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観客のいない世界  作者: 亀


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第197章 逃げるための技術

宿へ戻るまで、彼は一度も立ち止まらなかった。


頬は腫れ、腹には鈍い痛みが残っていた。右手の包帯には、わずかに血が滲んでいる。


直人は何度か彼の歩調に合わせて振り返ったが、何も言わなかった。


先ほどの襲撃について、二人とも話したいことはあった。


しかし、今は人目のある場所を離れ、傷を確かめるほうが先だった。


部屋に入ると、直人は水と布を用意した。


「包帯を外せ」


彼は左手で結び目をほどこうとしたが、うまくいかなかった。


直人が代わりに包帯を外す。


傷口は完全には開いていなかったものの、手のひらの一部が再び裂けていた。血を拭き取ると、彼は思わず指を曲げた。


「痛むか?」


「痛む」


「なら、無理に動かすな」


直人は新しい布を当て、包帯を巻き直した。


「加工場のことは、いったん忘れろ。お前が行くたびに傷が増えていたら、調べられるものも調べられなくなる」


「忘れるつもりはない。ただ、今すぐ行くつもりもない」


「ならいい」


直人は椅子に座った。


「一つ聞きたい。お前は今日、あの男を見て何を考えた?」


「俺を知っていた。少なくとも、荷車の事故のあと、俺が何かを調べていることは知っていた」


「それだけか?」


「いや。俺を捕まえようとしたとき、質問の仕方が変だった。何を調べているかと聞いたあと、誰に言われて来たのかと聞いた。俺が誰かに指示されて動いていると思っていたのかもしれない」


直人は少し考えた。


「お前が誰かの指示で動いていると思ったのか。それとも、そう思わせたいだけなのか」


「分からない」


彼は包帯を見つめた。


「だから、今は決めつけない」


直人はうなずいた。


「その判断は間違っていないと思う。ただ、あの男がこちらの情報をどこから得たのかは、考えておいたほうがいい」


「昨日の作業員かもしれない。だが、彼が話したからとは限らない。俺たちが市場で話していたのを見た人間もいる」


「そうだな」


二人は、知っていることと知らないことを分けて考えた。


若い作業員が仕事の割り当てから外された理由は不明だ。加工場の男が彼を知っていた理由も分からない。昨日連れていかれた運び手が、加工場にいるという確証もない。


それでも、今日の出来事は一つの現実を突きつけていた。


彼らが動けば、誰かがそれを見ている可能性がある。


そして、相手が先に手を出してくることもある。


「直人」


「何だ?」


「俺に戦い方を教えてくれる人を知らないか」


直人は意外そうに彼を見た。


「俺に聞くのか?」


「お前は俺より長くこの時代で生きている。俺が知らない人間も知っているはずだ」


「戦い方といっても、何を学びたい?」


「まずは、逃げるための技術だ。相手を倒すことより、捕まらないことを優先したい。右手も使えないし、正面から力で勝とうとしても無理だ」


直人はすぐには答えなかった。


「知り合いはいる。ただ、誰でもいいわけじゃない。お前の事情を話せば、余計なことに首を突っ込む人間もいる」


「俺の事情をすべて話す必要はない」


「相手が何を求めるかも分からないぞ」


「それは会ってから判断する」


直人は息を吐いた。


「分かった。だが、今すぐ連れていくことはできない。こちらの都合もある。明日まで待て」


「頼む」


その夜、彼は机に向かい、今日の出来事を記録した。


加工場の位置。門に立っていた二人の男。襲撃者の発言。追ってきた経路。戻ってきた男が割って入った時刻。直人と店主が現れたことで相手が退いたこと。


それぞれを、事実と推測に分けて書いた。


最後に、彼は短く付け加えた。


《相手の目的を理解する前に、身体を押さえられた。右手の負傷だけでなく、距離の取り方と逃げる方向の選択にも問題があった。》


書き終えると、彼は筆を置いた。


今まで、危険に遭うたびに、その場をどう切り抜けるかを考えてきた。


地形を利用する。人目のある場所へ移動する。相手の利害を読む。退くべきときに退く。


どれも必要なことだった。


だが、それだけでは足りない。


相手が距離を詰めてきたとき、どう動くのか。手をつかまれたとき、どこへ身体を逃がすのか。転んだとき、どう立ち上がるのか。


頭で理解していても、身体が動かなければ意味がない。


彼は左手で拳を握り、ゆっくりと開いた。


右手は動かさなかった。


焦って傷を悪化させれば、回復はさらに遅れる。今の彼に必要なのは、強くなりたいという気持ちだけではなく、何をどの順番で身につけるべきかを判断することだった。


机の端には、これまで集めた記録が置かれていた。


荷物の受取記録。行き先の変更。消えた運び手。北の倉庫。古い加工場。そして、誰が荷物を受け取ったことになっているのかという問題。


今日の襲撃は、それらの謎を解いてくれなかった。


だが、彼が今後も同じように動けば、調べる前に行動を封じられる可能性があることは分かった。


彼は記録をしまい、灯りを落とした。


翌日から何かが劇的に変わるわけではない。


傷が治るまでには時間がかかる。教えてくれる人間が、期待どおりの人物とも限らない。


それでも、次に危険が迫ったとき、ただ誰かの助けを待つだけにはなりたくなかった。


彼が求めているのは、誰にも負けない力ではない。


自分で選んだ道から、簡単には追い出されないための力だった。

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