第192章 消えた運び手
事故現場を離れた男と直人は、すぐには北の通りへ向かわなかった。
荷車を押していた男が連れていかれた方向は分かっている。だが、そこへ向かったところで、相手がまだ同じ場所にいる保証はない。無理に追いかければ、今度はこちらが追跡される側になる可能性もあった。
「先に、事故を見ていた人間を探そう」
男はそう言って、荷車が止まった坂道へ戻った。
現場では、職人たちが散らばった金属部品を集め、荷主らしい男が損害の確認を急がせていた。木箱の一つは角が割れ、別の箱は蓋が外れたまま路肩に転がっている。
少年は、道端に座っていた。
直人が近づき、怪我がないか確かめる。
「大丈夫か?」
「はい……。助けてくれて、ありがとうございます」
少年はまだ顔色が悪かった。
「さっきの荷車、あんなに急に止まれなくなるものなんですか?」
「普通なら、あそこまでひどくはならないと思う。ただ、荷物が重ければ止まりにくくなるし、車輪や車軸に問題があれば話は別だ」
男は、荷車の残した跡を見ながら答えた。
「運んでいた人について、何か気づいたことはないか?」
少年は少し考えた。
「荷車が来る前、後ろから誰かが走ってきたんです。荷車を押していた人に何か言っていました」
「何と言っていた?」
「よく聞こえませんでした。でも、荷車を押していた人は振り返って、その人を見ていました。そのあと、急に速度が上がったんです」
男と直人は顔を見合わせた。
「その人物の顔は覚えているか?」
「帽子をかぶっていました。服は暗い色だったと思います。でも、顔はよく見えませんでした」
「その人は、荷車が止まったあとも現場にいたか?」
少年は首を横に振った。
「分かりません。荷車がこっちへ来たので、逃げることしか考えられませんでした」
男は少年に礼を言い、無理に思い出させようとはしなかった。
目撃情報は断片的だったが、少なくとも荷車の速度が上がったことには、何らかのきっかけがあった可能性がある。
ただし、誰かが意図的に事故を起こしたと決めつけることはできない。
坂道で荷車が制御を失い、後ろから来た人物がたまたま声をかけただけかもしれない。
男は、少年の話をそのまま記録した。
次に、事故現場に残っていた職人へ声をかけた。
「荷物の受取人は、誰だったんですか?」
職人は不機嫌そうに顔を上げた。
「そんなことは知らん。俺は荷物を拾っていただけだ」
「荷車を手配した人間なら、見ていませんか?」
「荷主らしい男がいた。それだけだ」
職人は道路の反対側を指した。
「荷物を運ばせたのは、あそこの男だ。さっきから責任を取れと騒いでいる」
男は、荷主らしい人物を見た。
中年の男が、割れた箱を前にして、別の人間と激しく言い争っている。
「運び手が消えたからといって、俺に全部押しつけるな!」
「荷物を預かったのはあんただろう!」
「預かったのは荷物だ! 運ぶ人間まで俺が管理していたわけじゃない!」
男は会話が落ち着くのを待った。
やがて相手が一人になったところで、声をかけた。
「少し、お話を聞かせてもらえませんか?」
中年の男は、警戒した目を向けた。
「誰だ、お前は?」
「事故を目撃しました。運び手が連れていかれるのも見ています。荷物の損害について、何か分かることがあるかと思いまして」
「余計な世話だ。これは俺たちの問題だ」
「では、一つだけ。あの荷車を手配したのは、あなたですか?」
中年の男は、すぐには答えなかった。
「……俺は運送の依頼を受けただけだ。荷車を押す人間は、別のところから手配された」
「その手配先は?」
「知らん。依頼主が指定した仲介人を通しただけだ」
「依頼主は?」
「それも、仲介人を通している。俺は荷物を指定された場所へ運ぶ仕事を請け負った。それだけだ」
男は相手の言葉を慎重に聞いた。
運送の依頼主、仲介人、実際に荷車を押す人間。
少なくとも三つの役割が分かれている。
以前から見えていた構造と似ているが、今回の事故が同じ仕組みによるものかどうかは、まだ分からない。
「運ぶ荷物の中身は知っていましたか?」
「金属部品だ。それ以上は知らん」
「届け先は?」
「事故がなければ、東の修理場へ運ぶ予定だった」
男は眉を動かした。
「修理場?」
「ああ。壊れた荷車の部品を交換するためだと聞いている。俺はその部品を届けるよう頼まれただけだ」
「その修理場の名前を教えてもらえますか?」
中年の男は男をじっと見た。
「なぜ知りたい?」
「荷車の車輪に、何か細工されたような跡がありました。もし修理用の部品を運んでいたのなら、今回の事故と関係があるかもしれません」
「細工だと?」
中年の男の表情が変わった。
「誰がそんなことを言った?」
