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観客のいない世界  作者: 亀


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第198章 教える側の条件

翌日の昼過ぎ、直人が一人の男を連れて戻ってきた。


男は四十歳前後に見えた。背はそれほど高くないが、肩幅が広く、袖口から覗く前腕には古い傷がいくつも残っていた。腰には武器を下げていない。


部屋に入ると、男は彼の右手に目を向けた。


「こいつか?」


「そうだ」


直人が答えた。


男は椅子に座る前に、彼の顔と身体をひと通り眺めた。


「俺に戦い方を教えてほしいそうだな」


「はい」


「どうして俺なんだ?」


彼は直人を見た。


直人がどこまで説明したのか分からない。自分の事情をすべて話していない以上、相手もすべてを知っているわけではないはずだった。


「紹介してくれたのが直人だったからです。それに、俺は今、正面から戦って勝てるほど強くありません。まずは、自分の身を守る方法を学びたいと思っています」


男は鼻で笑った。


「自分の身を守る、か。便利な言葉だな。相手を殴りたい人間も、逃げたい人間も、同じことを言う」


「俺は、逃げる必要があるときに逃げられるようになりたいんです」


「なら、走れ。足腰を鍛えろ。それで終わりだ」


男は立ち上がった。


「帰る」


「待ってください」


彼は思わず声を上げた。


男は振り返ったが、表情は変わらなかった。


「何だ?」


「走ることが必要なのは分かっています。でも、昨日は相手に襟をつかまれました。距離を取る前に捕まったんです。走るだけでは、解決できないこともあります」


「それで?」


「だから、何ができて、何ができないのかを知りたい。俺にできないことなら、最初から別の方法を考えます」


男はしばらく黙っていた。


やがて、椅子に座り直した。


「直人。こいつは自分の考えを曲げないのか?」


「必要なら曲げる。だが、理由も分からず従うことはしない」


「面倒な奴だな」


男は彼を見た。


「俺の条件を聞け。お前がそれを受け入れられるなら、教えてやる」


彼は姿勢を正した。


「一つ目。俺の言うことを聞いても、必ず安全になるとは思うな。俺が教えられるのは、俺が知っている範囲だけだ」


「分かりました」


「二つ目。痛みを我慢することを強さだと思うな。怪我を隠したり、無理をしたりする奴は、結局、自分の身体を壊す。壊れた身体では何も守れない」


彼は包帯を巻いた右手を見た。


「分かりました」


「三つ目。俺は、お前が何を調べているのか知らないし、知ろうとも思わない。だが、そのために俺や俺の知り合いを危険に巻き込むなら、そこで終わりだ」


「当然だと思います」


男は少しだけ目を細めた。


「最後だ。俺はお前を強くする約束はしない。教えたことを身につけられるかどうかは、お前次第だ」


「それでも、お願いします」


男は直人に視線を移した。


「明日から、朝に一刻だけだ。場所は俺が指定する。金は取らない。その代わり、俺の手伝いを一つ頼むことがある」


「どんな手伝いですか?」


「今は言わない。必要になったら話す」


彼はすぐに返事をしなかった。


無料で教えることに、何の理由もないとは思っていない。相手には相手の事情がある。手伝いの内容が分からない以上、無条件で引き受けるべきでもなかった。


「内容を聞いてから、引き受けるかどうか決めてもいいですか」


男は笑った。


今度の笑いには、先ほどの嘲りとは違うものが混じっていた。


「いいだろう。少なくとも、何も考えずに頷く馬鹿ではないらしい」


男は立ち上がった。


「明日の朝、東の空き地へ来い。走れる格好でな。右手は使うな。医者に診せていないなら、先に診せておけ」


「分かりました」


男は扉へ向かい、出ていく直前に振り返った。


「名前を聞いていなかったな」


彼は一瞬、言葉に詰まった。


男はその沈黙を不思議に思ったようだったが、追及はしなかった。


「まあいい。明日、遅れるな」


扉が閉じた。


直人はしばらく黙っていたが、やがて彼の向かいに座った。


「思ったより、話が早かったな」


「お前が信用している人なのか?」


「信用という言葉は、あまり簡単に使わないほうがいい」


直人は水を飲んだ。


「あの人は、以前、荷運びの仕事をしていた。人と揉めることもあったが、無茶をして長く働けなくなる連中を何人も見てきたらしい。今は、身体を壊した人間に仕事を紹介したり、若い連中に身の守り方を教えたりしている」


「戦いの専門家ではないんだな」


「少なくとも、俺が知る限りはな。だからといって、何も知らないわけでもない」


彼はうなずいた。


自分が求めているのは、必ず勝てる技術ではない。


相手の腕力に頼らず、危険を察知し、距離を保ち、捕まったときに逃げるための技術だ。相手を倒すことより、行動を続けられる状態で生き残ることを優先する。


その目的なら、男が教えられることにも意味があるはずだった。


「明日は、何をすると思う?」


直人が尋ねた。


「走るんじゃないか」


「それだけか?」


「分からない。でも、最初から特別な技を教えてもらえるとは思っていない」


彼は右手を見た。


昨日の襲撃で、彼は自分の限界を思い知らされた。


その経験を無駄にしないためには、悔しさを理由に無理をするのではなく、できないことを一つずつ減らしていく必要がある。


「直人」


「何だ?」


「明日から朝の時間を空けておいてくれ。俺が動けるようになるまでは、調べ物のほうも少し減らす」


直人は意外そうに彼を見た。


「本当にそうするのか?」


「今までと同じやり方を続けても、同じ失敗をする可能性がある。身体を治すことも、準備の一つだ」


「分かった。こちらで動ける部分は動いておく」


彼は礼を言った。


ただし、直人にすべてを任せるつもりはなかった。


調査を分担することと、自分の責任を手放すことは違う。直人が得た情報には直人自身の判断があり、彼が現場で得た情報にも彼自身の判断がある。


それらを混ぜずに持ち寄ることが、今の二人にできる方法だった。


その日の夕方、彼は加工場へ向かうのをやめた。


代わりに、これまでの記録を読み返し、次に確認すべき事柄を整理した。


消えた運び手の行方。


荷物の受取記録が残らなかった理由。


荷車の車輪を回収した人物。


そして、彼を襲った男が、なぜ彼の調査を知っていたのか。


どれも解決していない。


だが、すべてを同時に追う必要もなかった。


彼は記録の端に、小さく書き添えた。


《調べる順番と、動くための準備を分けて考える。》


明日の朝、彼が学ぶのは、戦い方だけではないかもしれない。


自分の弱さを認めることと、弱さを理由に何もかも諦めることは違う。


その違いを、彼はまだ身体で理解していなかった。


だからこそ、明日から始めることに意味があった。

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