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観客のいない世界  作者: 亀


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第200章 署名のない受領

翌日の朝、彼は東の空き地へ向かった。


右手の傷はまだ完全には塞がっていなかったが、前日より腫れは引いていた。走る前に男へ傷の状態を見せると、男は包帯の上から軽く確認し、今日は走る距離を増やさないと告げた。


「治りかけの傷を、鍛えるために壊すな」


男はそう言って、空き地の端を指した。


「今日は走る練習より、周囲を見る練習をする。向こうまで歩け。途中で俺が声をかける。お前は止まらず、聞こえたことに反応しろ」


彼は言われたとおりに歩き始めた。


最初は簡単だった。


右から声をかけられれば振り向かずに返事をし、足元に置かれた小枝を避け、後ろから近づく足音に気づけば歩調を変える。


しかし、途中で男が突然、彼の進行方向へ回り込んだ。


彼は足を止めた。


「なぜ止まった?」


「前を塞がれたからです」


「塞がれたら、必ず止まるのか?」


彼は周囲を見た。


左には狭い通路、右には低い石垣がある。石垣を越えることはできるが、右手を使わなければ難しい。


「左へ避けます」


「今ならな。相手が左へ動いたら?」


彼は答えられなかった。


男は道を空けた。


「答えを暗記するな。状況を見ろ。逃げ道は一つとは限らないが、いつでも使えるとも限らない。選択肢を増やすのは、頭の中だけじゃない。身体を動かして、実際に通れるかを知ることだ」


その後も、彼は何度か同じ場所を歩いた。


男は毎回、違う位置から声をかけ、進路を塞ぎ、時には何もせずに彼の後ろを歩いた。


やがて、彼は男が何もしない時間にも周囲を気にするようになった。


「今日はここまでだ」


男が言った。


「明日も続けますか?」


「傷の具合次第だ。焦るな」


彼は礼を言い、空き地を後にした。


宿へ戻る途中、直人が市場の入口で待っていた。


「仕事の話が決まった」


「荷物を運ぶ件か?」


「ああ。今日の午後、町の南側にある倉庫で荷物を受け取り、東の修理工房へ運ぶ。小さな金属部品だそうだ」


彼は足を止めた。


東の修理工房。


最近の荷車の事故で、荷物の行き先として指定されていた場所だった。


ただし、同じ場所が出てきたからといって、今回の仕事があの件とつながっているとは限らない。


「誰からの依頼だ?」


「昨日の男の知り合いだ。仕事を休むことになった人の代わりに、荷物を運ぶ者を探していたらしい」


「依頼主の名前は?」


直人が紙片を取り出した。


そこには、荷物の受け取り場所、届け先、時間、報酬が記されていた。依頼主の欄には名前があったが、受け取り先の担当者については、名前ではなく「倉庫番」とだけ書かれている。


