第196章 試される資格
翌朝、彼は右手の包帯を巻き直した。
傷はまだ塞がっていない。指を強く握れば痛みが走り、手のひらに体重をかけることもできなかった。
それでも、今日は外へ出る必要があった。
昨夜の紙片に書かれていた言葉が、頭から離れなかった。
《受け取った者を探すな。受け取ったことを証明できない者を探せ。》
匿名の手掛かりが正しいとは限らない。
だが、すでに知っている事件と結びつく以上、無視する理由もなかった。
彼は紙片を記録の束から取り出し、直人に見せた。
「これまでの記録と一緒にするな。書かれた場所と見つけた時間は残す。誰が書いたかは、まだ判断しない」
「分かっている。北の水路で受け取った紙とも、別にしておくんだな」
「ああ」
直人はうなずき、別の紙に必要事項を書き留めた。
二人が部屋を出ようとしたとき、扉が三度叩かれた。
外に立っていたのは、昨日、茶屋で話した若い作業員だった。
少年は息を切らし、何度も後ろを振り返った。
「すみません。少しだけ、来てもらえませんか」
「何があった?」
「昨日話した人とは別の人です。今朝、仕事場へ行ったら、僕の名前が仕事の割り当てから消されていました」
直人が眉を寄せた。
「昨日の話が知られたのか?」
「分かりません。誰かが見ていたのかもしれないし、別の理由かもしれません。でも、仕事を紹介してくれる人から、今日からしばらく来なくていいと言われました」
少年は両手を握りしめた。
「それだけなら、我慢できたんです。でも、昨日連れていかれた運び手のことで、僕も知っているはずだと言われました。何も知らないと答えたら、次に何か起きても助けられないと言われて……」
「誰に言われた?」
「仕事を配っている人です。左手に傷のある男ではありません。別の人です」
彼は少年の顔を見た。
昨日の情報が、すでに誰かの行動に影響している。
しかし、少年への圧力が彼らとの接触によるものなのか、以前から続いていた問題なのかは分からなかった。
「今から、その人に会えるか?」
「会えます。ただし、僕が連れていったと知られたくありません」
「分かった。お前は先に戻れ。俺たちが勝手に訪ねて、偶然会った形にする」
少年は迷った末、うなずいた。
「それと……一つだけ、伝えておきます。昨日の運び手が連れていかれた場所について、少し聞きました」
彼の表情が変わった。
「どこだ?」
「古い加工場です。北の倉庫街から少し離れた場所にあります。ただ、今朝そこへ行ったら、入口に人が立っていました。中に入ることはできませんでした」
「その運び手が、今もそこにいるかは分からないんだな」
「はい」
彼は少年を責めなかった。
場所が分かったことと、そこに人がいることは別だ。相手が待ち伏せをしている可能性もある。
「場所だけ教えてくれ。あとは俺たちで判断する」
少年が去った後、直人が尋ねた。
「行くのか?」
「行く。ただし、正面から入るとは限らない」
「また危険な場所だな」
「だから、先に外を確認する」
二人は少年から聞いた加工場へ向かった。
建物は古い石壁に囲まれ、正面の門は半分開いていた。門のそばには二人の男が立っている。荷車は見当たらず、作業の音も聞こえなかった。
彼は少し離れた店先で足を止めた。
「人がいるのに、作業の音がしない」
直人が小声で言った。
「荷物を置いているだけかもしれない。人を連れてきている可能性もある」
彼は周囲を見回した。
建物の裏手には狭い路地があり、その先は市場へ続いている。反対側には低い石垣と空き地があった。
逃げ道はある。
だが、逃げ道があることと、逃げ切れることは同じではない。
「直人はここに残ってくれ。門の前で騒ぎが起きたら、店の人に知らせてほしい。俺が戻らなければ、無理に中へ入るな」
「一人で行くつもりか?」
「中へ入るとは言っていない。まず、誰が出入りしているかを見る」
直人は納得していない様子だったが、反対しなかった。
彼は店先を離れ、加工場の正面へ歩いた。
門の男の一人が、すぐに彼に気づいた。
「何の用だ」
「仕事を探している。以前、ここで金属部品を扱う仕事があると聞いた」
男は彼の右手を見た。
「その手でか?」
「重い物を持つ仕事はできない。だが、手伝えることがあるなら聞きたい」
男は笑わなかった。
「帰れ。今は人を雇っていない」
「分かった」
彼はそれ以上食い下がらず、来た道を戻った。
