第188章 自分で選んだ場所
翌朝、男は紙片をもう一度読み直した。
『報酬は受け取らなくていい。ここから先は、自分で選ぶ。』
短い文章だった。
だが、そこに書かれていることが、行方不明の作業員本人の意思だとは限らない。
本人が仕事を辞めたのかもしれない。
誰かから逃げるために姿を消したのかもしれない。
あるいは、誰かが彼を連れ去ったあと、本人が書いたように見せかけて残した可能性もある。
男は紙片を裏返し、何も書かれていないことを確かめた。
「この文章だけで、本人が自由に行動していると判断することはできないな」
直人が言った。
「ああ。だが、本人が自分の意思で姿を消した可能性も残しておく必要がある」
「見つけたら、無理に連れ戻すつもりはないんだな」
「本人が安全で、誰にも脅されていないなら、どこで暮らすかは本人が決めることだ。俺たちが知りたいのは、彼が何を見たのか、そして本当に自分で選んだのかどうかだ」
直人はうなずいた。
その日の朝、戻ってきた仲間から新しい情報が届いた。
作業員が暮らしていた部屋の近くで、荷車を使った運搬を請け負う老人が、彼を見かけていたという。
「老人は、彼が一人で歩いていたと言っている。ただし、荷物は持っていなかったらしい」
「どこへ向かっていた?」
「西側だ。古い職人街を抜けて、川沿いへ向かう道がある。老人は、その先までは見ていない」
男は地図を広げた。
西側には、以前から使われている職人街がある。小さな工房や修理店が集まり、仕事を探す人間も出入りしている場所だった。
川沿いへ進めば、別の市場にも出られる。
どこか一つの場所へ向かっていたと断定できる道ではなかった。
「まず、老人にもう一度話を聞こう。見た時刻と、彼の様子を確認したい」
直人が言った。
「頼む。ただし、老人が彼を見たことを、ほかの人間に広めないようにしてくれ。本人が自分で姿を消したのなら、追い回されることを望んでいない可能性もある」
直人は市場へ向かった。
男は宿を出る準備を整えながら、残った記録を整理した。
滞在先を失ったこと。
臨時作業員の報酬をめぐる問題。
旧管理区の荷物と受領資格。
そして、昨日の襲撃。
一見すると別々の問題に見える。
だが、誰かが仕事を配り、移動を制限し、報酬の受取先を変えられるなら、それらは同じ仕組みの異なる側面である可能性もあった。
もっとも、すべてが同じ人物の指示で動いているとは限らない。
男は記録の端に、その一文を書き加えた。
昼前、直人が戻ってきた。
「老人は、彼を見たときのことを覚えていた」
「何か分かったか?」
「時刻は、昨日の夕方より少し前だ。彼は一人で歩いていた。足取りに不自然な様子はなかったが、何度か後ろを振り返っていたらしい」
「誰かに追われていたのか?」
「そこまでは分からない。通りには人が多かったから、誰かを探していた可能性もある」
「荷物は持っていなかったんだな?」
「ああ。ただ、右手に布を巻いていたそうだ」
男は顔を上げた。
昨日、倉庫街で襲撃を受けたとき、作業員の手にも怪我があったかどうか、はっきりとは確認できていない。
「老人は、彼が怪我をしているように見えたと言っていた。だが、どの程度の怪我だったかは分からない」
男は地図に印を付けた。
「川沿いへ向かったのなら、職人街を通る必要がある。そこで何かを買ったり、誰かと会ったりした可能性があるな」
「調べてみるか?」
「いや。今度は、先に川沿いへ行こう。もし彼が自分で移動しているなら、職人街を何度も調べることで、こちらが彼を追っていると気づかれるかもしれない」
直人は少し考えてから、同意した。
二人は、川沿いの市場へ向かった。
その道は、以前調べた北の水路とは別の場所につながっていた。小規模な商店や飲食店が並び、荷運び人が休憩に立ち寄る茶屋もある。
男は歩きながら、周囲の人間を観察した。
