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観客のいない世界  作者: 亀


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第190章 待っていた者

作業員が話した「ようやく、こちらへ戻ってきたか」という言葉は、男の頭から離れなかった。


箱を受け取った人物が、以前からその荷物を知っていた可能性がある。


だが、それだけで、受け取った箱が自分たちの探している箱と同じものだとは言えない。似たような木箱はいくらでもある。古い契約に関わる品物が、一つの場所だけで動いているとも限らなかった。


男は、記録の余白に三つの項目を書いた。


箱の外見。


受取人の発言。


受け渡しの場所。


「この三つを別々に確認しよう」


直人が記録をのぞき込んだ。


「受取人の発言を確かめるには、本人を見つける必要がある。だが、作業員は名前を知らない」


「だから、まず工房の場所を特定する。本人の記憶が曖昧でも、周囲の店や道を確認すれば、何か分かるかもしれない」


「作業員も一緒に行くのか?」


男は首を横に振った。


「いや。今は彼を連れていかない。昨日まで追われていた可能性がある人間を、同じ場所へ戻す必要はない」


直人は賛成した。


作業員は、直人が知っている商人の紹介で、しばらく身を寄せられる場所を確保できることになった。本人にも説明し、無理に移動させることはせず、まずは安全に休める場所があることだけを伝えた。


