第193章 罠の外側
翌朝、男はいつもより早く目を覚ました。
右手の傷は、昨夜より少し腫れていた。指を動かすと、掌の奥に鈍い痛みが走る。医師からは無理に使わないよう言われていたが、昨日の事故で再び負担をかけてしまった。
男は包帯を確認し、必要以上に指を動かさないよう気をつけながら、机の上に地図を広げた。
昨夜届いた紙片は、地図の横に置いてある。
《運び手を探すなら、先に運び手を必要としている者を探せ。》
言葉そのものは単純だった。
問題は、誰が、何のために書いたのかということだ。
運び手を必要としている者が、荷物の持ち主なのか、仲介人なのか、それとも別の誰かなのか。そこが分からなければ、調査の方向を決めることもできない。
「考え込んでも、答えは出ないか」
男は紙片をしまった。
直人はすでに起きており、出かける準備をしていた。
「修理場の周辺を確認してくる。建物の出入り口と、人の流れを見ればいいんだな?」
「ああ。特定の人物を見つけても、無理に接触しなくていい。誰が来て、誰が帰るのか。それだけでも十分だ」
「お前は、仕事を割り振る男を探すんだったな」
「そうだ。作業員の証言と、昨日の老人の話をもとに、臨時の仕事を紹介している場所を調べる」
二人は、昼前に再び合流する約束をして別れた。
男は最初に、以前作業員が仕事を受けたという臨時労働者の仲介所を訪ねた。
表向きは、荷物運びや倉庫整理の仕事を紹介する小さな事務所だった。入口には募集条件が書かれた紙が貼られている。短期契約、日払い、経験不問。特別な資格がなくても働ける仕事が並んでいた。
男が中へ入ると、受付にいた女が顔を上げた。
「仕事をお探しですか?」
「仕事を紹介している方について、少し聞きたいことがあります」
女の表情がわずかに変わった。
「どの方でしょう?」
「三十歳前後で、平均的な身長です。左手に小さな傷があると聞きました。荷物運びの仕事を割り振っている人物です」
女はすぐには答えなかった。
「そのような特徴の方は、ここにも何人か出入りしています」
「では、最近、荷物の運搬先を途中で変更するような仕事はありましたか?」
「仕事の内容は、依頼主によって違います。こちらでは、依頼された条件に合う人を紹介しているだけです」
「依頼主は誰ですか?」
「お答えできません」
予想どおりの返答だった。
男は受付の前から動かなかったが、質問を重ねることもしなかった。
「分かりました。では、紹介された仕事が現場で変更された場合、誰が責任を負うことになっていますか?」
女は、今度は少し困ったような顔をした。
「契約内容によります。依頼主が変更を指示した場合もあれば、現場の責任者が判断する場合もあります」
「働く人間には、変更を断る権利がありますか?」
「もちろん、断ること自体はできます。ただし、現場で断った場合、その日の報酬が支払われるかどうかは、契約条件によります」
「仕事を断ったことで、次の紹介を受けられなくなることは?」
女は答えるまでに時間をかけた。
「……そういう苦情が出ることはあります。ただ、すべてのケースが不当だとは言えません。依頼主が求める条件に合わなければ、次の紹介が難しくなることもありますから」
男はうなずいた。
この女が、運び手を脅していたわけではない。
仕事を紹介する側にも、依頼主との契約や紹介先との関係がある。問題が起きたとき、誰がどこまで責任を負うのかは、簡単には決められない。
だが、働く側が仕事を断れば、収入だけでなく、その先の仕事まで失う可能性がある。
それを知っている人間が、条件の悪い仕事を押しつけることもできる。
「もう一つだけ。仕事の依頼を受ける前に、運搬先や荷物の内容を確認することはできますか?」
「通常はできます。ただし、依頼主が機密性を求める場合、詳しい内容が現場で伝えられることもあります」
「その場合、働く人間が危険だと判断したら?」
「断ることはできます。ただ、実際に断れるかどうかは、その人の事情にもよるでしょう」
男は、それ以上質問しなかった。
受付の女は、制度の仕組みを説明しているだけだった。
彼女が何かを隠している可能性はあるが、今の話だけでは判断できない。
男は礼を言い、事務所を出た。
外へ出ると、通りの向こうに見覚えのある男が立っていた。
左手に小さな傷がある。
身長も、作業員の説明に近い。
