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観客のいない世界  作者: 亀


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第194章 奪われた退路

北の倉庫街を離れた帰り道、彼らは三人に分かれて歩いていた。


直人は市場側の通りを進み、かつて離れていった男は少し距離を置いて後方を歩く。


男の提案だった。


「三人で固まって歩けば、誰かに見られたとき、こちらが何を警戒しているのかまで伝わる」


「それで、何か起きたら?」


「そのときは、誰がどこにいるか分かっていたほうがいい」


男はそう答えた。


彼の言葉を全面的に信用したわけではない。それでも、今の彼らには、互いに見える位置を保ちながら別々に動くという選択肢があった。


その選択が正しかったかどうかは、すぐに試されることになった。


市場へ続く細い道に差しかかったとき、前方から荷車が突っ込んできた。


「どけ!」


御者が叫ぶ。


荷車は右へ大きく傾き、積まれた木材が道の中央へ滑り落ちた。通行人が悲鳴を上げて左右へ逃げる。


彼は反射的に左へ身をかわした。


右手に走った痛みで、足が一瞬止まる。


その隙に、背後から誰かが肩をつかんだ。


振り向くより早く、布を巻いた棒が頬の横を通り過ぎた。


彼は頭を下げた。棒が壁に当たり、鈍い音を立てる。


「またお前か」


相手の顔には見覚えがあった。


昨日、荷車置き場で彼を問い詰めてきた男の一人だった。


男は彼の右手を見て、口元をわずかに歪めた。


「その手では、逃げるのも大変だろう」


彼は答えなかった。


道の先では、倒れた木材を避けようとする人々が押し合っている。荷車は横倒しになり、車輪の一つが外れていた。


偶然の事故なら、目の前の男がここにいる理由はない。


しかし、事故を装った襲撃だと断定する材料もなかった。


彼は相手の足元を見た。


男の背後には壁。左側には積み荷。右側には人の流れがある。


逃げ道は正面しかない。


だが、正面にはもう一人いた。


「荷車を見ろ!」


彼は突然、通りに向かって叫んだ。


「車輪が外れている。まだ荷が落ちるぞ!」


周囲の人間が一斉に荷車へ目を向けた。


その瞬間、彼は棒を持つ男の腕をつかまず、横倒しになった木材の端を足で蹴った。


木材がわずかに転がり、男の足元を塞ぐ。


彼はその隙間を抜けようとした。


だが、右肩を強く押され、壁にぶつかった。


痛みで視界が揺れる。


男が棒を振り上げた。


その腕が、横から伸びた手に止められた。


「人目がある場所で、何をしている」


戻ってきた男だった。


彼は棒を持つ男の手首を押さえ、もう片方の手で相手の肩を突き放した。力任せに殴ったわけではない。男が体勢を崩したところで、すぐに距離を取った。


「邪魔をするな」


棒を持つ男が吐き捨てる。


「そちらが先に始めたことだろう」


戻ってきた男は、相手の背後にいるもう一人を見た。


「ここで続けるなら、倒れた荷車の持ち主も、逃げた通行人も、全員が証人になる。お前たちが困らないのなら、続ければいい」


二人は互いに目を合わせた。


そのとき、直人が通りの向こうから走ってきた。


「こっちは人を呼んだ。荷車の事故を調べる者も来る!」


それが本当かどうか、襲撃者たちには分からなかった。


棒を持つ男は舌打ちし、倒れた木材をまたいで後退した。もう一人も人混みに紛れて姿を消した。


追跡はしなかった。


彼の右手は、壁にぶつかった衝撃だけでも十分に痛んでいた。ここで無理に追えば、逃げる相手に背中を見せることになる。


「立てるか」


直人が近づいた。


「歩ける」


「それは聞いていない。立てるかと聞いたんだ」


彼は壁から身体を離し、自分の足で立ち直った。


「立てる」


直人はそれ以上、問い詰めなかった。


三人は人目のある市場の入口まで移動した。戻ってきた男が周囲を確認し、直人が水を買いに行く。


彼は壁際に座り、右手を左手で支えた。


「昨日の二人と同じ連中か?」


戻ってきた男が尋ねた。


「一人は同じだ。もう一人は分からない」


「荷車の事故まで、あいつらの仕業だと思うか」


「まだ分からない。ただ、事故が起きた直後に俺を襲う人間がいた。少なくとも、あの事故を利用するつもりだった可能性はある」


男はうなずいた。


「なら、次は事故そのものを調べるより、事故が起きたことで誰が動けるようになったかを見たほうがいい」


彼は顔を上げた。


「どういう意味だ?」


「道が塞がれた。人が散った。荷物が倒れた。誰かを連れ去るにも、何かを運び出すにも都合がいい。だが、あの騒ぎの目的が襲撃だったとは限らない。別の目的のついでに、お前を排除しようとした可能性もある」


