第195章 消えた受取人
市場の騒ぎが収まるころには、日が傾き始めていた。
直人は荷車の持ち主から聞き取った内容を、紙に短く書き留めていた。
事故の前に指定されていた届け先は東の修理工房。事故の後、荷物の一部を北の倉庫へ運ぶよう指示が変更された。変更を伝えたのは、荷車置き場で行き先を変更していた男。
だが、誰が最初に変更を求めたのかは分からない。
「持ち主は、指示に従っただけだと言っていた」
直人が紙を差し出した。
「届け先を変えた理由も、受け取る人間の名前も知らない。ただ、荷物を届けなければ契約違反になるから、変更を拒めなかったらしい」
「拒んだ場合、何を失う?」
「今回の報酬だけじゃない。次の仕事も回してもらえなくなる可能性があるそうだ」
彼は紙を受け取り、しばらく眺めた。
昨日、仕事を配る男から聞いた話と似ている。
だが、同じ仕組みが使われているからといって、すべての仕事が同じ人物の指示で動いているとは限らない。
「事故で壊れた荷車は、誰が修理することになった?」
「持ち主が修理工を呼んでいる。車輪が外れた原因はまだ分からないらしい」
「修理が終わるまで、壊れた部品は残るか」
「普通なら残るだろうな。だが、さっき見たときには、外れた車輪がもう運ばれていた」
彼は顔を上げた。
「誰が運んだ?」
「持ち主は、修理工が持っていったと言っている」
「その修理工は、誰が呼んだ?」
直人は答えられなかった。
二人の会話を聞いていた、かつて彼らのもとを離れた男が口を開いた。
「修理工を探すのは後にしたほうがいい。今から追えば、相手にこちらの関心を教えることになる」
「では、どうする?」
「壊れた車輪が何に使われるかではなく、壊れた車輪がなくなったことで、誰が困るのかを考える」
彼は男を見た。
「それは、さっき俺が考えていたことと同じだ」
「なら、答えは出ている。今は追わない」
男はそれ以上説明しなかった。
彼がどこまで知っているのか、何を隠しているのかは、まだ分からない。ただ、少なくとも今回は、彼らの判断は一致していた。
三人は市場を離れ、以前から使っていた道を避けて移動した。
途中、直人が立ち止まった。
「待ってくれ。あそこにいるのは……」
通りの反対側に、一人の少年がいた。
北の水路で働いていた若い作業員だった。以前、旧番号の荷物について話したことがある。少年は彼らに気づくと、一度周囲を見回し、近くの店の軒下へ移動した。
彼はすぐには近づかなかった。
少年が自分から呼び出したのか、それとも偶然なのか。少なくとも、周囲に見張りがいないと確認できるまでは、こちらから動く理由はなかった。
少年はしばらく待った後、小さく手を振った。
「少しだけ、話せますか」
三人は人通りのある茶屋へ入った。
少年は座るなり、低い声で話し始めた。
「今日、北の倉庫へ荷物が運ばれたんです。事故で遅れた荷物とは別です。昨日から、そちらへ運ぶ予定になっていたものです」
「中身は?」
「知りません。ただ、運ぶ人間が途中で変わりました」
「運び手が変わること自体は、珍しくないだろう」
彼が言うと、少年はうなずいた。
「はい。でも、今回は違いました。最初に仕事を受けた人は、荷物を渡すところまでが仕事だと思っていたんです。ところが、途中で別の人が来て、荷物を受け取った。そこで仕事は終わったと言われたそうです」
「その後、荷物はどこへ行った?」
「北の倉庫です。そこまでは、別の運び手が持っていきました」
彼は茶碗に触れず、少年の顔を見た。
仕事を配る者。届け先を変える者。荷物を途中で受け取る者。最後に倉庫へ運ぶ者。
それぞれが別の人間でも、仕組みとしては成立する。
問題は、その仕組みを誰が利用しているかだった。
「その話を、どうして俺たちに?」
少年はすぐには答えなかった。
「荷物を渡した人が、仕事を終えた後も帰してもらえなかったからです」
直人の表情が変わった。
「帰してもらえなかった?」
「殴られたわけではありません。荷物を渡した記録がないから、仕事が終わった証明ができないと言われたそうです。受け取った人間は、そんな荷物は受け取っていないと言っている。だから、運び手が勝手に荷物を持ち去った可能性がある、と」
「それで、今その人はどこにいる?」