彼は紙片を読み直した。


「受け取りの署名については?」


「相手に確認した。受領の記録は残せるそうだ」


「誰が確認した?」


「直人が確認した、と言いたいところだが、正確には依頼を仲介した男だ。倉庫の責任者本人には、まだ会っていない」


「なら、現場で確認する必要があるな」


直人はうなずいた。


「俺もそう思う。受け取る前に、記録の方法を確かめよう」


午後、二人は南側の倉庫へ向かった。


倉庫は市場から離れた場所にあり、入口には荷車が二台止まっていた。中では数人の作業員が木箱を運んでいる。


入口の男に依頼書を見せると、男は紙を確認し、奥へ声をかけた。


しばらくして、年配の倉庫番が現れた。


「金属部品を取りに来たのは、お前たちか」


「そうです。東の修理工房へ運ぶように頼まれています」


彼が答えると、倉庫番は棚の奥から小さな木箱を持ってきた。


箱には封がされ、側面に短い記号が記されていた。


彼は記号を見たが、これまでの記録にあったものと同じだとは判断できなかった。


「中身を確認してもいいですか?」


「封は開けるな。数は外の札に書いてある」


倉庫番は箱を台に置き、横に貼られた札を指した。部品の種類と数量が記載されている。


彼は依頼書と札の内容を照らし合わせた。


数量は一致していた。


「受領の記録を残したいのですが」


「何のために?」


「受け取ったことと、受け取った数量を確認するためです。届け先でも、渡したことを記録してもらいます」


倉庫番は面倒そうな顔をした。


「今までそんなものを求める運び手はいなかったぞ」


「今回は、俺が記録を残したいと思っています」


「お前が勝手に記録するのは構わん。だが、俺は何にでも署名するわけにはいかない」


「分かりました。では、受け取りの日時と数量だけでも、こちらの紙に書いていただけませんか。署名が難しければ、倉庫の印でも構いません」


倉庫番はしばらく考えた後、机から帳簿を取り出した。


「ここに記録はある。必要なら、記載された番号を控えていけ」


彼は帳簿を確認した。


日付、荷物の種類、数量、運び手の記載欄がある。しかし、受け取り先の記録は別の帳簿で管理されているらしく、この帳簿だけでは、最終的に誰が受け取ったのか分からない。


「届け先で受領の記録を残せば、こちらの記録と照合できますか?」


「相手が受領の記録を残せばな」


倉庫番はそれ以上説明しなかった。


彼は帳簿の番号と、受け取った荷物の数量を自分の紙に記録した。


倉庫番が確認したことを示すため、日付の横に簡単な印を押してもらうこともできた。


それだけでも、荷物を受け取ったことを示す材料にはなる。


ただし、届け先が同じように記録を残すかどうかは、まだ分からなかった。


木箱を受け取り、直人と二人で倉庫を出た。


「どう思う?」


直人が尋ねた。


「この倉庫の記録だけでは、最後に誰が受け取ったのか分からない。でも、受け渡しの途中で何が起きたのかを確かめる手掛かりにはなる」


「なら、届け先でも同じように確認するんだな」


「ああ」


二人は東の修理工房へ向かった。


工房の入口では、職人が金属片を削っていた。彼らが木箱を見せると、職人は手を止め、依頼書を確認した。


「部品はそこへ置いてくれ」


彼は箱を置く前に尋ねた。


「受領の記録をお願いできますか?」


職人は顔を上げた。


「受領の記録?」


「倉庫では、数量と日時を記録しました。こちらでも、受け取った数量と時刻を残していただきたいんです」


職人は不満そうに眉を寄せた。


「そんなものは、管理人に聞け」


「管理人はどこにいますか?」


「今日は来ていない」


「では、代理の方は?」


職人は答えず、奥へ向かって声をかけた。


別の男が出てきた。


男は依頼書を受け取り、木箱を見てから、彼らに尋ねた。


「誰に頼まれて運んできた?」


「依頼書に書かれた仕事です」


「依頼主の名前を言え」


彼は紙片に記載された名前を答えた。


男は依頼書を確認したが、すぐには箱を受け取ろうとしなかった。


「この部品は、ここで受け取る予定になっていない」


彼は驚いた。


「しかし、依頼書にはこの工房が届け先だと書かれています」


「誰が書いた?」


「依頼を仲介した人です」


「その人間の名前は?」


彼は依頼書を見た。


そこには依頼主の名前がある。しかし、届け先を変更した人物の名前は記されていない。


「変更があったんですか?」


「俺は知らない。少なくとも、今日ここで受け取るという話は聞いていない」


男は木箱に手を伸ばさなかった。


彼は箱を抱え直した。


受け取る相手がいない以上、ここに置いて帰るわけにはいかない。勝手に別の場所へ運べば、それもまた別の問題を生む。


「では、受け取りを確認できる人が来るまで、ここで待ってもいいですか?」


「好きにしろ。ただし、工房の中には入るな」


男は奥へ戻った。


直人が小声で言った。


「どうする?」


「依頼主に確認する。届け先が変わったのか、それとも工房側が知らされていないだけなのか、今は分からない」


彼は荷物を抱えたまま、工房の入口から少し離れた場所へ移動した。


そのとき、工房の裏手から一人の男が出てきた。


男は木箱を見ると、歩みを止めた。


「それを運んできたのは、お前か」


「そうです」


「なら、こちらへ渡せ」


男は工房の裏手を指した。


彼はすぐには動かなかった。


「受け取りの記録を残してください」


男の表情が変わった。


「誰の指示で、そんなことを言っている?」


「俺自身の判断です。荷物を渡したことを証明できるようにしたいだけです」


男は一歩近づいた。


「余計なことをするな。荷物を渡せば、仕事は終わりだ」


彼は木箱を抱え直した。


昨日までなら、相手の言葉に従うべきか、拒むべきかを、その場の状況だけで判断していたかもしれない。


だが、今は違った。


依頼書に記された届け先と、実際に受け取ろうとする人物が一致していない。受領の記録もない。依頼主の確認も取れていない。


このまま渡せば、後で誰が受け取ったのか分からなくなる可能性がある。


「依頼主に確認するまでは渡せません」


男は彼を睨んだ。


「後悔するぞ」


「それでも、確認します」


男はしばらく彼を見ていたが、やがて舌打ちして裏手へ戻っていった。


直人は周囲を確認し、彼の隣に立った。


「ここに長くいるのは危険かもしれない」


「分かっている。依頼主へ連絡して、指示を確認しよう。荷物は勝手に開けない。誰にも渡さない」


彼は木箱の札をもう一度確かめた。


数量は変わっていない。封も破られていない。


しかし、荷物を渡す相手が誰なのかは、依然として不明だった。


彼は依頼書をしまい、記録に新しい一行を書き加えた。


《指定された届け先で、受領者が確認できなかった。別の人物が記録なしで受け取ろうとしたため、引き渡しを保留した。》


今日の仕事は、まだ終わっていない。


だが、彼は一つの判断を自分で下した。


相手を疑ったからではない。


何を誰に渡すのか、自分が引き受けた仕事の条件を確認できていなかったからだ。


その違いを忘れないように、彼は記録の紙を折り畳んだ。

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