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観客のいない世界  作者: 亀


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第212章 不在の責任者

翌朝、彼が倉庫に着くと、店主は入口で誰かと言い争っていた。


「昨日も説明したはずだ。こちらは渡された指示書に従っている」


「だが、受け取る側が違うと言っている。荷物を運んだ者にも責任があるだろう」


相手は、濃い色の上着を着た中年の男だった。手には数枚の書類を持っている。


彼は二人の会話を聞きながら、少し離れた場所で待った。


店主が彼に気づき、手招きした。


「ちょうどいい。昨日、記録を担当したのは君だったな」


「はい」


「昨日の荷物について、記録を見せてくれ」


彼は帳面を取り出した。


荷物が到着した時刻、運び手の名前、指示書に記載された棚の番号、実際に荷物を置いた場所。そこまでの情報は記録してあった。


店主は帳面を中年の男に渡した。


男は記録を確認し、指示書と照らし合わせた。


「この番号で間違いないんだな?」


「指示書に書かれていた番号を、そのまま記録しました」


彼は答えた。


「指示書が正式なものかどうかまでは、確認していません」


男は顔を上げた。


「では、君は内容が正しいかどうかも確かめずに記録したのか」


「指示書を発行した人と、内容を承認した人が誰なのか、私には確認できなかったからです。私は、実際に書かれていた内容と、荷物が置かれた場所を記録しました」


男は不満そうに帳面を閉じた。


「それでは、責任を果たしたことにはならないだろう」


彼はすぐに反論しなかった。


男の言い分にも、確認すべき部分はあった。


もし彼が正式な指示を確認する役割まで任されていたのなら、記録だけでは足りなかったかもしれない。


しかし、今回の仕事で彼に求められていたのは、倉庫内の番号と配置を確認することだった。指示書の承認を判断する権限は与えられていない。


「今回、私に依頼された仕事の範囲では、指示書の承認を判断することになっていませんでした。必要なら、今後はその確認も仕事の条件に加えてください」


中年の男は黙った。


店主が口を開いた。


「こちらも、誰が承認したのか分からない書類を、正式な指示として扱うわけにはいかない。荷物を置いた場所は記録してある。必要なら、そこから確認すればいい」


「その確認に時間がかかれば、納品が遅れる」


「だからといって、誰が指示したのか分からないまま、勝手に荷物を移動させることもできない」


二人の意見は一致しなかった。


中年の男は書類をまとめ、店主に言った。


「責任者に報告する。今日中に回答を出せるかは分からない」


「分かった。回答が来るまでは、荷物を動かさない」


男は倉庫を出ていった。


店主は、しばらく入口を見つめていた。


「まったく、面倒なことになったな」


彼は帳面を受け取った。


「昨日の運び手には、何か連絡が必要ですか?」


「いや、今のところは必要ない。こちらから確認を求めることがあれば連絡する」


彼はうなずき、作業に戻った。


午前中は、昨日までに整理した棚の記録を確認した。


箱の番号と配置に間違いがないか、移動した箱が記録から抜けていないかを調べる。右手の傷に負担をかけないよう、紙を押さえるときも力を入れすぎないようにした。


作業の途中、店主が彼のところへ来た。


「さっきの男の話だが、あまり気にしなくていい。君に指示書の承認まで任せたつもりはない」


「分かりました」


「ただ、今後もこういう問題が起きるなら、仕事のやり方を変える必要があるかもしれない」


彼は少し考えた。


「確認する人が決まっていれば、作業を止める必要も減ると思います」


「そうだな。誰が確認するかを決めずに、全員に責任があると言っても、結局は誰も判断できない」


店主はそう言って、別の作業に戻った。


昼休み、彼は直人と一緒に食事をした。


直人は朝の出来事を聞くと、眉を寄せた。


「結局、誰が間違えたんだ?」


「まだ分からない」


「指示書を作った人か、承認した人か、それとも倉庫側の確認不足か」


「どれも可能性はある。でも、今の記録だけでは決められない」


彼は箸を置いた。


「それに、誰か一人が間違えたと決まったとしても、それだけで全部が解決するとは限らない。次に同じことが起きないようにするには、指示がどこから来て、誰が確認するのかを決める必要がある」


直人は彼を見た。


「前なら、原因を調べるために自分から動いていたかもしれないな」


「そうかもしれない。でも、今回は俺が調べるように依頼されたわけじゃない」


「それでも、気にならないわけじゃないだろう?」


「気にはなる。ただ、気になることと、自分が引き受けることは別だ」


直人は笑った。


「その考え方は、少しずつ身についてきたな」


彼は否定しなかった。


午後の作業を終える頃、店主は彼に今日の報酬を渡した。


「明日も頼みたい。昨日と同じ条件でいいか?」


「はい。記録の確認が中心なら、問題ありません」


「分かった」


彼は報酬を受け取り、帳面をしまった。


倉庫を出るとき、入口の脇に荷物が一つ置かれているのが見えた。


昨日の荷物ではない。


新しい札が貼られ、受取先の欄には倉庫の名前が書かれていた。しかし、受取人の名前は空白だった。


彼は一度立ち止まったが、すぐに店主へ知らせた。


店主は札を確認し、荷物を倉庫の中へ運ぶよう指示した。ただし、受取人が確認されるまでは、ほかの荷物と分けて保管することになった。


彼はその指示を見届けてから、倉庫を後にした。


以前なら、受取人が誰なのか、なぜ名前がないのか、誰が荷物を置いたのかを調べようとしたかもしれない。


今は違った。


自分の役割として必要なことは知らせた。


その後の判断は、責任を持つ人間に任せる。


それで十分な場面もある。


夕方、訓練場に着くと、男は彼の歩き方を見て言った。


「今日は疲れているな」


「仕事で少し歩きました」


「なら、今日は短くする。ただし、疲れているときにどう動くかも覚えておけ」


男は彼に、ゆっくりと距離を取る練習をさせた。


相手が近づいてきたら、正面から押し返そうとせず、足を動かして進路をずらす。疲れていると、判断が遅れ、動き出す前に距離を詰められる。


彼は何度か相手の腕に触れられた。


「遅い」


男が言った。


「相手が動いてから考えるな。相手が動く前に、どこへ逃げるかを決めておけ」


彼は呼吸を整えた。


「ですが、相手が予想と違う動きをしたら?」


「そのときは、次の道を選べ。最初の判断に固執するな」


彼は再び動いた。


今度は、正面の動きだけを見ず、背後と左右の空間も意識した。


完璧にはできなかった。


それでも、一度だけ、相手の腕が届く前に横へ抜けることができた。


男はそれを見て、短くうなずいた。


「今日はここまでだ」


訓練を終えた彼は、帰り道で右手を確認した。


傷はまだ残っている。


強くなるには時間がかかる。仕事も、生活も、すぐに安定するわけではない。


それでも、少しずつできることは増えていた。


以前の彼は、問題を見つけると、その先にある事情まで自分で確かめようとしていた。


今は、自分が知っていることと、知らないことを分けられるようになってきた。


そして、自分が判断できる範囲と、他人が責任を持つべき範囲も、少しずつ見分けられるようになっていた。


それは、何かを諦めることとは違う。


自分が引き受けるべきことを、きちんと引き受けるための準備だった。


彼は宿へ戻り、明日の予定を確認した。


明日も倉庫で働く。


その後は訓練を続け、ほかの仕事も探す。


今は、それでよかった。

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