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観客のいない世界  作者: 亀


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第187章 誰の権利

戻ってきた男が市場の奥へ向かってから、しばらくしても連絡はなかった。


男と直人は、人通りの多い通りから少し離れた茶屋に入った。新しい滞在先を探す必要があったが、今はそれ以上に、仕事を失った作業員の報酬を誰かが要求しているという話が気になっていた。


「報酬を受け取る権利があると主張した人間は、何を根拠にしているんだろうな」


直人が言った。


「仕事の契約を譲り受けたのかもしれない。仲介人として代理で受け取る契約があるのかもしれない。あるいは、本人が戻らないことを利用しているだけかもしれない」


「どれも、まだ可能性にすぎない」


「ああ。だから、相手の言葉だけで判断しない」


男は茶を一口飲んだ。


報酬の受け取り先が変更されること自体は、必ずしも不正とは限らない。本人が代理人を指定している場合もあるし、契約上の債権が別の人間に譲渡される場合もある。


問題は、その変更がどのような手続きで行われたのか、本人がそれを知っているのか、そして誰がその変更を認める権限を持っているのかだった。


「もし本人が戻れない状況にあるなら、報酬の扱いを決める前に、本人の安否を確かめる必要がある」


直人がうなずいた。


「だが、仲介所が仕事を失うことを恐れて支払いに応じれば、今度は別の作業員も同じ扱いを受けるかもしれない」


男は窓の外を見た。


「相手は、仲介所に選択肢を与えているようで、実際には一つしか残していないのかもしれないな」


そのとき、茶屋の入口に戻ってきた男の姿が見えた。


彼は周囲を確認してから、二人の席に近づいた。


「話は聞けた。ただ、思っていたより面倒だ」


「何が分かった?」


彼は椅子に座らず、立ったまま説明した。


「仲介所は、報酬を要求した人間から書類を見せられたらしい。そこには、作業員の番号と、報酬を受け取る権利を移すという記載があった」


「本人の署名は?」


「本人の署名らしきものはあった。ただし、仲介所の人間は、それが本物かどうか判断できないと言っていた」


直人が尋ねた。


「書類を作ったのは誰だ?」


「分からない。書類を持ってきた人間は、正式な手続きを済ませていると主張したそうだ。仲介所は確認する時間を求めたが、その間に仕事の紹介を止めると脅された」


男は腕を組もうとして、傷の痛みに動きを止めた。


「要求した人間の特徴は?」


「背は普通くらい。顔を隠してはいなかったらしい。だが、名前は名乗らなかった。自分は手続きを代行しているだけだと言っていた」


「本人とは面識があったのか?」


「それも分からない。仲介所の人間は、以前にも似たような書類を持ってきた人物がいたと言っていた。ただ、同じ人間かどうかは確認できていない」


男は考え込んだ。


一度だけなら、個別の契約上の争いかもしれない。


だが、似たような書類が繰り返し持ち込まれているなら、特定の人物が偶然に関わっているだけとは限らない。


「書類を見せてもらうことはできるか?」


「写しなら、仲介所の人間が用意できると言っていた。ただし、外へ持ち出すことは避けたいらしい」


「それで十分だ。こちらから無理に原本を要求する必要はない」


直人は、話を聞きながら記録を取り始めた。


「ほかに何か分かったことは?」


戻ってきた男は少し間を置いた。


「その作業員は、仕事を受けるとき、報酬の受け取り先について特別な条件を付けていたらしい」


男が顔を上げた。


「どんな条件だ?」


「報酬は本人に直接渡すこと。代理人への支払いは、本人がその場で確認した場合に限る。そういう内容だったと、仲介所の人間は覚えている」


直人の手が止まった。


「それなら、今回の書類と食い違っている可能性がある」


「ああ。ただし、後から本人が条件を変更した可能性までは否定できない」


男は記録に新しい項目を加えた。


報酬の受取条件。


変更の手続き。


本人の確認。


そして、書類を持ち込んだ人物の身元。


どれも、まだ確認できていない。


「その仲介所は、今後どうするつもりだ?」


男が尋ねた。


「支払いを保留したまま、手続きの確認を求めるつもりらしい。ただ、仕事の紹介を止められれば、長くは持たないかもしれない」


「なら、こちらからできることは限られるな」


