第189章 命令の出所
若い作業員は、橋の下から出てくると、周囲を確かめた。
「ここでは話せない。少し歩いてくれ」
男はすぐには動かなかった。
「人目につかない場所へ移動するつもりか?」
「そうだ。だが、誰もいない場所ではない。人がいるところのほうが、俺には都合がいい」
その答えを聞いて、男はわずかに警戒を緩めた。
直人も同じことを考えたのか、男に目配せした。
三人は川沿いの道を歩き、少し離れた食堂へ入った。昼食時を過ぎていたため、店内には数人の客しかいなかった。
作業員は壁際の席を選び、入口が見える位置に座った。
「名前は?」
男が尋ねると、作業員は首を横に振った。
「今は言いたくない」
「分かった。無理に聞くつもりはない」
男はそう答えた。
名前が分からなければ、後から記録を整理する際に不便になる。しかし、相手が自分の身を守るために名前を伏せたいのなら、今はそれを尊重するほうがいい。
「それで、箱を運ぶ仕事について話してくれるんだな?」
作業員はうなずいた。
「最初に言っておく。俺は箱の中身を知らない。何が入っているのか、誰が必要としているのかも知らない」
「それは分かった。では、知っていることから話してくれ」
作業員は水を飲み、少しずつ話し始めた。
仕事を紹介されたのは、以前から利用していた臨時作業員の仲介所だった。
普段の仕事は、荷車から荷物を降ろし、指定された倉庫まで運ぶことだった。報酬は仕事ごとに決まり、終了後に仲介所へ戻れば支払われる。
ところが、今回の仕事では違う条件が付いていた。
荷物の中身を確認しないこと。
途中で荷物の受取人が変わっても、指示された場所まで運ぶこと。
受取人の署名がなくても、指定された人物に荷物を渡せば仕事は完了すること。
「そんな条件でも、仕事を受けたのか?」
直人が尋ねた。
「報酬が普段より高かったからだ。家賃も払わなきゃならなかったし、仕事を断れば次の仕事がもらえるか分からなかった」
作業員は、責められることを恐れるように視線を落とした。
男は、すぐに言葉を返さなかった。
彼が危険を承知で仕事を受けたのは、無謀だったからとは限らない。目の前の生活を維持するために、条件の悪い仕事を選ぶこともある。
「仕事を受けるとき、誰が説明した?」
「仲介所の人間じゃない。別の男だ。俺たちが仕事を受ける前に現れて、条件を説明した。自分は荷物を運ぶ人間を選ぶ役目だと言っていた」
「その男の名前は?」
「知らない。仲介所の人間も、名前を呼んでいなかった」
男は直人と目を合わせた。
仕事を紹介する仲介所。
実際に作業員を選ぶ人間。
荷物を運ぶ指示を出す人間。
そして、最後に荷物を受け取る人間。
それぞれが別の役割を持っている可能性があった。
「その男は、どんな人物だった?」
「背は普通くらいで、年齢は三十歳前後に見えた。服装も特別なものじゃなかった。ただ、左手に小さな傷があったと思う」
男は特徴を記録した。
「その男が、昨日の倉庫にいたのか?」
「いや。昨日、俺を問い詰めた人間とは違う」
「では、昨日の二人は何を聞いていた?」
作業員は、しばらく黙った。
「箱をどこへ運んだのか。誰に渡したのか。誰から指示を受けたのか。何度も聞かれた」
「答えたのか?」
「俺は、指定された場所へ運んだだけだと答えた。本当に、それしか知らなかったからな」
「それでも、暴力を受けた?」
作業員はうなずいた。
「相手は、俺が嘘をついていると思っていたんだろう。あるいは、俺が知らないことを知りたかったのかもしれない」
男は、相手の言葉を慎重に整理した。
暴力を受けた理由は、まだ確定できない。
作業員が本当に何も知らなかったのか、相手がどこまで情報を持っていたのかも分からない。
しかし、少なくとも、荷物を運んだだけの人間が、運搬の指示を出した人物と受取人の関係を説明できるとは限らない。
「昨日、倉庫からどうやって逃げた?」
男が尋ねた。
作業員は一瞬、男の顔を見た。
「お前たちが出ていったあと、裏口から逃げた。二人が俺を見失った隙に、近くの家の裏を通ったんだ」
「そのあと、誰かに追われたか?」
「分からない。少なくとも、今朝まで俺を追ってくる人間はいなかった」
男はうなずいた。
彼が自分の意思で移動していたという説明とは矛盾しない。
だが、追跡されていないことと、安全であることは別だった。
「それで、報酬を受け取らないと決めた理由は?」
作業員は、テーブルの上で指を組んだ。
「俺が報酬を受け取れば、仲介所に迷惑がかかると言われたからだ」
直人が眉を寄せた。
「誰に?」
「昨日の二人じゃない。仕事を紹介する側の人間だ。俺が報酬を受け取らなければ、仲介所は今までどおり仕事を続けられる。そう言われた」
「それで、納得したのか?」
「納得したわけじゃない。ただ、俺のせいで、ほかの人間まで仕事を失うのは嫌だった」
作業員は、少しだけ声を強めた。
「俺一人が仕事を失うのと、仲介所にいる何十人もの人間が仕事を失うのとでは、影響が違うだろう」
男は返事をしなかった。
