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観客のいない世界  作者: 亀


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第191章 狙われた工房

工房の職人は、男の質問にすぐには答えなかった。


手にしていた金属部品を木棚へ戻し、古い布で手を拭いてから、ようやく顔を上げた。


「最近増えている依頼、というのは?」


「荷車の修理や、木箱の留め具に関する仕事です。特に、短期間に同じような依頼が何度も来ていないか、知りたいんです」


「客の仕事を、いちいち他人に話すわけにはいかない」


「依頼主の名前を聞いているわけではありません。仕事の種類だけです」


職人はしばらく黙っていた。


「……荷車の修理なら、確かに増えた。だが、この辺りは荷物を運ぶ人間が多い。珍しいことじゃない」


「壊れ方に共通点はありませんか?」


「共通点?」


「車輪が歪んでいるとか、内側に金属片が挟まっているとか」


職人の手が止まった。


ほんの一瞬だった。


だが、男は見逃さなかった。


「そういう修理を、最近受けたんですね」


「荷車なんて、使っていれば壊れる。お前さんは何を調べているんだ?」


「荷物を運ぶ途中で、何か問題が起きている可能性があります。事故につながるような故障があるなら、事前に知っておきたいんです」


嘘ではなかった。


ただし、それが調査のすべてでもない。


職人は男の負傷した右手を見た。


「その手で荷車の事故を調べているのか?」


「今は、直接荷物を運んでいません」


「なら、余計なことに首を突っ込まない方がいい。修理を頼む人間にも、いろいろ事情がある」


職人は、それ以上話そうとしなかった。


男は無理に質問を続けず、礼を言って工房を出た。


通りに出ると、直人が声を落とした。


「何か知っているな」


「知っている可能性はある。でも、何を知っているかまでは分からない」


「さっき、手が止まった」


「だからといって、あの人が何かに関与しているとは限らない。自分が修理した荷車で事故が起きたのなら、思い当たることがあるのかもしれない」


男は工房の正面を振り返った。


「それに、あの人は客の名前を話さなかった。仕事を守るためなのか、自分の身を守るためなのか、それとも別の理由なのか。今は判断できない」


二人は通りを歩き始めた。


ところが、角を曲がったところで、前方から怒鳴り声が聞こえた。


「どけ! そこをどけ!」


大きな荷車が、坂道を下ってきていた。


車輪の片側が激しく揺れている。


荷台には金属部品を詰めた木箱が積まれていた。押している男は必死に取っ手を握っていたが、荷車は思うように止まらない。


坂の下には、数人の職人と、荷物を運ぶ少年がいた。


「危ない!」


直人が叫んだ。


少年が振り返る。


荷車は、もうすぐそこまで迫っていた。


男は走り出そうとした。


しかし、右手に走った痛みで一瞬動きが鈍る。


荷車の前に立って押さえることはできない。


男は周囲を見た。


道路の端に、修理用の木材が積まれている。その向こうには建物の壁と、荷車が通れる程度の細い路地があった。


「直人、少年をこっちへ!」


直人が少年の腕をつかみ、道路の端へ引き寄せた。


男は木材の山へ走った。


右手は使えない。


左手と肩で、手前にあった長い木材を押し倒す。木材が道路に滑り出し、荷車の進路を斜めに塞いだ。


荷車が木材にぶつかった。


大きな音が響いた。


荷台の箱が揺れ、上に積まれていた一つが傾いた。


荷車は完全には止まらなかった。


木材を乗り越えた車輪が路肩に乗り上げ、荷台が大きく傾いた。


金属部品の入った箱が次々と落ちる。


そのうちの一つが、道路にいた職人の足元へ滑っていった。


「逃げろ!」


直人が叫んだ。


職人は横へ飛び退いた。


箱は地面にぶつかり、蓋が外れた。中から金属部品が散らばる。


ようやく荷車が止まった。


一瞬、周囲が静まり返った。


次の瞬間、あちこちから声が上がった。


「何をしている!」


「荷物が全部駄目になったぞ!」


「道を塞げ! 誰も触るな!」


男は息を整えながら、負傷した右手を胸元に寄せた。


痛みが強くなっていた。


それでも、少年が無事なのを確認してから、荷車の状態を見た。


右側の車輪が大きく歪んでいる。


車軸の付近には、金属片が食い込んだような傷があった。


偶然の事故として片づけるには、気になる部分だった。


だが、今ここで断定することはできない。


「荷車を押していた人は?」


直人が周囲を見回した。


先ほど転んだ男は、すでに立ち上がっていた。


服についた泥を払っている。


男が声をかけようとした瞬間、別の二人が駆け寄ってきた。


「お前は何をしている!」


一人が荷車を押していた男の肩をつかんだ。


「荷物を壊した責任をどう取るつもりだ!」


「俺は言われたとおりに運んだだけだ!」


「言い訳をするな!」


男は二人の間に入ろうとした。