男が視線を向けると、相手はすぐに歩き出した。
男は追わなかった。
相手が自分に気づいたのか、それとも偶然その場にいただけなのか、まだ分からない。
男は通りの反対側にある店へ入り、窓際の席に腰を下ろした。
相手の進行方向を直接追うのではなく、通りを行き交う人々の動きを観察する。
しばらくすると、先ほどの男が戻ってきた。
今度は、一人ではなかった。
別の男と短く言葉を交わし、折り畳んだ紙を渡している。
紙を受け取った男は、そのまま近くの荷車置き場へ向かった。
左手に傷のある男は、通りを横切り、別の路地へ消えていった。
男は窓から離れた。
一人を追えば、もう一人の動きを見失う。
だからといって、二人とも追うことはできない。
男は、紙を受け取った人物の方を選んだ。
荷車置き場では、数人の作業員が車輪や車軸を確認していた。紙を受け取った男は、そのうちの一人に何かを指示し、別の荷車を指さした。
その荷車には、木箱が三つ積まれていた。
男は距離を保ちながら、作業員たちの会話に耳を傾けた。
「この荷物は、東の修理場じゃないのか?」
「変更になった。北の倉庫へ運ぶ」
「またか。昨日も行き先が変わったばかりだぞ」
「文句があるなら、仕事を受けなければよかっただろう」
「受けたときには、こんな条件じゃなかった」
言い争いが始まった。
紙を受け取った男は、作業員たちを見回した。
「荷物を運ぶのか、運ばないのか。今ここで決めろ。運ばないなら、別の人間を探す」
作業員の一人が拳を握った。
だが、結局、何も言わなかった。
彼らは荷車を押し始めた。
男はその様子を見ながら、ひとつのことに気づいた。
左手に傷のある男は、仕事の条件をすべて決めているわけではない。
依頼を受け、運び手を集め、現場へ人を送り込んでいる。
しかし、荷物の行き先を変更したのは、別の男だった。
誰が仕事を割り振り、誰が条件を変え、誰が最終的な判断を下しているのか。
それぞれの役割は、まだ完全には分からない。
だが、少なくとも一人を見つければすべてが分かる、という状況ではなかった。
男は、荷車の行き先を記録した。
それから、紙を受け取った男がどこへ向かうのかを確認しようとした。
その瞬間、背後から声がした。
「何を見ている?」
男が振り返ると、二人の男が立っていた。
一人は、先ほど荷車置き場で指示を出していた人物だった。
もう一人は見覚えのない男で、腰には短い棒を差している。
「荷物の運搬について調べています」
男は落ち着いて答えた。
「誰に頼まれた?」
「誰にも頼まれていません。荷物が途中で運搬先を変えられることがあると聞いたので、確認しているだけです」
「それを調べて、何になる?」
「荷物が正しい場所へ届くのか、働く人間が危険にさらされていないかを知りたいんです」
二人は顔を見合わせた。
「お前には関係のないことだ」
「関係がないかどうかを判断するためにも、情報が必要です」
男がそう答えると、棒を腰に差した男が一歩近づいた。
「口の利き方に気をつけろ」
男は相手の手元を見た。
右手は傷ついている。相手が棒を抜けば、まともに戦うのは難しい。
それでも、ここで怯えて逃げるだけでは、相手の要求を受け入れたことになる。
男は周囲を確認した。
荷車置き場の入口は狭く、背後には木材が積まれている。左側には人通りの多い通りがある。
逃げ道はある。
だが、今ここで逃げる必要があるのか。
「私は、あなたたちの仕事を邪魔するつもりはありません。ただ、質問に答えられないなら、それで構いません」
男は言った。
「これ以上、ここにはいません」
そのまま左側へ動こうとした瞬間、棒を持った男が腕を伸ばした。
男は半歩下がり、相手の手を避けた。
右手に痛みが走る。
相手はさらに距離を詰めた。
男は木材の山を背にしないよう、通りの方向へ移動した。
正面から殴り合えば、傷ついた手が持たない。
相手の動きを止めるよりも、人目のある場所へ出ることを優先した。
棒を持った男が腕を振り上げる。
男は身をかがめ、相手の脇を抜けようとした。
だが、もう一人が進路を塞いだ。
逃げ道が狭まる。
そのとき、荷車置き場の奥から怒鳴り声が響いた。
「何をやっている!」
作業員たちがこちらを見ていた。
荷車を指揮していた男は、舌打ちをした。
「今日は見逃してやる。次に同じことをしたら、ただでは済まないぞ」