その言葉を聞いて、彼は倒れた荷車を思い出した。


外れた車輪。


滑り落ちた木材。


人々の視線が一斉に移った瞬間。


そして、自分の右手を見ていた男。


「直人」


戻ってきた直人に声をかける。


「荷車の持ち主と、運転していた人を確認できるか。さっきの連中のことは言わなくていい。事故の後、誰が荷を回収し、どこへ運ぶことになったのかを聞いてほしい」


「分かった。お前は?」


「ここで待つ。今は追わない」


直人は一瞬だけ彼の右手を見た。


「本当に、待つだけでいいんだな?」


「待つのも仕事だ。動けないふりをして、相手が何を取り戻しに来るかを見る方法もある」


「ただし、無理はするなよ」


直人が離れていくと、戻ってきた男は彼の隣に腰を下ろした。


「さっきの動き、悪くなかった」


「木材を蹴っただけだ」


「だからだ。相手を倒そうとせず、相手が立っていられる場所を奪った。今のお前には、そちらのほうが現実的だ」


褒められているとは思わなかった。


彼は自分の右手を見た。指を少し曲げただけで、傷の奥が引きつる。


この手で、以前のように戦うことはできない。


だが、戦えないことと、何もできないことは同じではなかった。


しばらくして、直人が戻ってきた。


荷車の持ち主は、事故の処理を急いでいた。荷物の一部は別の荷車へ移され、残りは近くの倉庫へ運ばれる予定だったという。


問題は、その倉庫だった。


「東の修理工房じゃないのか?」


彼が尋ねると、直人は首を横に振った。


「違う。最初は東の修理工房へ運ぶ予定だったらしい。でも、事故のあと、持ち主が北の倉庫へ変更した。理由を聞いたら、受け取り側から連絡があったと言っていた」


「誰から?」


「名前は知らないそうだ。連絡を伝えたのは、荷車置き場で行き先を変更していた男らしい」


昨日、紙片を受け取っていた男。


仕事を配る男とは別の人物だった。


「その荷物は、もう運ばれたのか?」


「一部はな。残りは事故の処理で遅れている。持ち主は、今日中に届けなければ契約違反になると言っていた」


彼は立ち上がろうとして、右手の痛みに顔をしかめた。


直人が肩を支えようとしたが、彼は首を振った。


「北の倉庫へは行かない」


「行かないのか?」


「今行けば、向こうが用意した場所で、向こうが選んだ荷物を見ることになる。それに、あの襲撃が荷物の移動と関係しているなら、俺が現れた時点で、残りの荷物も別の場所へ移されるかもしれない」


戻ってきた男が口を開いた。


「では、何をする?」


彼は少し考えた。


「荷物が届かなかった場合に、誰が損をするのかを調べる。持ち主なのか、運び手なのか、受け取り側なのか。それと、事故の処理を急がせている人間が誰なのか」


「また人を調べるのか」


「いや。今度は、相手が急いでいることを利用する」


彼は直人に向き直った。


「荷車の持ち主には、届け先を変更した指示の控えがあるか確認してほしい。なければ、契約違反の責任を誰が負うことになっているかだけ聞いてくれ。名前を無理に聞き出す必要はない」


「分かった」


「それから、俺たちが今いる場所は、あの二人に知られている。今日中に宿へ戻る道は変える。荷物を置いている場所にも、誰か一人で行かないよう連絡してくれ」


直人の表情が変わった。


「箱のことか」


「箱だけじゃない。記録も道具も、俺たちがここまで集めたものもだ」


彼は立ち上がり、痛む手を胸元に寄せた。


昨日まで、彼は誰が荷物を動かしているのかを追っていた。


今日は、自分が調べていることを知った人間が、荷物の移動を利用して彼の退路を塞いだ。


その二つが同じ計画の一部なのかは分からない。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。


相手は、彼がどこへ行くかだけでなく、どこへ戻るかにも目を向け始めている。


次に守るべきものは、目の前の証拠だけではなかった。

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