第208章 仕事のない朝
翌朝、彼が空き地に着くと、訓練を教える男はまだ来ていなかった。
いつもなら、男は彼より先に到着し、走る場所や練習に使う道具を整えている。
彼は入口付近で待つことにした。
しばらくして、男が片腕に布を巻いた若い男を連れて現れた。
若い男は足を引きずっていた。顔色もよくない。
「今日はこいつを先に見てやる。お前は少し待っていろ」
「分かりました」
彼は二人から距離を取った。
男は若い男を座らせ、布の下を確かめた。怪我の程度までは見えなかったが、若い男が腕を動かすたびに顔をしかめるのが分かった。
「いつからだ?」
「昨日の夕方です」
「何をしていた?」
若い男はすぐには答えなかった。
「荷物を運んでいました。でも、途中で落としてしまって……」
「それで腕を痛めたのか?」
「はい」
男はしばらく若い男を見ていた。
「落とした荷物はどうなった?」
「壊れました。依頼主は、俺が弁償しろと言っています」
彼は思わず顔を上げた。
若い男は続けた。
「報酬もまだ受け取っていません。怪我をしたから仕事を続けられないと言ったら、最後まで運ばなかったのは俺の責任だと言われました」
男は怪我をした腕を動かさないよう、布を巻き直した。
「荷物を落としたとき、周りに誰かいたか?」
「いました。でも、誰も手伝ってくれませんでした」
「誰かが押したのか?」
「分かりません。後ろから荷車が来て、避けようとしたら足を滑らせました」
男はそれ以上、問い詰めなかった。
「今日はここまでだ。無理に動かすな。必要なら医者に診てもらえ」
若い男はうなずいたが、顔には不安が残っていた。
「でも、弁償しなければ……」
「怪我をした状態で、どうやって払うつもりだ?」
若い男は口を閉じた。
男は彼を立たせ、近くの知り合いに宿まで送るよう頼んだ。
若い男が去ると、男は彼の方へ戻ってきた。
「待たせたな」
「いえ」
「今の話を聞いて、何を思った?」
彼は少し考えた。
「荷物を落としたことと、怪我をしたことは別に考える必要があると思います。荷物が壊れた原因も、本人がすべて悪いとは限りません」
「そうだな」
男はうなずいた。
「だが、今の話だけでは、誰にどれだけ責任があるかは分からない。荷物を運んでいた状況も、依頼の条件も、壊れた原因も、まだ確認できていない」
彼は昨日までの仕事を思い出した。
「分からないことがあるからといって、何も判断できないわけではないんですね」
「そのとおりだ。怪我をした人間を無理に働かせないことは、今すぐ判断できる。だが、荷物の弁償については、事情を知らずに答えを出すことはできない」
男は空き地の中央へ歩いていった。
「今日は、お前にも別のことを教える」
彼は後を追った。
男は地面に二つの石を置いた。
「ここからあの石まで歩け。途中で俺が進路を塞ぐ。お前は俺を倒そうとするな。通り抜けることだけ考えろ」
彼は右手をかばいながら構えた。
男が一歩踏み出した。
彼は横へ動こうとしたが、男はすぐに位置を変えた。正面から抜けようとすると肩を押され、体勢が崩れた。
彼は足を踏み直した。
二度目は、男の動きに合わせて距離を取った。しかし、後ろへ下がりすぎて、置かれた石に足を引っかけた。
「周りを見ろ。相手だけを見るな」
男の声が飛んだ。
彼は体勢を立て直し、呼吸を整えた。
三度目は、最初から真正面へ進まなかった。男が動く前に、通り抜けられる場所を探した。
男が左へ動いた瞬間、彼は反対側へ踏み出した。
肩が軽くぶつかったが、転ばずに通り抜けた。
「止まれ」
彼は石の手前で足を止めた。
「今のは、相手に勝ったのか?」
「いいえ。通り抜けただけです」
「それでいい。目的を間違えるな。相手を倒すことが目的でないなら、倒す必要はない」
男は石を拾い上げた。
「ただし、いつも通り抜けられるとは限らない。相手が複数ならどうする。道が塞がれていたらどうする。お前の足が動かなかったらどうする」
彼は答えられなかった。
「一つずつ考えろ。今のお前は、まだできないことが多い。それを恥じる必要はない。できないことを、できると思い込む方が危険だ」
彼はうなずいた。
その後も、男は位置を変えながら同じ練習を続けた。
彼は何度も進路を塞がれ、足を止められた。右手を使おうとしたときには、傷が痛んだため、すぐに動きを修正した。
最後の一回だけ、彼は男の動きを見てから横へ抜けることができた。
「今日は終わりだ」
男が告げた。
彼は汗を拭きながら尋ねた。
「さっきの若い人は、以前からあなたのところへ来ているんですか?」
「時々な。怪我をした者や、仕事を失った者が来ることがある」
「弁償の問題は、どうするんでしょうか」
「俺が代わりに解決するわけじゃない。本人が何を知っていて、どこまで説明できるのかを整理する手伝いくらいはする」
男は水袋を片づけた。
「だが、俺が聞いた話だけで、依頼主が悪いと決めることもできない。本人が何をしたのかも、まだ分からないからな」
彼は、若い男の表情を思い出した。
怪我をして、報酬も受け取れず、壊れた荷物の弁償を求められている。
それだけでも、彼にとっては大きな問題だろう。
しかし、困っているという事実だけで、起きたことのすべてが明らかになるわけではない。
「俺にできることはありますか?」
男は彼を見た。
「今はない。本人が何を望んでいるのかも聞いていない。助けるつもりなら、まず本人が何を求めているのかを知ることだ」
「分かりました」
彼はその話を、無理に自分の仕事にしないことにした。
訓練を終え、宿へ戻る途中、直人が通りの角で待っていた。
「ちょうどよかった。仲介人から連絡があったぞ」
「昨日の荷物の件か?」
「いや、報酬が支払われたそうだ。最初に取り決めた金額どおりだ」
彼は足を止めた。
「指示書の問題は?」
「まだ確認中だそうだ。誰が作ったのか、誰が変更を伝えたのかは、はっきりしていない」
「そうか」
報酬が支払われたことは、一つの区切りだった。
しかし、指示書の問題が解決したわけではない。
彼は直人とともに宿へ戻り、受け取った金額を記録した。
今回の仕事で得た報酬。
荷物を受け渡した日時。
受領記録の保管場所。
そして、依頼主側で指示書の確認が続いていること。
それらを書き終えたとき、彼は少しだけ肩の力を抜いた。
仕事を引き受け、条件を確認し、荷物を届け、報酬を受け取った。
少なくとも、今回の仕事は終わった。
彼は机の上の記録を整理した。
これ以上、同じ問題を繰り返し考えていても、新しい情報は増えない。
必要な連絡が届けば、そのときに確認すればいい。
今は、傷を治し、身体を動かせる範囲を広げることに時間を使うべきだった。
夕方、彼は空き地で教わった動きを思い返しながら、ゆっくり歩いた。
相手を倒すことだけが、危険から抜け出す方法ではない。
道を選び、距離を取り、退くこともできる。
ただし、実際の危険に遭遇したとき、今日の練習どおりに動ける保証はなかった。
彼はそれを忘れないようにした。
できることが増えたと思った瞬間こそ、自分の限界を確かめる必要がある。
その夜、彼はいつもより早く床に就いた。
翌朝も、訓練は続く。
そして、仕事があるかどうかにかかわらず、生活は止まらない。
彼は少しずつ、その二つを分けて考えられるようになっていた。