「誰かが言ったわけではありません。実際に車輪を見て、気になっただけです」
「……余計なことを調べるな」
中年の男は声を落とした。
「事故の責任は、運び手が勝手に速度を上げたことにある。俺はそう報告するつもりだ。お前が何を見たところで、話は変わらん」
「まだ原因が分かっていないのに、責任を決めるんですか?」
「俺が決めるんじゃない。荷物を受け取る側が決めるんだ」
男は、その言葉を聞き逃さなかった。
「荷物を受け取る側は、事故の現場を見ていないんですよね?」
「……そうだ」
「それなのに、運び手の責任になる?」
中年の男は答えなかった。
やがて、周囲を気にするように視線を動かし、低い声で言った。
「俺にも生活がある。依頼を失えば、仕事がなくなる。ここで余計なことを話して、次の仕事まで失うわけにはいかない」
男は、それ以上問い詰めなかった。
相手が嘘をついている可能性はある。
だが、仕事を失うことを恐れているのも事実かもしれない。
「分かりました。修理場の名前だけ、教えてもらえませんか。あなたが話したことを、こちらから勝手に広めるつもりはありません」
中年の男は長い沈黙のあと、地図の端に短い名前を書いた。
「これ以上は知らん。俺を巻き込むな」
男は礼を言い、その場を離れた。
直人が小声で尋ねた。
「信じるのか?」
「話のすべてを信じるわけじゃない。ただ、修理場の名前は確かめる価値がある」
「そこへ行くのか?」
「今すぐには行かない。先に、運び手を連れていった人間が誰なのかを調べよう。事故の原因と、運び手が消えたことは、別々の問題かもしれない」
二人は北の通りへ向かった。
途中、荷車を押していた男が連れていかれた場所について、店先にいた人々に尋ねた。
だが、目撃した人間は少なかった。
二人組は男を連れて北へ進んだあと、途中の分かれ道で姿を消したらしい。
一方の道は職人街へ続き、もう一方は古い倉庫群へつながっている。
「どちらへ行ったか、誰も見ていないのか?」
直人が尋ねた。
「見ていた人間がいても、話したくないのかもしれない」
男は二つの道を見比べた。
倉庫群へ続く道には、荷車の通った跡が残っていた。
しかし、それが先ほどの男を運んだ荷車のものだとは限らない。
「まずは職人街の方を確認しよう。連れていかれた男が歩いていたなら、途中で誰かに見られている可能性がある」
二人が職人街へ入ると、道端で工具を売っていた老人が、彼らを呼び止めた。
「お前さんたち、さっきの事故を調べているのか?」
男は足を止めた。
「何かご存じなんですか?」
老人は周囲を見回してから、声を落とした。
「荷車を押していた男なら、以前にも見たことがある。いつも同じ仕事をしているわけじゃないが、何度かこの辺りを通っていた」
「どこへ向かっていたんですか?」
「決まった場所じゃない。ある日は東の修理場、ある日は川沿いの倉庫。だが、一つだけ気になることがあった」
「何でしょう?」
「そいつが荷物を運ぶ日は、必ずと言っていいほど、別の男が少し離れて後ろを歩いていた」
男は直人と目を合わせた。
「その男の顔は覚えていますか?」
「顔まではな。背は高くない。左手に傷があったように思う」
男の脳裏に、作業員の証言がよみがえった。
臨時の仕事を割り振っていた男。
三十歳前後で、平均的な身長。
左手に小さな傷があったという人物だ。
同一人物かもしれない。
だが、老人の記憶だけで決めるわけにはいかなかった。
「その男が、今日も一緒にいたんですか?」
「いや。今日は見ていない。事故が起きる前に、荷車の後ろを歩いていたのは、帽子をかぶった別の男だった」
「別の男?」
「そうだ。そいつが荷車を押す男に何か言っていた。俺が見たのは、それだけだ」
男は老人に礼を言った。
また、二人の人物が浮かび上がった。
仕事を割り振る男。
荷車の後ろを歩いていた帽子の男。
そして、事故のあと、運び手を連れていった二人組。
それぞれが同じ組織に属しているのか、それとも別々の目的で動いているのか。
今は、まだ分からない。
「直人、記録を整理しよう」
男は地図を広げた。
「修理場、荷車の手配先、連れていかれた方向。この三つを同時に追うと、また同じことになる。まず、仕事を割り振っていた男を特定する。作業員が話した特徴と、老人の証言が一致するか確認したい」
「だが、その男が見つからなければ?」
「そのときは、修理場から調べる。順番を決めるだけだ。どれか一つに固執するつもりはない」
男は地図に小さな印を付けた。
そのとき、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、黒い袖の男が立っていた。
「探し方を変えたようだな」
「あなたは、どこまで知っているんですか?」
