第201章 誰が責任を負うのか
工房の裏手から男が姿を消しても、彼はその場を動かなかった。
木箱は小さい。片腕でも抱えられる程度の大きさだったが、今の彼にとっては、右手を庇いながら持ち続けること自体が負担になっていた。
直人が気づき、近くの低い台を借りてきた。
「いったん置け。落として壊したら、それこそ面倒になる」
彼は木箱を慎重に台へ置いた。
「依頼主に連絡する。だが、その前に確認しておきたいことがある」
「何だ?」
「もし依頼主が、あの男に渡せと言ったらどうする?」
直人の問いに、彼はすぐには答えなかった。
依頼主が正式に指示した相手なら、渡すこと自体は不自然ではない。しかし、誰が受け取ったのかを記録する必要があるという考えは変わらなかった。
「受取人が変わった理由を聞く。受け渡しの記録も残してもらう。それができれば、引き渡すことは考えられる」
「相手が記録を拒否したら?」
「荷物を渡さず、別の指示を求める」
直人はうなずいた。
「なら、まずは依頼主に確認だな」
二人は工房から距離を取り、人通りのある場所まで移動した。
依頼書に書かれていた連絡先を頼りに、仲介人のいる事務所を訪ねると、応対に出た若い男が彼らの顔を見て眉を寄せた。
「荷物を届けたんじゃないのか?」
「指定された工房では、受け取る人が確認できませんでした。別の人が受け取ろうとしましたが、受領の記録を残せないと言われたので、引き渡していません」
若い男は机の上の書類を探し始めた。
「そんなはずはない。今朝、届け先を確認したと聞いている」
「誰が確認したんですか?」
「それは……」
男の手が止まった。
彼は依頼書を机の上に置いた。
「この依頼書には、届け先の変更が記録されていません。変更したのであれば、誰が、いつ、誰に伝えたのかを確認したいんです」
「運び手がそこまで口を出す必要はないだろう」
若い男の声が強くなった。
「こちらは仕事を受けた側です。荷物を渡して問題が起きれば、俺が渡したことになります。だから、誰に渡すのかを確認しています」
「お前が勝手に仕事を難しくしているんだ」
「それなら、依頼主から正式な指示をもらえれば従います」
男は口を閉じた。
直人は横から口を挟まなかった。
しばらくして、若い男は別の帳簿を取り出した。
「待っていろ。確認してくる」
男が奥へ入っていくと、直人が小声で尋ねた。
「さっきの対応でよかったと思うか?」
「分からない。相手を怒らせたことは確かだ」
「それでも、荷物を渡さなかった」
「渡した後で問題になれば、今度は俺が説明しなければならない。確認する機会があるなら、先に確認したほうがいい」
直人は少し考えた。
「ただし、確認を求めること自体が、いつも正しい結果になるとは限らない。相手が本当に忙しいだけのこともある。記録の方法を知らない人間もいる」
「分かっている。だから、相手が悪いと決めつけているわけじゃない」
彼は机の上の依頼書を見た。
「今は、指示が一致していない。それだけだ」
やがて若い男が戻ってきた。
今度は、年配の男が一緒だった。
「お前が荷物を運んできた者か」
「はい」
年配の男は依頼書を読み、彼に視線を戻した。
「届け先の工房には、こちらから正式な指示を出していない。誰かが勝手に受け取りに来た可能性がある」
「その人物に心当たりはありますか?」
「あるが、今ここで断定はできない。確認する必要がある」
年配の男は若い男を見た。
「工房へ連絡しろ。今日の荷物は、こちらの指示があるまで渡さないように伝えろ」
若い男はうなずき、奥へ戻った。
年配の男は彼に向き直った。
「お前の判断で荷物を渡さなかったことは理解した。だが、仕事の途中で勝手に荷物を持ち帰ることも認められない。指示が出るまで、ここで待ってもらう」
「分かりました。受領の記録を残していただけますか。今は荷物を持ち帰っていませんが、預けることになった場合、誰が保管しているのか分かるようにしたいんです」
年配の男は、今度はすぐに拒まなかった。
「その考えは理解できる。荷物を預かることになったなら、こちらも記録を残そう」
男は紙を一枚取り出し、荷物の記号と数量、預かる場所、時刻を書き込んだ。
最後に自分の名前と印を記した。
彼は内容を確認し、同じ紙の下部に、自分が荷物を引き渡していないことと、保管場所を確認したことを書き添えた。
「これでよろしいですか?」
「ああ」
年配の男は書類を確認し、彼に控えを渡した。
木箱は、事務所の管理下で保管されることになった。
彼はようやく肩の力を抜いた。
直人が小さく息を吐く。
「これで仕事は終わったのか?」
「いや。荷物を届ける仕事は、まだ完了していない。今は、荷物を安全に預けたところだ」
年配の男が聞いていたらしく、口元をわずかに緩めた。
「その区別を忘れるな。仕事を完了したことと、荷物を預けたことは違う。こちらも、依頼主に確認が取れなければ、完了したとは扱えない」
彼はうなずいた。
事務所を出たあと、直人が尋ねた。
「今回のことを、昨日の荷物の件と結びつけるか?」
「まだ結びつけない。似ている部分はある。受取人がはっきりしないこと、受領の記録が残らない可能性があること。でも、今回の荷物が、あの運び手の事件と関係している証拠はない」
「では、何を記録する?」
「今回の依頼の経緯と、届け先で起きたこと。それから、仲介人が正式な指示を出していなかったことだ」
直人はうなずいた。
「分かった。依頼主から返事が来たら、そこも記録しておこう」
宿へ戻ると、彼は今日の出来事を整理した。
依頼書に書かれた届け先と、実際に受け取ろうとした人物は一致していなかった。
仲介人は届け先の変更を確認できず、最終的に年配の男が荷物を預かり、記録を残した。
それぞれの事実を書き分け、推測は別の欄に置いた。
最後に、彼は一つの問いを書いた。
《荷物を渡した者、受け取った者、受け取ったと記録した者。それぞれの責任は、どこまで同じなのか。》
その問いに、今すぐ答えを出す必要はなかった。
ただ、責任を一人に押しつけるだけでは、何が起きたのかを正確に知ることはできない。
荷物を受け取った者が記録を残さなかったのか。
受け取りを指示した者が、正しい情報を伝えなかったのか。
あるいは、運び手が記録を確認する機会を与えられなかったのか。
それぞれの場合で、起きたことも、負うべき責任も変わる。
彼は筆を置いた。
今日の仕事は、報酬を受け取るところまで進まなかった。
それでも、荷物を失わず、誰かに無理やり押しつけることもなく、いったん止めることはできた。
自分の判断が正しかったかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも彼は、分からないことを分からないままにして、勝手に結論を出すことだけは避けられた。