仕事を終えた荷運び人。
客を待つ商人。
店先で道具を修理する職人。
それぞれが自分の生活を続けている。
その中で、昨日の作業員を知っている人間を見つけるのは簡単ではなかった。
二人は茶屋に入り、店主に作業員の特徴を伝えた。
店主は少し考えてから、首を横に振った。
「顔を見た覚えはないな。ただ、昨日の夕方、手に布を巻いた若い男が、裏手の小さな修理店に入っていったのは覚えている」
「その男が、探している人物かどうかは分かりませんね」
「そうだ。顔まで見たわけじゃない」
男は礼を言い、修理店へ向かった。
店は川沿いの狭い路地にあった。扉は半分開いており、中では年配の職人が金具を削っていた。
男が事情を説明すると、職人は手を止めた。
「昨日、若い男が来た。右手に布を巻いていた」
「その人は、何を頼んだんですか?」
「頼んだのは修理じゃない。小さな工具を一本買っていっただけだ」
「どんな工具ですか?」
「細い金属片を扱うためのものだ。特別な品ではない。箱の留め具を外したり、細い部品をつかんだりするのに使う」
男と直人は顔を見合わせた。
「その人は、何か箱について話していましたか?」
「いや。道具の用途を聞かれたから、そう答えただけだ。何に使うのかまでは知らない」
「その工具は、どのくらいの大きさですか?」
職人は、棚から似た工具を取り出して見せた。
手のひらに収まるほどの小さなものだった。
男はそれを見て、すぐに結論を出さないよう気をつけた。
箱を扱うために買ったのかもしれない。
単に仕事で必要だったのかもしれない。
あるいは、自分の身を守るために用意したものかもしれない。
「その男は、どこへ向かうと言っていましたか?」
「何も言っていない。代金を払って、そのまま出ていった」
職人は工具を棚へ戻した。
「ただ、帰り際に一つだけ聞かれた。ここから川を渡るには、どの道が一番人目につかないか、と」
男は顔を上げた。
「あなたは、何と答えたんですか?」
「人目につかない道なら、川沿いの古い橋だと答えた。だが、あの橋は今、修理中で通行できる時間が限られている。私はそれも伝えた」
「彼は、その橋へ向かったと思いますか?」
「分からない。私は道を教えただけだ」
男は礼を言った。
店を出たあと、直人が声を落とした。
「工具を買い、人目につかない道を尋ねていた。やはり、誰かから逃げている可能性があるな」
「そうかもしれない。だが、本人が何かを運ぼうとしていた可能性もある」
「箱のことを知っていると思うか?」
「まだ分からない。工具が必要な理由はいくらでもある」
男は、古い橋の位置を地図で確認した。
橋は川の両岸を結ぶ近道だった。修理中のため、現在は通行できる時間が限られている。人通りは少なく、反対側には小さな倉庫や作業場が点在していた。
二人は橋へ向かった。
途中、男は何度か足を止め、周囲を確認した。
以前なら、目当ての人物を見つけるために、できるだけ早く目的地へ向かおうとしただろう。
今は違う。
追う側が急げば、相手が残したわずかな痕跡を見落とすこともある。
それに、相手が自分の意思で姿を消しているのなら、追跡そのものが新たな危険を生む可能性もあった。
橋の手前には、修理作業をしている職人が二人いた。
直人が通行できる時間を確認している間、男は橋の周囲を見渡した。
川岸の石段に、新しい擦り傷が残っていた。
近くには、細い布切れが落ちている。
男はしゃがみ込もうとしたが、傷のある手をかばうため、直人に頼んで拾ってもらった。
布は古く、汚れもついていた。昨日の作業員が使っていたものかどうかは分からない。
「これだけでは何も判断できないな」
直人が言った。
「ああ。だが、ここを誰かが通ったことは確かだ。職人に、昨日の夕方から今朝までの間に、橋を通った人間について聞いてみよう」
作業をしていた職人は、しばらく考えてから答えた。
