第209章 空いた手
朝の訓練が終わったあと、男は彼に一つの課題を出した。
「今日は、何も持たずに町を一周してこい」
彼は少し意外に思った。
「走る必要はありませんか?」
「ない。歩いて戻ってこい。ただし、途中で何かあっても、すべてに関わろうとするな」
男はそう言って、彼を送り出した。
彼は町へ向かった。
右手の傷はまだ残っていたが、普段の生活なら少しずつ不自由なく動かせるようになっていた。重い荷物を持つことや、強く握ることには不安がある。それでも、以前のように何をするにも手をかばう必要はなくなりつつあった。
町の通りでは、荷車が行き交い、商人が品物を並べていた。
彼は特別な目的を持たずに歩いた。
途中、道端で二人の男が言い争っていた。
一人は荷車の持ち主らしく、もう一人は運び手のようだった。荷車の上には木箱が積まれている。
「約束した場所まで運んでいないだろう」
持ち主が言った。
「途中で道が塞がれていたんだ。迂回すれば期限に間に合わない。だから、指示を待った」
運び手は反論した。
「指示を待っている間に時間が過ぎたんだ。仕事を終えられなかったのは、お前の責任だ」
「勝手に別の道を通って、荷物を失ったらどうする?」
二人の言い分は、どちらも彼には理解できた。
持ち主は期限を守りたい。運び手は、許可されていない変更をして責任を問われることを避けたい。
彼は足を止めかけた。
しかし、すぐに歩き出した。
二人の間で何が約束されていたのか、彼は知らない。契約内容も、道が塞がれた理由も、迂回が可能だったのかも分からない。
今ここで口を挟んでも、どちらかの話を聞いただけで判断することになる。
数歩進んだところで、後ろから声が聞こえた。
「おい、あんた。聞いていたなら、どっちが悪いと思う?」
彼は振り返った。
荷車の持ち主が、こちらを見ていた。
「事情を知らないので、判断できません」
「見ていただろう」
「言い争っているところは見ました。でも、何を約束していたのかは知りません」
持ち主は不満そうに口を閉じた。
運び手は彼を一度見たあと、荷車の縄を直し始めた。
彼はその場を離れた。
自分が関わらなかったことで、問題が解決するわけではない。
しかし、すべての問題に自分が参加する必要もなかった。
町の外れに近づくと、小さな修理工房の前で人が集まっているのが見えた。
工房の扉は開いていたが、中から職人の怒鳴り声が聞こえてきた。
「誰がこの部品を持ち出したんだ!」
若い男が、入口でうつむいていた。
彼は足を止めた。
工房の奥には、分解された荷車の車輪が置かれていた。その横に、金属片がいくつか散らばっている。
「昨日までは、ここにあったんだ。お前以外に誰が触った?」
「俺は運んだだけです」
若い男は小さな声で答えた。
「運んだなら、どこへ置いた?」
「倉庫です。でも、全部そろっているかまでは確認していません」
「それで仕事をしたと言えるのか!」
職人が机を叩いた。
彼は、以前の荷車の事故を思い出した。
車輪が外れ、金属片が回収され、荷物の行き先が変更されたこと。事故のあと、誰かが部品を持ち去った可能性があると指摘されたこと。
しかし、目の前の工房が、その出来事と関係しているかどうかは分からなかった。
彼は扉の前に近づいた。
「すみません。何か問題があったんですか?」
職人が振り向いた。
「お前には関係ない」
「そうですね。ただ、部品がなくなったという話が聞こえたので」
「聞こえたなら、忘れろ」
職人は強い口調で言った。
若い男は顔を上げ、彼を見た。
助けを求めているようにも見えたが、単に誰かが来たことに反応しただけかもしれない。
彼は、すぐに若い男の側へ立つことはしなかった。
「部品がなくなったことと、誰かが持ち出したことは、まだ同じではないと思います」
職人の顔が険しくなった。
「お前は、俺が嘘をついていると言いたいのか?」
「そうではありません。なくなったことは分かりますが、誰が持ち出したかは、まだ分からないという意味です」
「なら、口を出すな」
職人は彼を追い払うように手を振った。
彼はそれ以上、話を続けなかった。
