品の所在を確認し、記録を見せるよう求めていた。
同じ男が、別の場所で、別の話をしている。
それだけなら、二つの出来事に関係があるとは限らない。
だが、男がここへ来たこと自体は、新しい事実だった。
「知り合いですか?」
責任者の女性が尋ねた。
「昨日、別の場所で会いました。詳しい事情は知りません」
主人公はそう答えた。
女性は少し考えたあと、帳面を閉じた。
「今の話は、あなたが気にする必要はありません。作業に戻ってください」
「分かりました」
主人公はそれ以上尋ねなかった。
この工房で働く以上、女性には女性の責任がある。自分が見たことをすべて話す義務があるわけでも、主人公に事情を説明する義務があるわけでもない。
彼にできるのは、自分が確認した範囲を正確に覚えておくことだけだった。
午後の作業が終わる頃、主人公は部品番号の一覧に、一つだけ気になる箇所を見つけた。
帳面には、ある部品が別の工房へ移されたと記されている。
しかし、移送先の受領欄は空白だった。
主人公はすぐに責任者を呼んだ。
「この部品ですが、移送先の受領欄が空いています」
女性は帳面をのぞき込んだ。
「……本当ですね」
「ほかの記録には、受け取った人の名前がありますか?」
「確認します。あなたはそのままにしておいてください」
女性は別の帳面を取り出し、しばらく照合を続けた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「この部品は、移送先の工房が受領を認めていないようです。ただし、こちらの工房から出たこと自体は、記録されています」
「では、どこにあるのかは分からない?」
「少なくとも、今ここにある記録だけでは分かりません」
女性は該当箇所に印を付け、帳面を閉じた。
「これは私が確認します。あなたは、見つけた違いを報告してくれれば十分です」
主人公は頷いた。
その部品が、昨日の若い運び手の件と関係しているのかどうかは分からない。
番号も違う。関係者の名前も確認できていない。
似たような問題が存在するというだけで、同じ出来事にまとめることはできなかった。
仕事を終えた主人公は、約束どおり賃金を受け取り、工房を出た。
外では、直人が待っていた。
「どうだった?」
「仕事はできた。手を無理に使わずに済んだ」
「それならよかった」
主人公は歩きながら、今日の出来事を説明した。
昨日の男が工房に現れたこと。部品の所在を確認しようとしたこと。そして、別の部品の移送記録にも、受領欄の空白があったこと。
直人は最後まで聞いてから言った。
「やっぱり、昨日の男は何かを探しているんじゃないか?」
「そうかもしれない」
「それでも、追わないのか」
「今はな」
主人公は足を止めた。
「今日、俺が見つけたのは、記録の不一致だ。男が何を探しているのかも、若い運び手の件と関係があるのかも、分からない。ここで俺が勝手に結びつけたら、また同じことになる」
「じゃあ、何をする?」
「今日の仕事は終わった。賃金も受け取った。明日も働けるように、手を治す」
直人は苦笑した。
「現実的だな」
「現実的じゃなければ、続かないからな」
二人は再び歩き出した。
そのとき、通りの向こうから荷車が近づいてきた。
荷台には、木箱が三つ積まれていた。車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、箱が小さく揺れる。
荷車のそばを歩いていた男が、突然、御者に何かを告げた。
御者は驚いたように手綱を引いた。
荷車が止まる。
男は荷台の箱を一つ指さし、何度も首を振っていた。
「この箱じゃない。積み直せと言ったはずだ」
「俺は渡されたものを、そのまま積んだだけだ!」
声が通りに響いた。
周囲の人々が足を止めた。
主人公は反射的にそちらを見たが、すぐには近づかなかった。
荷物が落ちたわけではない。誰かが殴られたわけでもない。今の時点では、何が起きているのか分からない。
昨日までの自分なら、すぐに事情を聞こうとしていたかもしれない。
今は、まず周囲を見た。
道は塞がれているが、人が通れる余地はある。荷車の近くに武器を持った者はいない。御者と男の間には距離があり、争いは口論の段階にとどまっている。
主人公は、直人に言った。
「少し離れておこう」
「止めなくていいのか?」
「今は、止める必要があるかどうかも分からない」
二人は道の端に寄った。
その直後、男が箱の側面に貼られた札を引き剥がした。
御者が叫んだ。
「それを剥がしたら、どこへ運ぶ箱なのか分からなくなる!」
男は札を手にしたまま、答えた。
「だから、最初から間違っていたと言っているんだ」
主人公は、そのやり取りを見つめた。
札が間違っていたのか。
箱そのものが違っていたのか。
それとも、箱を運ぶことになった経緯に問題があったのか。
