第199章 最初の一歩
翌朝、空が白み始めた頃、彼は東の空き地へ向かった。
右手の傷はまだ痛んでいた。包帯を巻き直し、できるだけ手を動かさないようにしている。
空き地には、昨日の男が先に来ていた。
男は地面に置いた水袋を拾い、彼の姿を見ると、顎で向こう側を示した。
「遅くはないな。そこに荷物を置け」
「今日は何をするんですか?」
「走る」
予想どおりの答えだった。
男は空き地の端から端まで歩き、距離を確かめるように地面を見た。
「まず、向こうの石柱まで走れ。戻ってきたら、また走る。途中で歩いても構わない。ただし、勝手に終わったことにするな」
彼はうなずき、走り始めた。
最初の往復は問題なかった。
二度目になると、息が少し乱れた。三度目には、足が重くなり、呼吸を整えるために歩いた。
男は止めなかった。
四度目の途中、彼は右手を庇いながら走っていることに気づいた。腕を振るたびに傷が引きつる。無意識に右肩へ力が入り、身体全体の動きがぎこちなくなっていた。
石柱までたどり着き、戻ってくると、男が尋ねた。
「何が悪かった?」
「体力が足りません」
「それだけか?」
彼は呼吸を整えながら考えた。
「右手を庇って、身体に余計な力が入っていました。途中から、呼吸も乱れていました」
「ほかには?」
「前ばかり見ていました。走ることに集中しすぎて、周りを見ていませんでした」
男はうなずいた。
「今は走る練習だ。周りを見ながら走れとは言わない。ただし、走っている最中に自分が何をしているのか分からなくなるなら、危険な場所ではもっと早く失敗する」
男は地面に小石を三つ置いた。
「次は、あの石を目印にしろ。走る速さは落としていい。呼吸を止めず、足元を見失わず、戻ってこい」
彼はもう一度走り始めた。
今度は速さを抑えた。
石を一つ目に、二つ目に、三つ目に視線を移し、足元の凹凸を確かめながら進む。最初より時間はかかったが、戻ってきたときの息切れは少なかった。
「どうだった?」
「速く走るより、楽でした」
「当然だ。速さを競っているわけじゃない」
男は石を拾い集めた。
「お前は、危険なときに逃げたいんだろう。なら、逃げ始めた瞬間に全力を出して、十歩で動けなくなるようでは困る。どこまで走れるかを知ることも必要だ」
彼はその言葉を記憶した。
昨日、襲撃者から逃れようとしたとき、彼は周囲の地形を利用した。しかし、相手に捕まれた後は、右手の痛みと力の差に押し切られた。
逃げる技術は、相手から離れる瞬間だけにあるのではない。
離れた後に走り続けられることも、必要なのだ。
「今日はここまでだ」
男が言った。
彼は驚いて顔を上げた。
「もう終わりですか?」
「お前の手は治っていない。今日は走ることが目的だった。余計なことをして傷を悪化させる理由はない」
「分かりました」
「次は、歩くことと走ることを切り替える。自分の限界を把握しろ。限界を超えたかどうかを、倒れてから知るな」
男は水袋を持ち上げた。
「それと、昨日頼んだ手伝いの話だが、今日は説明しておく」
彼は姿勢を正した。
「俺が手伝ってほしいのは、荷物の受け渡しだ」
「荷物、ですか?」
「そうだ。知り合いが、しばらく仕事を休むことになった。代わりに荷物を受け取り、指定された場所へ運んでほしい。ただし、お前は荷物を開ける必要も、中身を調べる必要もない」
彼はすぐには答えなかった。
最近、自分が追っている問題は、荷物の受取記録や運び手の失踪と結びついている。
偶然かもしれない。
だが、何も考えずに引き受けるべき話でもなかった。
「どこからどこまで運ぶんですか?」
「この町の中だ。距離は長くない。荷物も大きくない」
「誰から受け取り、誰に渡すんですか?」
「受け取る相手は俺が指定する。渡す相手は、荷物を受け取る場所にいる人間だ」
「受け取ったことを記録できますか?」
男の目が少し変わった。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「最近、荷物を渡したのに、受け取った記録がないために、運び手が盗んだと疑われた話を聞きました。俺が同じ仕事をするなら、渡したことを証明できるようにしておきたいんです」
男はしばらく彼を見ていた。
「その話を、どこで聞いた?」
彼は答えを選んだ。
若い作業員から聞いたことを、無断で他人に広めるつもりはなかった。彼の名前を出せば、また仕事を失う危険があるかもしれない。
「ある運び手の話です。詳しいことは、今は言えません」
男は追及しなかった。
「なら、仕事は断ってもいい」
「断るつもりはありません。ただ、条件を確認したいんです」
「続けろ」
「荷物を渡したとき、相手の名前と時刻を記録する。可能なら、受け取ったことを本人に書いてもらう。書けないなら、受け渡しを見ていた人間を確認する。それができない仕事なら、引き受ける前に理由を聞きたいです」
男は腕を組んだ。
「お前は、荷物を運ぶだけの仕事を、ずいぶん面倒にするんだな」
「問題が起きなければ、面倒にはなりません。問題が起きたときに、誰が何をしたのか分からなくなるのが困るんです」
男は答えず、空き地の外を見た。
しばらくして、彼に視線を戻した。
「分かった。受け渡しの方法は、こちらで確認する。記録が残せないなら、理由を説明する。それで納得できなければ、お前は断ればいい」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。相手が条件を受け入れるとは限らない」
男は水袋を片づけ始めた。
「明日は同じ時間に来い。走る距離は今日より少し増やす。傷が悪化しているなら、来る前に知らせろ」
彼はうなずいた。
空き地を出るとき、男が最後に声をかけた。
「一つ覚えておけ。何かを疑うことと、相手が悪いと決めつけることは違う。証明を求めるのは構わない。だが、証明がないからといって、相手が必ず嘘をついているわけでもない」
彼は振り返った。
「分かっています」
「本当に分かっているかどうかは、これからの行動で決まる」
男はそれ以上話さなかった。
宿へ戻る道すがら、彼は今日の会話を考えていた。
荷物を運ぶ仕事は、受け渡しを証明するための実践になるかもしれない。だが、今追っている事件と同じものだとは限らない。
相手の条件を聞き、記録を残し、疑問があれば尋ねる。
それだけで、すべての問題が防げるわけではない。
それでも、何も確認せずに引き受けるよりは、自分が何に関わるのかを把握できる。
彼は部屋に戻ると、今日の訓練と会話を別々に記録した。
一方には、走った距離、呼吸の乱れ、右手の痛みを書いた。
もう一方には、荷物を受け取る条件と、確認すべき事項を書いた。
最後に、短い一文を加えた。
《身体の限界を知ることと、仕事の条件を知ること。どちらも、知らないまま進まないための準備だ。》
彼は記録を閉じた。
強くなるための道は、思っていたよりも地味だった。
誰かを倒す技を覚える前に、走り続けられる身体を作らなければならない。
大きな秘密を暴く前に、目の前の約束が何を意味するのかを確かめなければならない。
その順番を飛ばさないことが、今の彼にできる最初の一歩だった。




