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観客のいない世界  作者: 亀


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第218章 守れなかったものの先

朝、目を覚ました主人公は、まず右手を確かめた。


指をゆっくり曲げる。


昨日、肩を押されたときに走った痛みは、まだ残っていた。強く握ろうとすると、手のひらの傷が引きつる。何も持てないほどではない。しかし、いつもどおりに動かせるわけでもなかった。


彼は無理に握り込むのをやめた。


「今日は休むか」


直人が尋ねた。


「仕事は休む。訓練も、手を使うものはやめる」


「珍しく素直だな」


「ここで無理をして、明日も明後日も動けなくなるほうが困る」


口にしてみると、昨日までよりも少しだけ、自分の考えが整理されている気がした。


以前なら、動けるかどうかだけを基準にしていた。


今は、動いた結果、何を失う可能性があるのかも考えるようになっていた。


それでも、休むと決めたからといって、昨日の出来事が終わるわけではない。


若い男の顔が浮かんだ。


荷物を受け取った相手が分からない。その責任だけを運び手に負わせようとする人間がいた。そして、男が事情を調べようとすると、腕をつかんで黙らせようとした。


主人公は、あの場で男を追わなかった。


追わなかったこと自体は、間違いだったとは思わない。右手はまだ使いにくく、相手の人数も分からなかった。あそこで争えば、若い男を守るどころか、自分まで動けなくなっていた可能性がある。


ただし、追わなかったことと、何もできなかったことは同じではない。


そこだけは、区別しておきたかった。


昼前、直人が外から戻ってきた。


「昨日の倉庫に行ってきた」


主人公は顔を上げた。


「何かあったのか」


「若い男が、また来たらしい。お前を探していたわけじゃない。倉庫の主人に、紹介された仲介人のところへ行く道を聞いていたそうだ」


「それで?」


「途中で引き返した」


直人は、聞いた話をそのまま伝えるように、余計な言葉を挟まなかった。


「理由は分からない。仲介人のところに着いたかどうかも分からない。ただ、倉庫の主人は、昨日の男が今日も近くを歩いているのを見たと言っていた」


主人公はしばらく黙っていた。


昨日の男が、若い男の行き先を予測して待っていたのか。それとも、別の用事で近くにいただけなのか。


今の情報だけでは判断できない。


「倉庫の主人は、若い男の名前を知っているか?」


「知らないそうだ。紙の裏に仲介人の名前が書かれていた。それだけだ」


「なら、俺たちが探し回る理由はないな」


直人は意外そうに主人公を見た。


「気にならないのか」


「気になる。でも、気になることと、俺が引き受けるべきことは別だ」


主人公は机の上に置いてあった記録帳を閉じた。


「本人が助けを求めてきたなら、話は変わる。今のところ、俺が知っているのは、あいつが誰かに責任を押しつけられているらしいことと、昨日、腕をつかまれていたことだけだ」


「それで十分じゃないのか」


「十分だからこそ、勝手に続きを作りたくない」


若い男が何を運んだのか。誰に渡したことになっているのか。誰が本当に利益を得たのか。


どれも、まだ分からない。


分からないまま助けようとすれば、相手の事情を自分の想像で塗り替えてしまうかもしれない。


それは避けたかった。


午後、主人公は直人に付き添われて、以前から世話になっている医師のところへ向かった。


傷そのものは悪化していなかったが、手のひらにはまだ負担をかけないほうがよいと言われた。昨日のように肩を押された程度でも、かばっている手に力が入れば、痛みが長引くことがあるらしい。


