第207章 誰も引き取らない責任
翌朝、彼はいつもの空き地へ向かった。
右手の傷は、前日より痛みが少なかった。だが、傷口を強く押さえると、まだ皮膚が引きつる。
男は彼の手を確認し、今日は荷物を持たせなかった。
「昨日、何かあったな」
「仕事の受取人について、二つの異なる指示が出てきました」
彼は、仲介人の事務所で見た書類について説明した。
男は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「それで、お前は何をした?」
「最初の依頼書に従って仕事を終えました。その後、別の指示書が出てきたので、写しを保管しています」
「なら、今のお前にできることは、そこまでだ」
彼は男を見た。
「それ以上、調べなくていいんですか?」
「調べること自体が悪いわけじゃない。だが、お前は昨日の荷物を運ぶ仕事を引き受けた。依頼主の組織全体を調べる仕事まで引き受けたわけじゃない」
男は地面に置いた小枝を拾い上げた。
「お前が責任を負える範囲と、負う必要のない範囲を混同するな。誰かが問題を抱えているからといって、その問題を全部お前が背負う必要はない」
彼は黙って考えた。
これまで、記録が途切れているところを見つけると、その先を確かめようとしてきた。
しかし、確かめることと、問題を解決する責任を引き受けることは同じではない。
自分が関わった仕事について説明できるようにしておくことと、依頼主側の事情をすべて解明することにも違いがある。
「では、どこで止めればいいんでしょうか」
「お前が何を約束したか、何を知っているか、何をできるか。それを基準に考えろ。止める場所は、いつも同じとは限らない」
男は小枝を地面に置いた。
「今日は走る。昨日より少しだけ距離を伸ばす。ただし、手に痛みが出たらすぐに言え」
彼はうなずき、走り始めた。
最初の数周は、呼吸を保てた。
しかし、距離が伸びるにつれて、肩に力が入り、足音も大きくなった。彼は速度を落とした。
「止まるな。速度を落としてもいい。呼吸を戻せ」
男の声が飛んできた。
彼は歩くような速さまで落とし、呼吸を整えた。
最後まで走り切ったとき、膝が重く、喉が乾いていた。
「昨日より長く動けたか?」
「はい」
「なら、それでいい。明日も同じ距離を走れるとは限らない。疲労や傷の状態によって、できることは変わる」
男は水袋を差し出した。
「強くなるというのは、毎日できることが増えるという意味だけじゃない。自分の状態を把握して、無理をしたときに何を失うか分かるようになることも含まれる」
彼は水を飲んだ。
その言葉は、昨日の仕事にも当てはまっていた。
受取人の変更について、彼には確認できないことがあった。
それでも、最初の依頼書に従って仕事を終えた事実は残っている。
彼は、自分ができたことと、できなかったことを分けて考えるようになっていた。
訓練を終えて宿へ戻ると、直人が外で待っていた。
「仲介人から連絡があった。今日の午後、依頼主側の担当者が来るそうだ」
「昨日の指示書について?」
「それもあるらしい。受領記録を確認したいと言っている」
彼は少し考えた。
「こちらから事務所へ行くんじゃなく、向こうが来るんだな」
「そうだ。仲介人も同席する」
「分かった。記録を用意しておこう」
午後、宿の一室に、仲介人と依頼主側の担当者が現れた。
昨日、別の指示書を提示した中年の男ではなかった。今日は、年若い事務担当者が一人で来ていた。
男は挨拶を済ませると、すぐに本題へ入った。
「昨日の荷物について、受領記録を確認させてください」
彼は記録を渡した。
担当者は、荷物の番号、数量、受取人の署名、日付、時刻を順に確認した。
「間違いありません。この荷物は、依頼書に記載された受取人に渡されたんですね」
「はい。受取人本人が依頼書を確認し、署名しました」
「その際、別の人物が受取人の変更を申し出たと聞いています」
「そうです。変更の指示は仲介人から届いていなかったため、引き渡しを保留しました。その後、仲介人に確認し、変更指示がないことを確かめてから、依頼書どおりに渡しました」
