第206章 存在しない指示書
翌朝、彼は直人とともに仲介人の事務所へ向かった。
前日の受領記録は、衣服の内側にしまってある。右手の傷はまだ完全には塞がっておらず、歩くときも無意識にかばってしまう。
「昨日の連絡、どう考えている?」
直人が尋ねた。
「誰かが正式な指示を持っていたと主張している。それだけだ」
「火傷痕の男が嘘をついている可能性は?」
「ある。でも、別の人間から指示を受けていた可能性もある。仲介人に届いていないことと、指示そのものが存在しなかったことは同じじゃない」
直人は彼の顔を見た。
「結局、事務所で確認するしかないか」
「そうだな。ただ、昨日の受け渡しをなかったことにはできない」
事務所に着くと、仲介人のほかに、見覚えのない中年の男が座っていた。
男は二人が入ってくると、机の上に一枚の紙を置いた。
「昨日の荷物について、説明してもらおう」
紙には、修理工房へ荷物を届けるよう指示する文章が書かれていた。届け先の名前は同じだが、受取人の欄には別の人物の名前が記されている。
彼は紙を手に取らず、机の上から確認した。
「これは、いつ作成されたものですか?」
「昨日の朝だ」
「誰が作成したんですか?」
「依頼主側の担当者だ」
「仲介人には、いつ渡されたんですか?」
中年の男は少し眉を動かした。
「仲介人には渡していない。現場へ直接伝えるつもりだった」
彼は仲介人を見た。
仲介人は首を横に振った。
「私は、この指示書を受け取っていない。昨日の仕事については、最初に取り決めた内容のままだった」
「では、この紙を誰が火傷痕の男に渡したんですか?」
「それは、こちらでは確認できていない」
中年の男は答えた。
彼は紙の内容をもう一度確認した。
日付は昨日。受取人の変更を示す文章もある。しかし、作成者の署名はなく、受け渡しを確認できる記録もなかった。
「この紙が昨日作られたことは、どこで確認できますか?」
「作成した担当者がそう説明している」
「担当者本人に確認できますか?」
「今はできない」
中年の男の声が硬くなった。
「お前は、紙に書いてあることまで疑うのか?」
「疑っているというより、確認できていないことを、確認できたことにはできません」
彼は落ち着いて答えた。
「この紙が本物ではないと言っているわけではありません。ただ、誰が作成し、誰に渡し、どの時点で正式な指示になったのかが分からない。そこを確認したいんです」
中年の男は椅子にもたれた。
「お前は荷物を運ぶ人間だ。指示があれば、そのとおりに動けばいい」
「その指示が、こちらに届いていなかったんです」
「現場で変更を伝えた者がいた。それで十分だろう」
「その人が変更を伝える権限を持っていたか、確認できていません」
仲介人が口を挟んだ。
「昨日、私が受け取った依頼書には、受取人の名前が記載されていました。変更があるなら、依頼主から正式に連絡してもらう必要があります」
中年の男は仲介人を見た。
「君は、現場の事情を分かっていない。仕事は書類だけで動いているわけじゃない」
「そのとおりです。しかし、書類と現場の指示が食い違った場合、誰が判断するのかを決めておかなければ、運び手が責任を負うことになります」
仲介人の言葉に、中年の男はすぐには答えなかった。
彼は二人のやり取りを聞いていた。
どちらか一方が、すべての事情を知っているわけではない。
仲介人は自分に届いた依頼書を基準に判断している。中年の男は、現場へ直接指示を出すことができると考えているらしい。
問題は、二つの経路が食い違ったとき、それを誰が調整するのかということだった。
「一つ、確認させてください」
彼は中年の男に向き直った。
「昨日の火傷痕の男が、あなたから指示を受けていたと確認できるものはありますか?」
男の表情が変わった。
「なぜ、その男の話が出てくる?」
「昨日、工房で受取人の変更を主張したのが、その特徴の男だったからです」
「名前は?」
「知りません」
「では、同じ人物だと断定できないだろう」
「はい。だから、確認できるものがあるかと尋ねています」
中年の男は、机の上の紙を引き寄せた。
「こちらで確認する。お前たちは、もう帰っていい」
仲介人が彼を見た。
「こちらの説明は、まだ終わっていません」
「必要なことは聞いた。後は依頼主側で処理する」
中年の男は立ち上がり、事務所の奥へ入っていった。
扉が閉じると、直人が小さく息を吐いた。
「どう思う?」
「分からないことが増えた」
「増えた?」
「昨日は、変更指示が届いていなかった。それだけだった。今日は、別の指示書が存在していることが分かった。でも、それがいつ、誰によって作られ、誰に渡されたのかは分からない」
彼は机に残された紙の写しを見た。
仲介人が写しを作り、彼らに渡してくれたものだった。
「少なくとも、これで記録は残る」
直人はうなずいた。
「火傷痕の男が、その指示書を持っていたわけじゃないんだな」
「そうだ。昨日、あの男は紙を見せなかった。今回の指示書と、あの男が持っていた情報が同じものなのかも分からない」
仲介人は二人に向き直った。
「今回の件で、お前たちに責任を負わせるつもりはない。こちらが正式に伝えた条件に従って仕事をしたことは、私も確認している」
「ありがとうございます。ただ、依頼主との間で何が起きているのかは、まだ分からないんですね」
「そうだ。こちらも確認する必要がある」
彼は写しを受け取り、折り目をつけないように保管した。
事務所を出た後、直人が尋ねた。
「これからどうする?」
「今のところ、俺たちができることはない。依頼主側の確認を待つ」
「また待つのか」
直人の声には、少し不満が混じっていた。
彼も同じ気持ちだった。
何かが起きるたびに、別の人間が何かを主張する。しかし、確かめようとすると、担当者がいない、記録がない、連絡が届いていないという話になる。
それでも、分からないことを無理に埋めれば、誤った判断につながる。
「ただし、今回の件を放っておくつもりはない」
彼は言った。
「俺たちが引き受けた仕事については、最後まで確認する。報酬の問題もあるし、次に同じことが起きたとき、何をすればいいのかを考える必要もある」
「具体的には?」
「まず、今回の依頼主が、最初の依頼書と後から出てきた指示書をどう扱うのか確認する。それから、受取人を変更する場合、誰が正式に連絡するのかを明確にしてもらう」
直人はしばらく考えた後、うなずいた。
「それなら、次に何を確認するのかは分かるな」
二人は宿へ戻った。
彼は机の上に、昨日の受領記録と、今日受け取った指示書の写しを並べた。
二つの書類には、同じ荷物の番号が記されていた。
だが、受取人の名前は違っていた。
彼はその違いに印をつけ、どちらが正しいかという判断は書き込まなかった。
今の時点では、最初の依頼書に従って荷物を渡したことと、後から別の指示書が提示されたことしか確認できていない。
彼は紙をしまい、右手の包帯を確かめた。
傷はまだ痛む。
強く握ることも、長い時間、重いものを持つことも難しい。
彼は訓練で教わった歩き方と、距離の取り方を思い出した。
力が足りないなら、力が足りないことを前提に動くしかない。
情報が足りないなら、足りないことを前提に判断するしかない。
ただし、どちらも、何もしない理由にしてはいけない。
彼は翌日の訓練に備え、早めに休むことにした。
机の引き出しには、二つの書類が並んで保管されていた。
同じ荷物について、異なる受取人を示す二つの記録。
その食い違いが、単なる連絡不足だったのか、それとも誰かが別の目的で指示を出した結果だったのか。
まだ、答えは出ていなかった。