しかし、荷車を押していた男は、男の顔を見るなり、急に口を閉ざした。


その目が、男の右手に向けられた。


そして、男は小さく首を振った。


「……余計なことはするな」


誰に向けた言葉なのか、分からなかった。


次の瞬間、男は二人に腕をつかまれ、通りの奥へ連れていかれた。


「待て。話を聞かせてくれ!」


男が呼びかけても、相手は振り返らなかった。


直人が追おうとしたが、男はその腕をつかんだ。


「今は追うな」


「また連れていかれるのを見過ごすのか?」


「見過ごすつもりはない。だが、あの二人が誰なのかも、どこへ連れていくのかも分からない。負傷したまま追いかければ、さっきと同じことになる」


男は散らばった金属部品に目を向けた。


周囲では、荷主らしい人物が声を張り上げ、職人たちが破損した荷物を集めている。


その中で、一人の男だけが、荷車の車輪を見ていた。


黒い袖を着た男だった。


彼は誰にも声をかけず、車輪の内側をのぞき込んだ。


そして、足元に落ちていた小さな金属片を拾い上げた。


男は、その動作を見た瞬間、以前の出来事を思い出した。


事故現場で金属片を拾い、隠すように持ち去った人物。


今回も、同じように見える。


黒い袖の男は金属片を布に包み、懐へしまった。


その直後、男と目が合った。


相手は逃げなかった。


むしろ、こちらを見ながら、ゆっくりと近づいてきた。


「また、あんたか」


低い声だった。


「この荷車にも、何か用があるんですか?」


男が尋ねた。


「荷車に用があるわけじゃない」


「では、今拾った金属片は?」


黒い袖の男は、すぐには答えなかった。


「それを知って、どうする?」


「事故の原因を知りたい。荷物を運んでいた人間が、故障に気づいていたのかどうかも」


「原因が分かれば、あの男を助けられると思うのか?」


男は答えなかった。


黒い袖の男は、少しだけ視線を落とした。


「今、あの男を追えば、あんたも同じ場所へ連れていかれるかもしれない。だが、追わなければ、あの男が何を知っていたのかは分からない」


「あなたは知っているんですか?」


「少しはな」


「なら、教えてください」


「教えたら、あんたは次に何をする?」


男は相手を見つめた。


「情報を確かめる。必要なら、あの男を助ける方法を探す」


「それだけか?」


「それ以上のことを、今ここで約束するつもりはありません」


黒い袖の男は、かすかに笑った。


「前よりは、考えるようになったらしいな」


男は警戒を解かなかった。


相手は、自分の行動を以前から見ている。


しかし、どこまで知っているのかは分からない。


「一つだけ言っておく」


黒い袖の男は声を落とした。


「この荷車は、運ぶためだけに使われていたわけじゃない。あの車輪に細工があったとしても、それが荷物を盗むためなのか、誰かを止めるためなのか、あるいは別の目的なのかは、まだ分からない」


「誰が細工したんですか?」


「それを調べるのが、あんたの仕事だろう」


黒い袖の男は、踵を返した。


男は追いかけなかった。


今度は、相手が何を知っていて、何を知らないのかを考えた。


黒い袖の男は金属片を回収した。


だが、事故を起こした人間を連れていったわけではない。


荷車を押していた男は、誰かに指示されて運んだと主張していた。


そして、彼は男の顔を見たあと、余計なことをするなと言った。


三つの出来事が、どこかでつながっている可能性はある。


だが、そのつながりを証明するには、まだ材料が足りない。


「直人」


「何だ?」


「さっきの男が連れていかれた方向を覚えているか?」


「北の通りだ。途中で二つに分かれている」


「分かった。今から追うのはやめよう。代わりに、事故を見ていた人間を探す。誰が荷車を手配したのか、誰が荷物を受け取る予定だったのか。それから、あの男がどこへ連れていかれたのかを別々に調べる」


直人は散らばった荷物を見た。


「また、いくつも手掛かりが増えたな」


「増えたんじゃない。今まで見えていなかったものが、事故で表に出ただけだ」


男は、地面に残された車輪の跡を見つめた。


荷車の事故は、少年を救うために起きたものだった。


だが、その結果、運び手が連れていかれ、金属片が回収され、見知らぬ男がまた一人現れた。


自分が誰かを助けようとしたとき、必ずしも問題が解決するわけではない。


ときには、新しい問題を引き起こす。


それでも、何もしなければ、少年は荷車に巻き込まれていた。


男は、右手をそっと握った。


痛みが走る。


今の自分には、正面からすべてを止める力はない。


だからこそ、何を止め、何を追い、何を残すのかを選ばなければならなかった。


「まずは、あの運び手を見つけよう」


男は直人とともに、事故現場を離れた。


背後では、職人たちが散らばった金属部品を拾い集めていた。


その中の一つだけが、いつの間にか見当たらなくなっていた。


誰も、それに気づいていなかった。

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