その判断が正しいかどうかを、ここで決めることはできない。
作業員は、自分の生活だけでなく、ほかの人間の生活も考えていた。
一方で、誰かがその考えを利用し、本人に報酬を放棄させようとしている可能性もあった。
「その男は、報酬を放棄すれば何も問題が起きないと約束したのか?」
「いや。そうは言っていない。ただ、仲介所への圧力がなくなると言っただけだ」
「それを信じた理由は?」
作業員は、苦笑した。
「信じたというより、ほかに選択肢がなかったんだ。仕事を続けたい人間がいる。俺も、もう一度同じ場所へ戻るつもりはなかった。だったら、俺が引けばいいと思った」
男は、その言葉を聞いてから尋ねた。
「今も、同じ考えか?」
作業員はすぐには答えなかった。
窓の外を通る荷車を眺め、やがて口を開いた。
「まだ分からない。あいつらが何をしようとしているのか、俺には分からないからな」
「分からないまま、報酬を諦めたんだな」
「そうだ」
男は静かにうなずいた。
「なら、今すぐ結論を出さなくてもいい。報酬を受け取るかどうかも、仕事を続けるかどうかも、君が決めることだ。ただし、誰かが君の代わりに決めたことを、君自身の選択だと思い込む必要はない」
作業員は男を見つめた。
「俺に、何ができる?」
「まず、何が起きたのかを整理する。君が覚えていることを記録し、必要なら、報酬の書類を確認する。だが、君が望まないのに、勝手に仲介所へ連れていくつもりはない」
直人も口を開いた。
「ただ、君が本当に安全かどうかは確認したい。今いる場所を知られたくないなら、無理に教える必要はない。だが、危険を感じたら、すぐに連絡できる場所を一つ決めておこう」
作業員はしばらく考えたあと、うなずいた。
「分かった」
男は、記録を取りながら、もう一つ尋ねた。
「最後に、箱を渡した場所を教えてくれないか?」
作業員の表情が硬くなった。
「それを話したら、またあいつらに追われるかもしれない」
「その可能性はある。だから、今すぐ場所を教えてほしいとは言わない。まず、場所を特定できる情報が残っているかどうかだけ聞きたい」
作業員は、しばらく迷った。
「荷物を渡したのは、倉庫じゃない。古い工房の裏手だった」
男は記録を止めた。
「受取人は?」
「顔を見たのは一人だけだ。そいつは荷物を受け取ると、すぐに別の人間へ渡した。俺は、その場を離れるよう指示されていた」
「つまり、君は最初の受取人しか知らないんだな」
「そうだ。そいつの名前も知らない」
男はうなずいた。
箱を運んだ人間。
最初に受け取った人間。
そのあとで荷物を受け取った人間。
それぞれの役割が分かれている。
だが、それが計画的な隠蔽なのか、単に複数の業者が関わっているだけなのかは、まだ分からなかった。
「その工房の場所は、後で地図を見ながら確認しよう。今は、君が無理に戻る必要はない」
作業員は、初めて少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう」
食堂を出るとき、男は直人に目配せした。
作業員を一人で歩かせることには不安があったが、彼を自分たちの滞在先へ連れていくのも危険だった。
結局、直人が知っている商人に事情を説明し、数日だけ身を寄せられる場所があるか確認することになった。作業員本人が同意した場合に限り、そこへ案内する。
男は、彼の報酬を取り戻すことだけを目的にはしなかった。
報酬を受け取るかどうかは、本人が決める。
ただし、その選択が脅迫や誤った情報によって歪められていないかは、確かめる価値がある。
そして、箱を運ぶ仕事の中で、誰が指示を出し、誰が受け取り、誰が利益を得ているのか。
その構造を知ることは、行方不明になった箱を探すためにも必要だった。
三人が別れようとしたとき、作業員が男を呼び止めた。
「もう一つ、思い出したことがある」
男は振り返った。
「何だ?」
「箱を受け取った男は、荷物を見たとき、こう言ったんだ」
作業員は、記憶をたどるようにゆっくり話した。
「『ようやく、こちらへ戻ってきたか』って」
男の表情が変わった。
箱を受け取った人間は、荷物の到着を待っていた。
それだけなら、不自然ではない。
しかし、「戻ってきた」という言い方には、以前からその箱を知っていたかのような響きがあった。
男は、すぐに結論を出さず、作業員に確認した。
「その言葉は、間違いないか?」
「正確には覚えていない。ただ、似たようなことを言ったのは確かだ」
男は記録に残した。
箱がどこから来たのか。
誰が運ぶように指示したのか。
誰が受け取ったのか。
そして、なぜ「戻ってきた」と言ったのか。
その一言によって、箱の移動が単なる一度きりの運搬ではなく、過去の出来事とつながっている可能性が浮かび上がった。
しかし、目の前の作業員は、まだ何も知らない。
男は記録を閉じた。
次に追うべきなのは、荷物の番号でも、受領資格の変更でもない。
箱を待っていた人間が、なぜそれを「戻ってきた」と呼んだのか。
その理由を確かめることだった。




