第203章 断れない依頼
翌日の朝、彼は東の空き地へ向かった。
右手の傷は少しずつ塞がっていたが、握り込むとまだ痛みが残る。男は傷を確認すると、今日は走らせず、歩きながら周囲の変化に気づく練習を続けた。
「お前は、何かを見つけると、それを確かめようとする」
男が言った。
「悪いことですか?」
「悪いとは言っていない。だが、見つけたものを確かめることと、それに近づくことは別だ。近づかなければ分からないこともあるが、近づく前に考えなければならないこともある」
彼は昨日の加工場を思い出した。
相手が何を知っているのか確かめようとして、襟をつかまれた。あのとき、もう少し距離を保っていれば、別の結果になったかもしれない。
「どうすれば、近づくべきか判断できますか?」
「必ず正しい答えが出る方法などない。だから、間違えたときに何が起きるかも考えるんだ」
男は地面に小枝を置いた。
「ここを通れ。だが、その小枝を踏んだら、お前はそこで止まれ」
彼は小枝を避けて歩いた。
次の周回では、男が別の場所に小枝を置いた。彼は足元だけでなく、少し先の地面も確認するようになった。
「今度は、後ろを見ろ」
彼が振り返ると、男は数歩離れた場所に立っていた。
「何か変わったか?」
「あなたの位置が変わりました」
「それだけか?」
彼は周囲を見た。
「俺が歩いている間に、空き地の入口を通る人も変わっています」
男はうなずいた。
「一つのことに集中している間にも、周りは動いている。お前が調べている問題も同じだ。お前が何かを確かめている間に、別の人間が別の理由で動くことがある」
その言葉は、彼が今まで集めてきた記録にも当てはまった。
荷物の行き先を変更した人間。運び手を仕事から外した人間。受取人の記録が残らなかった仕事。それらがすべて一人の指示によって動いているとは限らない。
一つの出来事に複数の人間が関わっていても、全員が同じ目的を持っているとは限らなかった。
「今日は終わりだ」
男は水袋を持ち上げた。
「明日も来い。ただし、傷が悪化しているなら休め」
彼は礼を言い、空き地を後にした。
宿へ戻ると、直人が待っていた。
「仕事の件で、もう一度連絡があった」
「届け先が決まったのか?」
「いや。別の荷物を運んでほしいそうだ」
彼は眉を寄せた。
「昨日の荷物は?」
「まだ保管中だ。依頼主は、受取人の確認に時間がかかっているらしい。それとは別に、今日中に運んでほしい荷物があるという」
「同じ仲介人からか?」
「そうだ。今度は北の倉庫へ小さな箱を届ける仕事だそうだ」
彼は直人の説明を聞きながら、机の上の記録を見た。
北の倉庫。
これまでの荷物の移動に何度も現れた場所だった。
だが、北の倉庫へ荷物を届けること自体は、珍しいことではない。場所が同じというだけで、過去の事件と結びつけることはできなかった。
「依頼書はあるか?」
直人が紙を差し出した。
今回の依頼書には、受け取り場所、届け先、報酬、期限が書かれていた。依頼主の名前も記されている。
しかし、受取人の欄には「倉庫側の担当者」としか書かれていなかった。
彼は紙を読み終えた。
「受取人の名前がない」
「仲介人は、倉庫へ行けば分かると言っている」
「昨日と同じだな」
「そうだ。ただし、今回は荷物を運ぶだけで、受け取った相手に渡せば仕事は終わりだという説明だった」
彼は首を横に振った。
「それでは引き受けられない」
直人は彼を見た。
「報酬は、昨日より高いらしい」
「それでもだ」
彼は依頼書を机に置いた。
「昨日の仕事が終わっていないのに、別の仕事を引き受ければ、最初の仕事について確認する機会が減るかもしれない。しかも、受取人の確認方法が決まっていない」
「断れば、今後の仕事を紹介してもらえなくなる可能性がある」
「分かっている」
彼は少し考えた。
仕事を断ることは簡単ではない。報酬を得る機会が減り、依頼主との関係も悪くなるかもしれない。
それでも、条件が分からない仕事を続けて引き受けることには、別の危険があった。
「仲介人に伝えてくれ。受取人と受領の記録を確認できるなら、引き受けることを考える。確認できないなら、今回は断る」
直人は依頼書を折り畳んだ。
「分かった。俺から伝える」
その日の午後、仲介人が自ら宿を訪ねてきた。
彼は部屋に入るなり、机の上の依頼書を指した。
「お前たちは、仕事をする気があるのか?」
「あります。ただ、受取人を確認できない仕事は引き受けられません」
「北の倉庫には、いつも人がいる。荷物を渡せば、それで終わりだ」
「誰が受け取ったのか分からなければ、後で問題になったときに説明できません」
仲介人は苛立った様子で椅子に座った。
「お前が記録を残したいのは分かった。だが、依頼主はそこまで面倒なことを望んでいない」
「なら、依頼主に確認してください。受取人を決めることも、受領の記録を残すことも、こちらだけではできません」
「お前は、仕事を選べる立場だと思っているのか?」
彼は仲介人を見た。
「選べる立場かどうかは分かりません。ただ、引き受けるかどうかは、俺が判断することです」
部屋が静かになった。
仲介人は机を指で叩いた。
「いいか。お前が仕事を断れば、別の人間に回すだけだ。次に仕事が来る保証はない」
「分かっています」
「後悔するぞ」
「その可能性もあります」
彼は視線を逸らさなかった。
「それでも、条件を確認できない仕事を引き受けることはできません」
仲介人はしばらく彼を見ていたが、やがて立ち上がった。
「分かった。今回の仕事は別の人間に回す」
扉が閉まった。
直人はしばらく黙っていた。
「これで、本当に仕事が来なくなるかもしれないな」
「そうかもしれない」
「それでもいいのか?」
彼はすぐには答えなかった。
仕事が減れば、生活は苦しくなる。金を得る機会を失うことは、決して小さな問題ではない。
しかし、目の前の報酬だけを見て、後から何が起きるか分からない仕事を積み重ねることもできなかった。
「いいとは言っていない。ただ、今回は引き受けないと決めた」
直人はうなずいた。
「なら、次の仕事を探そう。条件が分かるものをな」
「そうしよう」
彼は机に向かい、今回の依頼について記録した。
依頼主が提示した条件。受取人が特定されていなかったこと。記録方法を確認したところ、仲介人が仕事を別の人間に回すと告げたこと。
そこには、仲介人が悪意を持っていたといった推測は書かなかった。
彼が知っているのは、条件を確認できなかったことと、仕事を失ったという結果だけだった。
記録を書き終えた後、彼は以前の荷物の記録を読み返した。
受取人が分からない。
受領の記録がない。
仕事を断れば、報酬を失う。
仕事を引き受ければ、後から責任を問われる可能性がある。
どちらを選んでも、代償が生じることはあった。
だからこそ、何を優先するのかを自分で決めなければならない。
彼は最後に、一行だけ書き加えた。
《条件を確認することは、危険をなくすことではない。何を引き受けるのかを、自分で選ぶために必要なことだ。》
外では、荷車が石畳を走る音が聞こえていた。
彼は窓の外を見た。
誰かが荷物を運び、誰かが受け取り、誰かがその仕事を記録する。
その仕組み自体が悪いわけではない。
問題が起きたとき、どこで情報が途切れ、誰がその結果を負うことになるのか。
彼はまだ、その全体を知らなかった。
しかし、少なくとも今、自分がどこまで責任を負えるのかについては、以前より慎重に考えるようになっていた。