工房を離れてから、しばらく歩いた。
頭の中では、いくつもの可能性が浮かんでいた。
若い男が部品を置き忘れたのかもしれない。
別の人間が持ち出したのかもしれない。
職人自身が部品の保管場所を間違えている可能性もある。
しかし、どれも確かめられていなかった。
彼は、立ち止まって考えるのをやめた。
今日の課題は、町を一周して戻ることだった。
誰かの問題を解決することではない。
男が言った言葉を思い出し、彼は再び歩き出した。
町を一周して空き地へ戻ると、男は石の上に座っていた。
「何かあったか?」
「二つ、言い争いを見ました。一つは荷車の運送期限について、もう一つは修理工房で部品がなくなったという話です」
「それで、どうした?」
「どちらも、途中まで話を聞きました。でも、関わりませんでした」
男はうなずいた。
「なぜだ?」
「事情を知らないからです。それに、俺が関わる必要があるかどうかも分かりませんでした」
「それでいい」
男は立ち上がった。
「ただし、いつも関わらない方がいいわけでもない。お前自身が危険にさらされているときや、誰かを助けなければ取り返しのつかないことが起きると分かっているときは、別の判断が必要になる」
「はい」
「重要なのは、関わるかどうかを自分で決めることだ。目の前に問題があるというだけで、勝手に自分の仕事にするな」
彼は今日の出来事を振り返った。
二つの問題は、彼が何もしなかったからといって消えるわけではない。
それでも、彼が関わらなかったことによって、少なくとも新しい責任を引き受けることはなかった。
「明日は、何をしますか?」
彼が尋ねると、男は答えた。
「明日は、短い距離で動きの練習をする。相手が近づいてきたとき、どこへ動けばいいかを考える」
「今日のように、避ける練習ですか?」
「そうだ。ただし、明日は相手も動く。お前が考えているとおりに、道を空けてくれるとは限らない」
彼はうなずいた。
訓練は少しずつ変わっていく。
走ることだけではなく、周囲を見て、距離を取り、進路を選ぶことも必要になる。
右手の傷が治れば、できることは増えるかもしれない。
しかし、傷が治ったからといって、すぐに戦えるようになるわけではない。
彼はそのことを、少しずつ理解し始めていた。
宿に戻ると、直人が一通の連絡を見せた。
「仲介人からだ。しばらく新しい仕事の依頼が来ないかもしれないと言っている」
「どうして?」
「依頼主側が、荷物の受け渡し方法を見直しているらしい。正式な手順が決まるまで、新しい依頼を止めるそうだ」
彼は連絡を読み返した。
仕事が止まれば、収入も減る。
今回の荷物の件で報酬は受け取れたが、それで今後の生活が保証されるわけではなかった。
「どれくらいかかるか、分かるか?」
「分からないそうだ」
彼はしばらく黙っていた。
仕事を受ける条件を確認することには意味があった。しかし、その結果として仕事が減ることもある。
それを避けるために、確認をやめるべきなのか。
彼はすぐに答えを出さなかった。
「明日、別の仕事を探そう」
直人が言った。
「そうだな」
彼は机に向かい、残っている金額と、今後必要になる費用を確認した。
生活を続けるには、仕事が必要だ。
一つの依頼先だけに頼り続けるわけにもいかない。
今回の問題を追い続けるよりも、別の仕事を探し、収入を確保することを優先する必要があった。
彼は、受け取った報酬の一部を生活費として分け、残りを保管した。
それから、翌日探す仕事の条件を書き出した。
報酬だけで決めないこと。
仕事内容を確認すること。
無理な作業を求められた場合、断れる余地があること。
そして、怪我の状態を考慮すること。
書き終えたあと、彼は紙を折り畳んだ。
明日、条件に合う仕事が見つかる保証はない。
それでも、仕事が来るのを待つだけでは、状況は変わらない。
彼は机の灯りを消した。
今日、何も持たずに町を歩いた。
その結果、何か大きな問題を解決したわけではない。
ただ、すべての問題に手を伸ばさなくても、自分の生活を前に進めることはできる。
そのことを、彼は少しだけ実感していた。