男が尋ねると、黒い袖の男は少しだけ目を細めた。
「運び手が消えたことは知っている。だが、あの男がどこへ連れていかれたかまでは知らない」
「では、何をしに来たんですか?」
黒い袖の男は、懐から小さな金属片を取り出した。
先ほどの事故現場で回収したものだった。
「これを見ろ」
男は金属片を受け取らず、目だけで確かめた。
表面には、短い線が二本刻まれている。
その横には、以前に見た荷札の記号と似た円形の印があった。
ただし、完全に同じではない。
「これは何ですか?」
「荷車の部品ではない」
「では、何のためのものです?」
「それを知りたければ、あの修理場へ行く前に、仕事を割り振る男を見つけろ」
黒い袖の男は金属片をしまった。
「なぜですか?」
「仕事を割り振る人間が、荷物の行き先まで決めているとは限らない。だが、誰が誰に仕事を渡したのかが分かれば、荷物を動かす人間と、荷物を必要としている人間を分けて考えられる」
男は相手を見つめた。
それは、これまで自分が調べてきたことと重なっていた。
しかし、黒い袖の男は、その先を説明しようとはしなかった。
「もう一つ聞きたいことがあります」
「何だ?」
「あなたは、なぜ金属片を回収しているんですか?」
黒い袖の男は、少しだけ沈黙した。
「失われたら、困る人間がいるからだ」
「あなた自身が困るんですか?」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」
男は眉をひそめた。
「それでは、何も分かりません」
「分からないままでいい。今はな」
黒い袖の男は背を向けた。
「一つだけ覚えておけ。仕事を割り振る男を見つけても、そいつがすべての命令を出していると思うな。仕事を渡す人間と、その仕事を必要としている人間は、別々に存在できる」
男が問い返す前に、黒い袖の男は人混みの中へ消えていった。
直人が息を吐いた。
「また、少しだけ情報を出してきたな」
「ああ。だが、あの男の言葉も、そのまま信じるわけにはいかない」
男は記録を閉じた。
運び手が消えた。
荷車には不自然な傷があった。
事故の前には、帽子をかぶった男が運び手に声をかけていた。
そして、仕事を割り振る男の特徴が、別の証言と重なり始めている。
これらが一本の線でつながるのか、それとも途中で別の道へ分かれるのか。
まだ分からない。
だが、今度は追いかける相手を一人に絞る必要もなかった。
男は、地図の上に三つの印を残した。
仕事を割り振る男。
東の修理場。
運び手が連れていかれた道。
次に動くときは、どれか一つを追いながら、残りの動きも見失わないようにする。
そのためには、自分一人で走り回るやり方を変える必要があった。
「直人、明日は二手に分かれよう」
「俺はどこへ行けばいい?」
「修理場を調べてほしい。ただし、中へ入って無理に話を聞く必要はない。周囲の様子と、どんな人間が出入りしているかを確認してくれ」
「お前は?」
「仕事を割り振る男を探す。あの作業員が話した特徴と、今日の証言を照らし合わせる」
直人はうなずいた。
「何かあったら?」
「無理に解決しようとせず、一度引く。連絡できる場所と時間を決めておこう」
二人は翌日の行動を具体的に決めてから、その場を離れた。
男の右手は、まだ痛んでいた。
傷が治るまで、以前のように動くことはできない。
それでも、すべての場所へ自分で行き、すべての人間に直接質問する必要はなかった。
誰かに任せることも、相手の行動を読むことも、今の自分にできる戦い方の一つだった。
その夜、二人が休む場所へ戻ると、入口の隙間に小さな紙片が挟まっていた。
男はすぐには手を伸ばさなかった。
まず、周囲を確認する。
足跡は複数あるが、誰が残したものかは分からない。
紙片には短い一文だけが書かれていた。
《運び手を探すなら、先に運び手を必要としている者を探せ。》
男は紙片を拾い、直人に見せた。
「また匿名の手紙か」
直人が言った。
「そうだな」
「黒い袖の男が置いたのか?」
「分からない。今日の話を聞いていた人間なら、誰でも書ける内容だ」
男は紙片を、これまでの記録とは別の袋に入れた。
差出人も、目的も分からない。
従う必要はない。
だが、無視する理由もまだなかった。
男は翌日の地図を机に広げた。
仕事を割り振る者。
仕事を必要とする者。
そして、仕事を実行する者。
その三者の関係が見えれば、運び手が消えた理由にも近づけるかもしれない。
ただし、そこへ向かう道が安全だとは限らなかった。
今度は、相手が仕掛けた場所へ入るのではなく、自分たちが選んだ場所から動く。
男は地図の端に、翌朝の集合時刻を書き込んだ。
そして、灯りを消した。




