第217章 取り戻せない時間
翌朝、彼が倉庫に着くと、店主から仕事がないと告げられた。
「昨日まで頼んでいた運搬は、しばらく止めることになった」
「何か問題があったんですか?」
「依頼主側で、荷物の管理方法を見直しているらしい。詳しいことは聞いていない」
店主はそう言って、別の帳面を開いた。
「今日は倉庫の整理だけなら頼める。ただし、半日分の仕事しかない」
彼は仕事内容と報酬を確認し、引き受けた。
半日分の仕事でも、収入がまったくないよりはいい。何より、今の彼には、身体に無理をさせずに働ける仕事が必要だった。
作業を始めて間もなく、倉庫の入口から一人の若者が入ってきた。
二十歳前後だろうか。服には埃がつき、片方の袖が破れていた。
若者は店主を見つけると、急いで近づいた。
「昨日、ここから出した荷物について、確認したいことがあります」
店主は手を止めた。
「どの荷物だ?」
若者は紙を取り出した。
「北側の倉庫へ運ぶ予定だった箱です。途中で受取先が変わったと聞いたんですが、最初に指示された場所へ届いていないと、運んだ人間が責められています」
彼は、その話を聞いて顔を上げた。
北側の倉庫。
運搬途中の受取先の変更。
荷物を運んだ者が、引き渡しの記録を残せないまま責任を問われる。
以前、直人から聞いた若い水路作業員の話と似ていた。
しかし、似ているだけだった。
今回の若者が話している荷物と、以前の荷物が同じだという証拠はない。
店主は紙を受け取り、内容を確認した。
「うちが直接手配した仕事なのか?」
「分かりません。依頼書には、この倉庫の名前が書かれていました」
店主は紙を見直した。
「この番号の荷物は、昨日、別の仲介人が引き取っている。うちが直接運搬を手配したものではない」
「では、誰に聞けばいいんでしょうか」
「仲介人の名前は、依頼書の裏に書いてあるはずだ」
若者は紙を裏返した。
そこには、短い名前と連絡先が記されていた。
「ありがとうございます」
若者は頭を下げ、倉庫を出ようとした。
そのとき、入口に別の男が現れた。
男は若者を見ると、足を止めた。
「まだ、こんなところにいたのか」
若者の顔がこわばった。
「私は、確認に来ただけです」
「確認することはない。話は終わっているだろう」
男は若者の腕をつかもうとした。
若者は身を引いた。
「まだ、荷物を受け取った人の名前も分かっていません」
「それはお前が考えることじゃない」
男が再び手を伸ばした。
彼は、すぐには間に入らなかった。
相手の立場も、二人の間で何があったのかも分からない。だが、若者が腕をつかまれそうになっていることは見て取れた。
彼は二人の間に近づき、男の手が若者に届く前に声をかけた。
「ここは倉庫の入口です。話をするなら、店主の前で話してください」
男が振り向いた。
「お前は誰だ?」
「ここで働いている者です」
「仕事に関係のないことへ口を出すな」
男は彼の肩を押した。
右手に痛みが走った。
彼は反射的に右手を引いた。身体がわずかに傾いたが、足を踏み直して倒れるのを防いだ。
以前なら、相手の腕をつかんで押し返そうとしたかもしれない。
しかし、今の右手では十分に力を入れられない。無理に争えば、傷が開くだけでなく、次の動きにも対応できなくなる。
彼は距離を取り、店主の方へ目を向けた。
「店主、この方は倉庫の仕事について話をしに来たようです。ここで確認してもらえますか」
店主はすぐに二人へ近づいた。
「ここで揉め事を起こすな。話があるなら、何の用件なのか説明しろ」
男は舌打ちした。
「こいつが、終わった話を蒸し返しているだけだ」
若者が反論した。
「終わっていません。私は、荷物を渡した相手の名前を確認したいだけです」
「お前は、指定された場所に荷物を届けなかった。その責任を取ればいい」
「私は途中で別の人に荷物を渡しました。受取先が変わったと説明されたからです」
男は答えなかった。
店主は二人を見比べた。