だが、門から十分に離れたところで、背後から足音が聞こえた。
「おい、待て」
振り向くと、門にいた男の一人が追ってきていた。
「お前、昨日、市場で騒ぎを起こした男だろう」
「荷車の事故のことなら、俺が起こしたわけじゃない」
「そんな話はしていない。お前は、いろいろな場所を嗅ぎ回っているそうだな」
男が近づいた。
彼は右手を庇いながら、少しずつ路地の入口へ移動した。
「何を調べている?」
「仕事を探しているだけだ」
「嘘をつくな」
男が腕をつかもうとした。
彼は身体をひねって避けたが、右手が壁に触れ、鋭い痛みが走った。
その一瞬、男の手が襟元をつかんだ。
彼は相手の腕を両手で引き剥がそうとした。だが、右手に力が入らず、身体が前へ引かれる。
男の膝が腹に入った。
息が詰まり、彼は片膝をついた。
「お前は、調べる相手を間違えている」
男が彼の肩を押さえつける。
「誰に言われて来た?」
彼は答えなかった。
男の手が、右手の包帯に伸びた。
その瞬間、彼は地面に落ちていた小石を左手でつかみ、相手の顔ではなく、足元へ投げた。
男の視線が一瞬だけ下がる。
彼はその隙に身体を転がし、相手の足を避けて立ち上がった。
だが、男はすぐに追いついた。
今度は拳が飛んできた。
彼は完全には避けきれず、頬を殴られた。視界が揺れ、足がもつれる。
以前なら、ここで相手の動きを観察し、反撃の機会を探そうとしたかもしれない。
だが、今は右手が使えず、相手との力の差も明らかだった。
勝つことを考えてはいけない。
離れることだけを考えろ。
彼は背後の石垣に手をかけようとしたが、傷が痛み、身体を支えられなかった。
男が襟をつかみ直す。
そのとき、路地の向こうから声が飛んだ。
「そこまでだ」
戻ってきた男だった。
彼は相手と自分の間に入り、男の腕を押し返した。
「またお前か」
襲撃者が吐き捨てる。
「この男に用があるなら、なぜ人目のない場所へ連れていこうとする?」
「お前には関係ない」
「なら、ここで話せばいい」
襲撃者は周囲を見た。
路地の入口には、異変に気づいた店主が立っていた。直人もこちらへ向かって走ってくる。
男は舌打ちし、彼を一瞥した。
「次は、誰も助けに来ないぞ」
そう言い残し、加工場の方へ戻っていった。
彼は壁にもたれ、呼吸を整えた。
直人が駆け寄る。
「何をされた?」
「殴られた。右手も、また痛めた」
「だから一人で行くなと言っただろう」
「すまない」
彼は言い返さなかった。
戻ってきた男は、襲撃者が消えた方向を見ていた。
「今の男は、加工場の管理人ではないな」
「分かるのか?」
「門に立っていた人間が、雇う仕事も、建物の用途も答えなかった。お前を見てから態度を変えた。あそこにいた理由が、お前を追い返すことだった可能性はある」
「だが、あの加工場に運び手がいるとは限らない」
「そのとおりだ」
男は彼を見た。
「今のお前では、あの中に入っても何もできない。相手が複数いれば、逃げることさえ難しい」
その言葉は、事実だった。
彼は拳を握ろうとした。右手の痛みで、指が途中までしか曲がらない。
昨日も、今日も、彼は危険を避けようとしていた。それでも、危険のほうから近づいてくる。
そして、彼はまだ、そのたびに誰かの助けを必要としていた。
「俺は、強くなりたい」
彼は小さく言った。
直人が顔を上げた。
「今さら言うことか?」
「今までは、危険から逃げる方法を考えていた。それは間違っていない。でも、逃げることしかできなければ、いつか逃げ道そのものを塞がれる」
戻ってきた男は、しばらく彼を見ていた。
「強くなるというのは、相手を倒せるようになることだけではない。自分が何をできて、何ができないのかを知ることも含まれる」
「それは分かっている」
「なら、まず傷を治せ。今の身体で無理を続ければ、学ぶ前に動けなくなる」
彼は反論しなかった。
今日、加工場の中には入れなかった。
連れていかれた運び手の居場所も確認できていない。襲撃者が何を知っていたのかも分からない。
だが、今日の失敗によって、ひとつだけ曖昧ではなくなったことがある。
彼がこれまで使ってきた観察と判断だけでは、目の前の危険を切り抜けられない場面がある。
次に同じ状況へ追い込まれたとき、誰かが助けに来るとは限らない。
彼は痛む右手を胸元に寄せ、加工場の門を最後に一度だけ見た。
今は、引き返す。
だが、次にここへ来るときは、同じ理由で追い返されるつもりはなかった。