「治るまで、どれくらいかかる?」


主人公が尋ねると、医師は少し考えてから答えた。


「今の状態なら、順調に回復する可能性はある。ただし、いつ完全に戻るかは、実際の経過を見なければ分からない。痛みを我慢して使い続ければ、かえって長引くこともある」


主人公は頷いた。


具体的な日数は得られなかった。


しかし、曖昧な約束をもらうよりはよかった。


医師のところを出た帰り道、直人が尋ねた。


「手が戻るまで、あの訓練も休むのか」


「手を使う動きは減らす。でも、全部やめるつもりはない」


「走るのか?」


「走る。息の整え方も、周囲を見ることも、距離を取ることも、右手だけで覚えるものじゃないからな」


直人は笑わなかった。


「それでも、相手が武器を持っていたら?」


「今の俺じゃ、正面から止めるのは難しい」


主人公は、道の向こうを歩く人々を見た。


「だから、止める以外の方法を覚える。相手の手が届く前に離れる。逃げ道を確保する。誰かを呼ぶ。何を守るのかを先に決める」


「昨日は、最後のところで迷ったんじゃないか」


「そうだな」


主人公は否定しなかった。


「若い男を放っておきたくなかった。でも、あいつの問題を全部引き受けるつもりもなかった。その二つを、同時に考えるのは難しい」


「簡単なら、誰も苦労しない」


「そうだな」


短い会話だった。


けれど、主人公はその言葉を覚えておくことにした。


自分が強くなるというのは、誰にでも勝てるようになることではない。


勝てない相手から逃げられること。守るべきものを見失わないこと。そして、誰かを助けようとした結果、自分が倒れたときに何が起きるのかまで考えられること。


それらも、強さの一部なのだろう。


その日の夕方、二人が滞在先に戻ると、入口のそばに見知らぬ男が立っていた。


年齢は三十代の半ばほど。目立つ服装ではない。腰にも武器らしいものは見えなかった。


だが、主人公たちを見ると、男はまっすぐにこちらへ歩いてきた。


「昨日、倉庫で揉め事に首を突っ込んだのは、あんたか」


直人が一歩前に出た。


「誰の話だ?」


「若い運び手だ。荷物の受取人を探している男がいただろう」


主人公は男の顔を見た。


昨日、若い男の腕をつかんだ人物とは違う。


少なくとも、主人公の記憶には一致する顔がなかった。


「何の用だ」


「大したことじゃない。あの件から手を引けと伝えに来ただけだ」


「俺は何も調べていない」


「それなら、今後も調べなければいい」


男の口調は穏やかだった。


脅すように声を荒らげることも、距離を詰めることもない。


だからこそ、主人公はすぐに返事をしなかった。


男が本当に伝言を頼まれただけなのか。それとも、主人公が何を知っているのかを確かめに来たのか。


どちらとも判断できない。


「その若い男に、何か問題があるのか?」


「それをあんたが知る必要はない」


「なら、俺が手を引くかどうかを、あんたが決める必要もないだろう」


男の目が、わずかに細くなった。


「昨日、あんたは何もできなかった。今日も、手を痛めている。余計なことをしなければ、そのまま暮らしていける」


直人が口を開きかけたが、主人公が手で制した。


右手ではないほうの手だった。


「俺が何をできるかは、俺が決める」


「そうか」


男はあっさりと引き下がった。


「なら、せめて覚えておくといい。あの男が失ったものを取り戻そうとすれば、今度は別の人間が困ることになる」


「それは、あんたが困るという意味か?」


男は答えなかった。


一度だけ主人公を見てから、通りの人混みに紛れていった。


直人は、男が見えなくなってから言った。


「今度は、別の人間か」


「そう聞こえたな」


「同じ連中の仲間だと思うか?」


「分からない。昨日の男と知り合いなのかも、若い男の件に直接関係しているのかも、まだ分からない」


主人公は入口から離れ、部屋へ戻った。


「ただ、一つだけ変わった」


「何が?」


「俺は何も調べていなかった。それなのに、向こうから来た」


彼は椅子に座り、右手を机の上に置いた。


これまでにも、知らない人物から忠告を受けたことはあった。匿名の紙片も、説明のつかない行動も見てきた。


しかし、今回の男は違った。


主人公が何をしたかではなく、これから何をするかを止めに来た。


それが、若い男を守るためなのか。あるいは、別の事情があるのか。


まだ判断できない。


「明日、どうする?」


直人が尋ねた。


主人公はすぐには答えなかった。


右手はまだ痛む。仕事を休んだ分だけ、手元の金も減っていく。今の自分に、誰かの問題を抱え込めるほどの余裕はない。


それでも、今日の出来事をなかったことにはできなかった。


「まず、仕事を探す。手を悪化させない範囲でな」


「それから?」


「若い男が自分で助けを求めてきたら、話を聞く。そうでなければ、今は追わない」


直人は頷いた。


「分かった」


主人公は記録帳を開いた。


昨日の出来事と、今日の出来事を分けて書く。


昨日、若い男は受取人を確かめようとしていた。


今日、別の男が、その問題から手を引くよう求めてきた。


両者のつながりは不明。


男が口にした「別の人間」が誰なのかも不明。


彼は最後に、短く一行を付け加えた。


――こちらが動く前に、動きを止めようとする者が現れた。


書き終えたところで、主人公はペンを置いた。


記録を残すこと自体が、相手を止める力になるわけではない。


だが、何も知らないまま相手の言葉に従うことも、何も分からないまま相手を追いかけることも、今の自分には選べなかった。


次に必要なのは、判断を増やすことではない。


判断したあと、自分の身を守りながら動けるだけの力だった。


その夜、主人公は右手を使わない形で、逃げるための足運びを繰り返した。


何度か、動きが乱れた。


焦ると、視線が足元に落ちる。距離を取ろうとすると、出口を確認するのが遅れる。相手を意識しすぎると、背後への注意が消える。


彼は一つずつ、動きを止めて確かめた。


今夜の練習で、急に強くなれるわけではない。


それでも、昨日と同じ状況に置かれたとき、昨日とは違う選択ができる可能性はある。


その可能性を、少しずつ増やしていく。


今の主人公にできることは、まずそこからだった。

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