「ここでは、その荷物が実際にどこへ運ばれたのか確認できない。依頼書と受領記録を持って、手配した仲介人のところへ行け」
「その仲介人が、私に責任を押しつけているんです」
若者の声には焦りがあった。
「だから、誰が受け取ったことになっているのか、確認したいんです」
男は若者の腕をつかもうとしたが、店主がその前に立った。
「ここではやめろ。これ以上続けるなら、仕事の話ではなくなる」
男はしばらく店主をにらんでいたが、やがて手を下ろした。
「好きにしろ。ただし、後で困るのはお前だ」
男は倉庫を出ていった。
若者は、しばらく入口を見つめていた。
彼は若者に尋ねた。
「怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
若者は腕をさすりながら答えた。
彼は、自分の右手に痛みが残っていることを確かめた。傷が開いた様子はないが、しばらくは無理に動かさない方がよさそうだった。
店主が若者に言った。
「うちで確認できるのは、荷物が昨日、仲介人に引き渡されたところまでだ。それより先は、手配した側に確認してくれ」
若者は、もう一度頭を下げた。
「分かりました。ありがとうございました」
若者は依頼書を握り直し、今度こそ倉庫を出ていった。
彼は、しばらく作業に戻れなかった。
今の出来事は、以前の荷物の問題と関係があるのだろうか。
北側の倉庫という場所も、受取先の変更という話も、過去の記録と似ている。
しかし、今回の若者が運んだ荷物の番号は分からない。仲介人の名前も、まだ確認していない。
彼は店主に尋ねた。
「今の若者が話していた荷物について、こちらに残っている記録はありますか?」
「番号が分かれば調べられる。ただ、今の話だけでは、どの荷物か特定できない」
「分かりました」
彼は、それ以上尋ねなかった。
自分から若者を追いかけて、詳しい事情を聞くこともできた。
だが、若者が何を望んでいるのか、どこまで話してよいと考えているのかは分からない。本人が求めていないのに、過去の経験と結びつけて質問を重ねることは避けたかった。
その日の作業を終えると、店主は約束した報酬を渡した。
彼は報酬を受け取り、右手の状態を確認した。
痛みは残っていたが、傷は大きく開いていない。
ただ、今日のようなことが続けば、仕事にも訓練にも影響が出る。
宿へ戻る途中、直人と合流した。
直人は彼の手を見ると、すぐに尋ねた。
「何かあったのか?」
彼は倉庫で起きたことを説明した。
若者が話していた荷物についても、分かっている範囲だけを伝えた。
直人は話を聞き終えると、しばらく考えた。
「北側の倉庫か……。以前の荷物の話と似ているな」
「そうだな。でも、同じ荷物だとは確認できていない」
「調べるつもりか?」
彼は少し考えた。
「今のところは、まだ何も決めていない。若者が何を求めているのかも、どこまで事情を知っているのかも分からないからな」
直人はうなずいた。
「それなら、まず自分の手を治せ。無理をすれば、仕事も訓練も続けられなくなる」
「分かっている」
宿に戻ると、彼は包帯を取り替えた。
右手には、まだ痛みが残っている。
今日、男に押されたとき、彼は反撃しなかった。
それは、相手に勝てる自信がなかったからだけではない。今の自分が何を守れるのか、どこまで動けるのかを考えた結果でもあった。
それでも、若者が一方的に腕をつかまれそうになったとき、見ているだけではいられなかった。
自分にできることと、できないこと。
引き受けるべきことと、引き受ける必要のないこと。
その境界は、いつも簡単に決められるわけではない。
彼は明日の予定を確認した。
まずは手の状態を見て、訓練を調整する。
仕事があれば、無理のない範囲で続ける。
そして、今日の若者については、現時点で分かっていることだけを記録しておく。
それ以上の判断は、まだ先のことだった。
彼は灯りを消し、静かに横になった。




