第211章 棚の奥に残ったもの
翌朝、彼は目を覚ますと、まず右手の傷を確認した。
赤みは少し引いていたが、掌を強く曲げると、まだ痛みが残る。
昨日の倉庫仕事を続けることはできるかもしれない。しかし、同じ作業を何日も繰り返せば、傷が再び開く可能性もあった。
彼は朝の訓練で、男にそのことを伝えた。
「今日は手に負担をかける動きを避けたいと思っています」
「なら、そうしろ」
男は簡単に答えた。
「ただし、休むことと、何もしないことは違う。走れるなら走れ。足を動かせるなら、足を使う練習を続ければいい」
彼は走り始めた。
昨日の作業で疲れが残っていたため、速度は上げなかった。一定の呼吸を保ち、足元を確かめながら走る。
走り終えた後は、男の指示で進路を変える練習をした。右手を使わず、相手の動きを見て、横へ抜ける。距離が近すぎるときは、無理に突破しようとせず、体勢を立て直す。
何度か失敗したが、最後には一度だけ、男が進路を塞ぐ前に動き出すことができた。
「今のは、何を見て動いた?」
「足の位置です。身体が動く前に、どちらへ進むのかを考えました」
「それだけで判断するな。相手が足を動かさずに進路を塞ぐこともある。今日は一つの変化に気づけた。それで十分だ」
彼はうなずいた。
訓練を終えた後、昨日の倉庫へ向かった。
店主は彼を見ると、すぐに仕事の話を始めた。
「今日は昨日の続きだ。残っている箱を整理してほしい。ただし、昨日より重いものが多い」
彼は右手の状態を説明した。
店主は少し考えた。
「なら、箱の移動は別の者に任せる。お前は番号の確認と、棚の記録を担当してくれ」
「それならできます」
仕事の内容が決まり、彼は倉庫の奥へ向かった。
昨日、番号の違う札が二枚貼られていた箱は、同じ棚に置かれたままだった。
彼はその箱を確認し、昨日の記録と照合した。
二枚の札は、どちらも残っている。
店主に尋ねると、別の担当者が番号を付け直した際、古い札を剥がさずに残した可能性があるという。
「その担当者は、今もここで働いているんですか?」
「いや、もう辞めている。番号の付け替えをしたのは、かなり前のことだ」
「変更した記録はありますか?」
「古い帳面を探せば、何か残っているかもしれない。だが、今日はそこまで調べる時間はない」
彼はうなずいた。
昨日は分からなかった理由が、一つだけ明らかになった。
札を付け替えた担当者は、すでに辞めていた。
しかし、古い札を残した理由や、番号を変更した記録がどこにあるのかまでは分からない。
彼は、その箱について新たに分かったことを書き加えた。
その後、彼は別の棚の記録を確認した。
作業は単調だったが、右手を酷使する必要はなかった。箱の番号を読み、記録と照合し、位置を確かめる。食い違いがあれば、勝手に修正せず、店主に伝える。
昼近くになった頃、倉庫の入口で声が上がった。
「その箱は、ここに置く予定じゃなかったはずだ」
一人の男が、荷車から降ろされた木箱を指していた。
荷車を押してきた運び手は、手にした紙を見せた。
「こちらの指示書では、この棚になっています」
「いや、昨日の話では別の場所だった」
「昨日の話は聞いていません。今、渡された書類に従って運んできただけです」
二人の声が大きくなった。
彼は作業の手を止め、少し離れた場所から様子を見た。
運び手が持っている紙には、倉庫の名前と棚の番号が書かれていた。
指示書の内容が正しいのかどうかは、彼には分からない。
しかし、運び手が今の指示書に従って荷物を運んだことは、本人の説明から分かった。
倉庫の男は不満そうに紙を受け取り、奥へ持っていった。
しばらくして、店主が戻ってきた。
「荷物は、そのまま置いておけ。こちらで確認する」
運び手は、荷物を降ろした場所と時刻を記録し、確認を待つことになった。
彼は、店主に尋ねた。
「このような場合、運び手はどこまで確認すればいいんでしょうか」
店主は、彼を見た。
「何を確認したい?」
「渡された指示書に従って運んだとしても、倉庫側の予定と違うことがあります。その場合、運び手は、荷物をどこに置くかまで自分で判断する必要があるんでしょうか」
店主はすぐには答えなかった。
「基本的には、運び手が勝手に置き場所を変えるべきじゃない。だが、指示書が間違っていることもある。その場合は、荷物を勝手に動かさず、責任者に確認することになる」
「では、今回の運び手は、指示書どおりに運んだことを記録しておけばいいんですね」
「そうだ。どこまで確認する必要があるかは、仕事の条件にもよるがな」
彼はその説明を記録した。
今回の出来事は、以前の荷物の問題と似ている部分があった。
ただし、同じ原因によって起きたと決まったわけではない。
単なる指示の行き違いかもしれないし、倉庫側の管理に問題があるのかもしれない。
今の段階で分かるのは、運び手が指示書を持って荷物を届け、倉庫側が置き場所について異なる説明をしたということだった。
午後、残っていた記録の確認が終わると、店主は彼に報酬を渡した。
「今日は助かった。明日も来られるなら、同じ仕事を頼みたい」
彼は右手を確認してから答えた。
「記録の確認なら、明日もできます。ただ、重い箱を運ぶ作業は、まだ難しいと思います」
「分かった。明日は別の者に運ばせる」
彼は報酬を受け取り、記録を残した。
倉庫を出ると、直人が待っていた。
「仕事はどうだった?」
「続けられそうだ。重い箱を持たずに、記録の確認をすることになった」
「それなら、傷にも負担が少ないな」
「そうだな」
二人は宿へ向かった。
直人は途中で、昨日の荷物の件について尋ねた。
「依頼主側から、何か追加の連絡はあったか?」
「まだない。指示書の正式な承認については、確認中のままだ」
「もう、そちらは放っておいてもいいんじゃないか?」
「俺たちが引き受けた仕事については、必要な記録を残した。追加の対応を求められない限り、自分から調べ続ける必要はないと思う」
彼は続けた。
「ただし、別の仕事で同じ問題が起きたときは、今回の経験を使えるかもしれない」
直人はうなずいた。
「それなら、記録を残した意味もあるな」
宿へ戻ると、彼は今日の仕事を整理した。
古い札が残っていた箱について、新しい説明が得られたこと。
別の荷物について、指示書と倉庫側の予定が食い違ったこと。
運び手が荷物を勝手に移動せず、確認を待つことになったこと。
それぞれを別の出来事として記録した。
同じように見える問題でも、原因まで同じとは限らない。
だから、以前の記録を参考にすることはあっても、今回の出来事を最初から同じものとして扱うつもりはなかった。
記録をしまった後、彼は右手の包帯を取り替えた。
傷は少しずつ回復している。
今の仕事なら続けられる可能性が高いが、身体の状態が変われば、できることも変わるだろう。
彼は、無理に急ぐ必要はないと考えた。
仕事を続けながら、身体を鍛える。
収入を確保しながら、できることを増やす。
どちらか一方だけを選ぶのではなく、今の自分にできる範囲で、両方を続けていく。
彼は灯りを消す前に、明日の予定を確認した。
朝は訓練。
その後は倉庫で記録の確認。
仕事が終われば、別の仕事についても探してみる。
特別な計画ではなかった。
それでも、以前のように、目の前の問題に引きずられるだけではなくなっていた。
彼は明日に備えて眠りについた。