二人は男を睨みつけてから、荷車置き場の奥へ戻っていった。
男はすぐには動かなかった。
相手が本当に立ち去ったのを確認してから、通りへ出た。
右手の傷が、さっきよりも痛んでいた。
それでも、男はその場にとどまらず、人通りの多い店へ入った。
しばらくしてから、直人との待ち合わせ場所へ向かった。
約束の時間より少し早く、直人はすでに来ていた。
「何があった?」
男の顔を見た直人が尋ねた。
「少し揉めた。だが、大丈夫だ」
男は荷車置き場で見たことを説明した。
仕事を割り振る男らしい人物。
荷物の行き先を変更する別の男。
そして、質問をしただけで威圧してきた二人。
直人は黙って聞いていた。
「やはり、あの連中はつながっているのか?」
「つながっている可能性はある。でも、どこまでつながっているのかは分からない。仕事を割り振る人間が、荷物の行き先まで決めているわけではなさそうだ」
「それなら、行き先を変更している男を追えばいい」
「そうしたいところだが、今日の俺は相手に顔を覚えられた。これ以上、同じ場所へ行けば、こちらの動きを読まれる可能性がある」
男は一度、言葉を切った。
「それに、俺たちが追っている間にも、別の荷物が動いている。全部を追いかけるのは無理だ」
直人はうなずいた。
「修理場の方はどうだった?」
「何か分かったか?」
直人は、持っていた紙を机に広げた。
「東の修理場には、確かに荷車が何台も出入りしていた。だが、修理そのものは普通に行われているように見えた」
「怪しい人物は?」
「一人だけ、気になる男がいた。修理を依頼するのではなく、作業場の外で職人と話をしていた。話が終わると、職人が裏口から出てきて、別の建物へ向かった」
「その建物は?」
「古い倉庫だ。表の看板は外されていた。中に荷物があるかどうかまでは分からない」
男は地図を広げた。
直人が示した倉庫の位置は、昨日の工房から遠くなかった。
そして、先ほど荷車が向かっていた北の倉庫とも、同じ地域にある。
「明日、そこを調べよう」
直人が言った。
男は首を横に振った。
「いや。明日は別のことをする」
「何を?」
「今日、荷車置き場で見た男が、どこから指示を受けていたのかを調べる。倉庫はそのあとだ」
「相手に顔を覚えられたんだろう?」
「だからこそ、同じ場所へは行かない。こちらが何を知っているのか、相手には分からない。今のうちに、別の経路から情報を集める」
男は、地図の上に二つの印を付けた。
仕事を割り振る者。
荷物の行き先を変える者。
その間に、依頼主と受取人がいる。
誰か一人を捕まえれば解決する問題ではない。
それぞれが自分の役割を果たし、必要に応じて他人へ責任を押しつけることができる。
その仕組みを崩すには、誰が何を決め、誰がその決定から利益を得ているのかを見極める必要があった。
男は、右手の包帯を見た。
今日は、危うく再び傷を悪化させるところだった。
だが、相手が手を出した理由も、どこまで命令を受けていたのかも分からない。
自分が危険にさらされたという事実だけで、相手のすべてを敵と決めるつもりはなかった。
ただし、次に同じことが起きたとき、同じ対応をするつもりもなかった。
「直人。次は、俺たちが先に場所を選ぶ」
「どういう意味だ?」
「相手の都合で呼び出された場所へ行かない。人目のある場所、逃げ道のある場所、連絡が取れる場所。そういう条件をこちらで決めてから接触する」
直人は少し考えてから、うなずいた。
「分かった。今度は、こっちから条件を作るんだな」
「ああ。相手の動きを読むだけじゃ足りない。相手が自由に動ける範囲を、少しずつ狭めていく」
男は地図を畳んだ。
その夜、二人は翌日の調査に必要な準備を進めた。
仕事を割り振る男の正体は、まだ確定していない。
荷車の行き先を変更していた人物も、名前すら分からない。
運び手がどこへ連れていかれたのかも不明なままだ。
それでも、男は初めて、複数の人間が動く仕組みそのものに手を伸ばし始めていた。
翌日、彼らは追跡する相手を探すのではなく、相手が利用しているつながりを探す。
その選択が正しかったのかどうかは、まだ分からない。
ただ、もう一つだけ確かなことがあった。
今日、男を脅した二人は、彼が何を調べているのかを知りたがっていた。
それは、男がまだ知られていない何かに近づき始めていることを意味していた。