担当者は記録を閉じた。
「分かりました。こちらでも確認します」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「昨日の指示書は、誰が作成したものなんですか?」
担当者は答えるまでに少し時間を置いた。
「作成者については、現在確認中です」
「依頼主側で作ったものではないんですか?」
「依頼主側の書式を使っています。ただ、正式に承認されたものかどうかは、まだ確認できていません」
彼は、机の上に置かれた自分の記録を見た。
昨日、中年の男は、依頼主側の担当者が作成したと説明していた。
しかし、今日の担当者は、正式な承認があったかどうかを確認できていないと言っている。
二つの説明は、必ずしも矛盾しているとは限らない。書類を作成した人間と、それを承認した人間が別である可能性もある。
「では、昨日の時点では、正式な変更指示があったかどうか、依頼主側でも確認できていなかったということですか?」
「そのように理解していただいて構いません」
担当者は続けた。
「ただし、現場で変更を伝える必要があった事情も、こちらではまだ確認できていません。誰かが独断で動いたのか、別の指示を受けていたのかも分かっていないんです」
「分かりました」
彼はそれ以上、質問を続けなかった。
今の説明で、少なくとも一つのことは明確になった。
昨日提示された指示書について、正式な承認があったかどうかは、依頼主側でも未確認だった。
それ以上のことは、まだ分からない。
担当者は受領記録を返した。
「今回の仕事について、あなたに追加の対応を求める予定はありません。報酬についても、当初の条件どおり支払われるよう手続きを進めます」
「ありがとうございます」
担当者が帰った後、仲介人が口を開いた。
「今回の件は、こちらでも記録に残しておく。今後、受取人の変更がある場合は、依頼主から私に連絡するよう求めるつもりだ」
「それなら、次からは判断しやすくなりますね」
「そうだな。ただ、どんな仕組みにしても、連絡が遅れることや、担当者が間違えることはある」
仲介人は立ち上がった。
「だから、問題が起きたときに誰が何を知っていたのか、確認できるようにしておく必要がある」
彼は仲介人を見送った。
今日の話し合いで、火傷痕の男が誰から指示を受けていたのかは分からなかった。指示書を誰が作成したのかも、正式な承認があったのかも、まだ確認されていない。
しかし、少なくとも、今回の仕事について彼が責任を負う範囲は明確になった。
彼は依頼書に従い、受取人を確認し、荷物を渡した。
変更指示が届いていなかったため、勝手に変更することもしなかった。
その結果について説明できる記録も残っている。
彼は机に向かい、今日の話し合いを記録した。
依頼主側は、指示書の正式な承認を確認できていなかったこと。
今回の仕事について、追加の対応を求められないこと。
報酬は当初の条件どおり支払われる予定であること。
そして、今後は受取人の変更について、仲介人を通じて連絡する方針が示されたこと。
記録を書き終えた後、彼は昨日の指示書の写しを取り出した。
そこには、受取人の名前が記されていた。
しかし、その人物が本当に荷物を受け取る権限を持っていたのか、誰がその名前を記入したのかは、まだ分からない。
彼は写しを他の記録と一緒にしまった。
今回の件について、彼がこれ以上、自分から調べ回る必要はなさそうだった。
だからといって、指示書の問題が解決したわけではない。
その確認は、依頼主側が引き受けることになった。
彼は窓の外を見た。
荷物を運ぶ仕事は、これからも続くだろう。
自分が関わるすべての問題を解決することはできない。
それでも、自分が引き受けた仕事については、最後まで説明できるようにしておく。
今の彼には、それが必要だった。
そして、明日もまた、訓練を続ける。
傷が治り、動ける範囲が広がれば、今までできなかったことにも挑戦できるかもしれない。
ただし、何ができるようになるのかは、実際に身体を動かしてみなければ分からなかった。