「分かりません。仕事を紹介した人間が、話をつけると言って連れていきました」
彼は息を吐いた。
また一人、運び手の行方が分からなくなった。
だが、以前の一件と同じだと決めつけることはできない。今の話には、荷物を受け取った人間が否定しているという、新しい問題があった。
「その人の名前は?」
「知りません。仕事の現場では、名前を聞かないことも多いので」
「紹介した人間の特徴は?」
少年は少し考えた。
「左手に小さな傷がある男ではありません。あの男は仕事を紹介する側でしたが、今回、連れていったのは別の人間です。背が高くて、首元に古い火傷の跡がありました」
彼は直人と目を合わせた。
左手に傷のある男と、首元に火傷の跡がある男。
役割が違うだけなのか。それとも、別々の集団なのか。
今の情報だけでは分からない。
「その男がどこへ行ったか、見ていないのか?」
「北の倉庫街へ向かいました。でも、途中で人が多くなって、見失いました」
少年はそこで言葉を切った。
「もう一つ、伝えておきたいことがあります」
「何だ?」
「その人が連れていかれる前に、別の男が来ました。荷物を受け取った人とは違います。その男は、運び手にこう言ったんです」
少年は記憶を探るように、目を伏せた。
「『お前が何を運んだかではない。誰に渡したことになっているかが問題だ』と」
彼は、その言葉を頭の中で繰り返した。
荷物の中身ではない。
誰に渡したことになっているか。
それは、運び手の責任を決めるための言葉にも聞こえるし、実際に荷物を受け取った人間を隠すための言葉にも聞こえた。
「その男の顔は覚えているか?」
「はい。ただ、名前は知りません」
「今、ここに呼ぶことはできるか?」
少年は首を横に振った。
「できません。僕があなたたちと話したと知られたら、仕事を回してもらえなくなるかもしれない」
「分かった。無理に頼むつもりはない」
彼はそれ以上、少年を問い詰めなかった。
少年が帰った後、直人が小さく息を吐いた。
「また、仕事を失うことを恐れている人間か」
「恐れているから、何も話せないわけじゃない。話せる範囲を選んでいるんだ」
「だが、その範囲では、連れていかれた人を見つけられない」
「そうだな」
彼は否定しなかった。
情報を集めることと、人を助けることは同じではない。話を聞くだけでは、連れていかれた人間がどこにいるのか分からない。
それでも、今の情報には一つの変化があった。
これまで彼らが追っていたのは、荷物の移動と権限の変更だった。今回は、荷物を受け取った事実そのものが否定され、その責任が運び手に押しつけられている。
もし、それが一つの仕組みとして繰り返されているなら、荷物の行き先だけを追っても、失踪した人間にはたどり着けない。
「直人、明日は北の倉庫へ行かない」
「では、どこへ?」
「運び手が仕事を終えたと認められる条件を調べる。受け取りの記録がなければ仕事が終わらないのか。それとも、記録があっても受け取り側が否定できるのか。そこが分かれば、次に何を確かめるべきか決められる」
直人は少し考え、うなずいた。
「ただし、連れていかれた人のことは忘れるなよ」
「忘れていない」
彼はそう答えた。
行方の分からない運び手。首元に火傷の跡がある男。受け取りを否定した人物。そして、誰に渡したことになっているかが問題だと告げた男。
どれも、まだ解決していない。
その夜、彼らが借りている部屋へ戻ると、扉の下に細長い紙が差し込まれていた。
直人が先に気づき、拾い上げようとする。
「触るな」
彼は制止した。
紙には、短い一文だけが書かれていた。
《受け取った者を探すな。受け取ったことを証明できない者を探せ。》
署名も、日付もなかった。
彼は紙を見つめた。
これまで受け取った匿名の手掛かりと同じ人物が書いたのかは分からない。
だが、今回の言葉は、先ほど少年から聞いた話とあまりにも近かった。
誰かが少年の話を知っているのか。
それとも、少年が話す前から、同じ問題を追っていた人間がいるのか。
彼は紙をほかの記録とは分けて保管した。
明日、最初に確かめるべきことが決まった。
荷物の行き先ではない。
荷物を受け取ったと証明する仕組みと、それを失った人間が、どのような立場に置かれるのかだった。