男は、彼に別れ際の言葉をかけた。


「報酬の件は、君がどうしたいか決めてから考えよう。こちらから勝手に手続きを進めることはしない」


作業員は、少し考えてからうなずいた。


「分かった。少なくとも、今すぐあの仲介所へ戻るつもりはない」


「それでいい。何か思い出したら、連絡してくれ」


二人は食堂を出た。


工房の場所を探すため、まずは作業員が覚えていた道順を、男が地図に書き起こした。


川沿いの市場から西へ進み、古い石橋を渡る。その先には、修理工房と小規模な倉庫が混在する地域がある。


以前、荷車の修理を依頼した男がいた場所とも近い。


ただし、同じ地域にあるというだけで、両者がつながっているとは限らない。


「工房が複数あるな」


直人が地図を見ながら言った。


「そうだな。作業員が覚えている特徴は?」


「建物の裏に狭い通路があって、荷車が一台通れる程度だったらしい。入口の看板は見ていない」


「それなら、現地で確認するしかないか」


男は地図を畳んだ。


「ただし、工房を片っ端から回るのはやめよう。まずは地域の形を見て、荷車が入れる場所と、裏手に通路がある建物を絞る」


二人は西側の職人街へ向かった。


道沿いには、鍛冶屋、木工所、車輪の修理店、古い倉庫が並んでいた。表通りは人通りが多いが、建物の裏側には細い通路が続き、いくつもの小さな搬入口につながっている。


男は、以前なら見過ごしていたものにも目を向けた。


荷車がすれ違える幅があるか。


荷物を一時的に置ける空間があるか。


建物の正面を通らずに裏側へ回れるか。


それらは、荷物を運ぶ人間にとって、仕事のしやすさを左右する条件だった。


一方で、同じ構造は、荷物の移動を人目につきにくくすることにも使える。


「この辺りなら、表から見えないところで荷物を受け渡すこともできるな」


直人が言った。


「できるというだけだ。実際にそうしているかは、まだ分からない」


男は、建物の間を歩きながら、地図に印を付けた。


やがて、二人は通りの奥にある工房を見つけた。


正面には小さな作業場があり、木製の部品や金具が並べられている。建物の側面には、荷車が一台通れそうな細い通路があった。


男は入口の前で立ち止まった。


「ここかもしれない」


「確かめるか?」


「ああ。ただし、箱のことをいきなり聞くのはやめよう。まず、どんな仕事をしている工房なのか確認する」


二人が中へ入ると、職人が作業台から顔を上げた。


「何の用だ?」


「荷車の部品を探しています。細い金属部品を固定するための道具も扱っていますか?」


男は、作業員が買った工具の特徴を説明した。


職人は少し考えた。


「似たようなものなら扱っている。ただ、うちで売ったものかどうかは分からない」


「最近、同じ工具を買った人はいましたか?」


「客は多い。いちいち覚えていないな」


男はうなずいた。


無理に聞き出しても、得られる情報は限られている。


「では、裏の通路を見せてもらえますか? 荷車の部品を運べるか確認したいのですが」


職人は警戒したように男を見た。


「何のために?」


「荷車の幅に合う部品を探しています。裏から運べるなら、荷物を持ち込むのも簡単だと思ったんです」


職人は少し迷ったあと、通路の入口を指した。


「通るだけなら構わない。ただし、作業場の中には入るな」


二人は通路へ回った。


そこは、確かに荷車一台が通れる幅だった。奥には小さな空き地があり、別の建物の裏口につながっている。


男は周囲を観察した。


地面には複数の車輪跡が残っている。だが、日常的に荷車が通る場所なら、不自然ではない。


そのとき、奥の建物から一人の男が出てきた。


年齢は三十歳前後。


片手に小さな木箱を持っている。


男は、相手の顔を見た瞬間、足を止めた。


相手もまた、男に気づいたようだった。


二人の視線が合った。


相手は一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに木箱を抱え直し、通路の反対側へ歩き出した。


男は追いかけようとした。


しかし、傷ついた掌が痛み、思うように足を踏み出せなかった。


直人がすぐに声をかけた。


「無理をするな。俺が行く」


「待て」


男は直人を止めた。


「一人で追うな。相手がこちらに気づいた以上、誘い出そうとしている可能性もある」


直人は足を止めた。


男は、相手が去っていく方向を目で追った。


木箱は小さかった。


作業員が運んだ箱と同じものかどうかは分からない。


相手が受取人本人なのかも、確認できていない。


それでも、こちらを見たときの反応は気になった。


「今の男、何か知っていると思うか?」


直人が尋ねた。


「可能性はある。だが、ここで追いかけるより、まず工房の人間に確認しよう」


二人は作業場へ戻った。


職人は、彼らが戻ってきたことに少し驚いた様子だった。


「何かあったのか?」


男は、先ほどの男について尋ねた。


「今、木箱を持って出ていった人間は、この工房の関係者ですか?」


職人はすぐには答えなかった。


「客だ。仕事を頼みに来ただけだ」


「名前は?」


「知らない。俺は仕事の内容を聞いただけだ」


男は職人の表情を見た。


何かを隠しているようにも見えたが、単に客の個人情報を話したくないだけかもしれない。


「その人間は、どんな仕事を頼んだんですか?」


「木箱の留め具を直してほしいと言っていた。それだけだ」


男は、直人と目を合わせた。


木箱の留め具。


細い金属部品。


以前、作業員が工具を買ったという話とも、どこか似ている。


しかし、工具を買った人物と、今の客が同じ人間だとは限らない。


「その箱は、ここに置いていったんですか?」


「いや。直してほしい箇所を説明して、また後で持ってくると言って帰った」


男は、それ以上追及しなかった。


職人に圧力をかければ、相手が警戒し、今後の情報を得にくくなる可能性がある。


二人は工房を出た。


通りに戻ると、直人が言った。


「今の男が受取人なら、ようやく接触できたことになる」


「まだ早い。あの男が箱を持っていたことも、工房に来たことも確認できたが、作業員の話と直接つながる証拠はない」


「では、どうする?」


男は、工房の位置を地図に記録した。


「今は、ここを監視する必要はない。相手が警戒しているなら、同じ場所へ戻ってくるとは限らない。工房の人間が、今後も彼と接触するのかを確認できれば十分だ」


直人はうなずいた。


男は、もう一度、先ほどの男の顔を思い出した。


驚いたような表情。


すぐに木箱を抱え直した動き。


そして、こちらを見たあと、足早に立ち去ったこと。


それが単なる警戒なのか、何かを知られたくないという反応なのかは分からない。


ただ、これまでの調査では、荷物を動かす人間と、荷物を受け取る人間が別々である可能性が何度も浮かび上がっていた。


今度は、その役割を担う人間の一人と、直接顔を合わせたかもしれない。


男は、記録の最後に書き加えた。


「次は、箱を受け取る人間が何を求めているのかを確かめる」


そのとき、通りの向こうから、荷車を押す男が近づいてきた。


男は一瞬、目を細めた。


その荷車の右側の車輪は、わずかに歪んでいた。


以前、金属片を抜き取られたという荷車と、よく似ていた。


だが、男はすぐに動かなかった。


今度は、追いかける前に、何を確かめるべきかを考えた。


そして、荷車が通り過ぎるのを待ってから、直人に小さく告げた。


「今度は、相手の行き先ではなく、誰が荷車を必要としているのかを調べよう」


直人はうなずいた。


二人は、荷車が消えた方向へは向かわず、まず工房の職人に戻って、最近どのような依頼が増えているのかを尋ねることにした。


箱を運ぶ仕事は、まだ終わっていない。


そして、その仕事を動かしている人間の姿が、少しずつ見え始めていた。

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