まだ何も分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼らは今、箱の中身ではなく、箱がどこへ向かうべきだったのかを争っている。
そして、誰かが札を剥がしたことで、少なくとも今まで箱に付いていた行き先の表示は失われた。
主人公は、すぐに記録帳を取り出そうとはしなかった。
これは自分の仕事ではない。
誰かが助けを求めたわけでもない。
今のところ、彼が介入しなければならない理由は見当たらなかった。
けれど、立ち去る直前、御者が周囲を見回し、通りすがりの人々に向かって言った。
「誰か、さっきの札を見ていなかったか!」
主人公は足を止めた。
御者の視線が、こちらへ向く。
「そこの人。今、見ていただろう。札には何と書いてあった?」
主人公は、すぐには答えなかった。
見ていたのは、札が剥がされるところだけだ。
それ以前の文字は、確認していない。
「剥がされるところは見ました。でも、書かれていた内容までは分かりません」
御者は落胆したように顔を伏せた。
「そうか……」
男は札を握りつぶし、荷台の箱を見た。
「もういい。別の場所へ運べ」
「行き先を決める指示は出ていない!」
「ここに置いておくわけにもいかないだろう」
二人の声が再び強くなる。
主人公は、その場から動かなかった。
今度は、何かを調べたいからではない。
箱を運ぶ者が、行き先を知らないまま動かされようとしていたからだ。
それがどのような結果を招くのか、彼にはまだ分からない。
だが、少なくとも今の御者は、自分の判断だけでは行き先を変えられないと理解している。
主人公は、男に向かって尋ねた。
「その箱を別の場所へ運ぶよう指示したのは、誰ですか?」
男が振り返った。
「お前には関係ない」
「そうかもしれません。ただ、御者に運ばせるなら、行き先を伝える必要があるでしょう」
「余計な口を挟むな」
男が一歩近づいた。
主人公は、右手をかばいながら半歩下がった。
逃げ道を塞がれない位置を保つ。
今度は、相手が近づいてから考えるのではなく、近づく前に距離を取った。
男は主人公の手を見て、鼻で笑った。
「昨日の忠告を聞いていなかったのか」
主人公の目が、わずかに動いた。
昨日、滞在先まで来た男。
今日、工房で記録の提示を求めた男。
そして今、荷車の前に立っている男。
目の前の男が昨日の人物と同一なのか。
声と顔を照らし合わせようとした、その瞬間。
荷車の御者が、主人公に向かって叫んだ。
「頼む! あんたが知っていることだけでいい。俺が何を運ぶことになっていたのか、証言してくれ!」
主人公は、御者を見た。
そして、答えた。
「俺が見たのは、あなたが箱を運んでいたことと、今、行き先をめぐって争っていることだけです。それ以上は、証言できません」
御者は唇を噛んだ。
主人公は続けた。
「でも、今から行き先を変えるなら、その指示を出した人と、受け取る人を確認したほうがいい。それができないなら、少なくとも、誰が指示を出したのか分かる形にしておくべきです」
男は主人公を睨んだ。
「お前は、何も知らないくせに」
「そうです。だから、知らないことを知っているとは言いません」
一瞬、周囲の音が遠のいたように感じられた。
男は、手の中の札を見下ろした。
それから、御者に向かって言った。
「今日はここまでだ。荷物は倉庫へ戻せ」
「戻す指示は、誰の名前で記録すればいい?」
御者の問いに、男は答えなかった。
そのまま人混みへ歩き去っていった。
主人公は、男を追わなかった。
代わりに、御者が荷車を安全な場所へ移動させるのを見届けてから、直人とその場を離れた。
「昨日の男だったのか?」
直人が尋ねた。
「確かめられなかった。似ていると思っただけだ」
「また、受取人の話だな」
「そうだな。でも、同じ問題とは限らない」
主人公は、右手を軽く動かした。
痛みが走る。
まだ、まともに戦える状態ではない。
だからこそ、今日の自分ができることと、できないことを区別しなければならなかった。
それでも、さっきの御者の言葉は頭に残っていた。
――俺が何を運ぶことになっていたのか、証言してくれ。
彼が求めていたのは、誰かを犯人にするための証言ではなかった。
自分が何をしていたのか、それだけでも確かな形で残したかったのだろう。
主人公は、歩きながら考えた。
人は、知らないことによって責任を負わされることがある。
だが、知らないことをすべて他人のせいにするわけにもいかない。
自分にできるのは、知らないことを認めたうえで、これから何を確認するべきかを考えることだった。
そして、もし次に誰かが助けを求めてきたなら。
そのときは、相手の代わりにすべてを背負うのではなく、相手自身が選べる道を残すこと。
主人公は、そう考えながら、直人とともに帰路を歩いた。