「昨日の夕方、若い男が一人、橋の手前まで来た。ただ、通行できる時間を過ぎていたから、向こう岸へ渡ることはできなかったはずだ」
「その男は、どこへ行きましたか?」
「川沿いの倉庫街へ戻ったように見えた。だが、私は作業をしていたから、最後まで見ていない」
男は、ここで初めて足を止めた。
作業員は、橋を渡ろうとしていた。
しかし、通行時間が過ぎていたため、渡れなかった可能性がある。
それなら、職人街から川沿いへ向かったという目撃情報とも矛盾しない。
ただし、その男が作業員本人だと確認できたわけではない。
「今日も、同じように通ろうとする人間がいるかもしれませんね」
直人が言った。
「そうだな。だが、ここで待ち伏せするのはやめよう」
「どうして?」
「もし彼が誰かに追われているなら、俺たちがここで待っていることで、別の人間にも居場所を知らせることになる。本人が自分で戻ってくるかどうかも分からない」
男は地図を畳んだ。
「今日はここまでにしよう。これ以上は、本人の意思を無視して追いかけることになる」
直人は少し驚いたように男を見たが、やがてうなずいた。
二人が橋を離れようとしたとき、川岸の石段の下から声が聞こえた。
「……誰を探している?」
男は振り返った。
石段の陰に、一人の若い男が立っていた。
右手には布が巻かれている。
昨日、倉庫街で行方が分からなくなった作業員と、背格好がよく似ていた。
若い男は、二人を警戒するように見つめていた。
「あなたが、昨日の倉庫で働いていた人ですか?」
男が尋ねると、若い男はすぐには答えなかった。
「誰から聞いた?」
「あなたを探している人がいると聞きました」
「誰だ?」
「あなたの報酬を受け取ろうとしている人間がいます。その書類について、確認したいことがある」
若い男の表情が変わった。
「……あの書類を見たのか」
男は一歩も近づかなかった。
「見ました。ただ、あなたが書いたものなのか、あなたの意思で報酬の受取先を変えたのかは分かっていません」
若い男は、しばらく男を見つめた。
そして、川の向こうを確認してから、低い声で言った。
「俺は、あの金をいらないと言った。だが、あいつらは、俺が金を受け取らなければ、ほかの人間が代わりに受け取ると言った」
「誰が、そんなことを?」
若い男は答えなかった。
代わりに、右手の布を少しだけ緩めた。
その下には、まだ新しい傷があった。
「俺が何を見たのか知りたいんだろう?」
男はうなずいた。
「ええ。ただし、あなたが話したくないことまで無理に聞くつもりはありません」
若い男は、しばらく黙っていた。
やがて、彼は石段から一歩上がった。
「なら、先に一つ約束してくれ」
「何ですか?」
「俺が話したことを、あいつらにそのまま伝えないことだ」
男はすぐには答えなかった。
相手が何を見たのか。
誰が彼を脅しているのか。
そして、彼がなぜ報酬を捨ててまで姿を消そうとしているのか。
それらを知るためには、相手の言葉を聞く必要がある。
しかし、約束をすれば、その情報を誰にも共有できなくなる可能性もあった。
男は慎重に言葉を選んだ。
「あなたの身に危険が及ぶような形で、無断で話を広めるつもりはありません。ただし、誰かの命に関わることが分かった場合まで、すべてを秘密にできるとは約束できません」
若い男は、しばらく考えてからうなずいた。
「それでいい」
彼は、石段の陰から出てきた。
「俺が見たのは、箱の中身じゃない。箱を運ぶ人間が、誰の命令で動いているのかだ」
男は、相手の次の言葉を待った。
若い男は川の向こうを見たまま、話し始めた。
「そして、あの箱を運ぶ仕事は、最初から俺たちが思っていたような仕事じゃなかったんだ」
その言葉の意味を、男はまだ理解できなかった。
だが、ようやく、行方不明になった作業員本人から話を聞けるかもしれなかった。