直人が言った。


「書類の確認先を探すことはできる。だが、仲介所の経営を俺たちが支えられるわけじゃない」


男はうなずいた。


「それに、俺たちが介入したことで、仲介所がさらに圧力を受ける可能性もある。本人の安否を確認することと、報酬の争いを解決することは、分けて考えよう」


戻ってきた男は、少し意外そうに彼を見た。


「以前より、慎重になったな」


「昨日、無理をした結果がこれだ」


男は包帯を巻いた手を見せた。


「自分ができることと、やるべきことは同じじゃない。できるからといって、何にでも手を出していたら、最後には何もできなくなる」


戻ってきた男は何も言わず、うなずいた。


三人はまず、報酬の受取条件を確認することにした。


仲介所から用意された書類の写しは、昼過ぎに届けられた。


そこには、確かに作業員の番号が記載されていた。報酬の受取先を変更するという文言もある。


しかし、変更を申請した人物の名前は空欄だった。


代わりに、書類の下部には小さな印が押されていた。


円の内側に、短い二本の線。


男は、その印を見つめた。


市場で見た荷物の承認印や、仕事の保証に使われていた印と似ていた。だが、完全に同じとは言い切れない。


「この印は、誰が押したものなんだ?」


直人が尋ねた。


「仲介所の人間も知らないらしい。書類を持ってきた人物は、管理側で確認済みだと言ったそうだ」


男は書類を傾け、印の形を確かめた。


「これだけで、管理側が正式に認めたとは判断できない。印の意味を知っている人間が、勝手に使った可能性もある」


「逆に、正式な印なのに、仲介所がその手続きを知らないだけかもしれない」


直人の言葉に、男はうなずいた。


「そうだ。だから、印だけで決めつけるのはやめよう」


男は書類の写しを直人に渡した。


「まず、同じ印がどこで使われているのかを確認する。ただし、荷物の許可証と仕事の報酬書類が同じ仕組みで管理されているとは限らない。形が似ていることと、権限がつながっていることは別だ」


直人は記録を整理した。


その間、戻ってきた男は、仲介所から聞いた話をもう一度思い返していた。


「一つ、気になることがある」


「何だ?」


「書類を持ってきた人間は、仲介所が支払いを保留したとき、怒鳴ったわけでも、無理に奪おうとしたわけでもなかったらしい」


「それで?」


「ただ、今後の仕事を止めると言った。それだけで、仲介所はかなり困っていた」


男は黙って聞いた。


「つまり、相手は仲介所を壊す必要がない。仕事を回すかどうかを決められるだけで、相手を従わせられる」


直人が静かに言った。


男は、その言葉を否定しなかった。


相手がどれほど大きな組織なのかは分からない。


ただ、仲介所が仕事を失うことを恐れている以上、仕事を配る側には一定の影響力がある。


その影響力を誰が握っているのか。


そして、その権限はどこまで広がっているのか。


そこを見誤れば、目の前の問題だけを解決しても、別の場所で同じことが繰り返される。


「報酬の書類は、いったんここまでにしよう」


男は言った。


「次は、行方不明の作業員がどこにいたのかを確かめる。本人が生きているなら、報酬を誰が受け取るかを決める前に、本人の意思を確認する必要がある」


戻ってきた男が尋ねた。


「どこから探す?」


「仕事を受ける前に、彼がどこで暮らしていたのか。誰と働いていたのか。そこからだ」


直人は記録をまとめた。


「俺が市場の荷運び人たちに聞いてみる。君は無理をせず、ここで休んでいろ」


男は少し不満そうな顔をしたが、すぐにうなずいた。


「頼む。何かあったら、必ず知らせてくれ」


直人が出ていったあと、男は一人で書類を見直した。


円と二本の線。


似た印が、異なる場所で使われている。


それが同じ組織を示すものなのか、ただの共通した記号なのか、まだ判断できない。


しかし、印の意味を理解している人間と、理解していない人間がいることは確かだった。


そして、理解していない側が仕事や報酬を失うとき、理解している側が何を得るのか。


男は、その問いを新しい記録の先頭に書いた。


夕方になっても、直人からの連絡はなかった。


男が立ち上がろうとしたとき、戻ってきた仲間が入口に姿を現した。


今度は、いつもの落ち着いた表情ではなかった。


「作業員のことだ」


男はすぐに顔を上げた。


「見つかったのか?」


「いや。だが、彼が最後に住んでいた場所が分かった」


「そこに行ったのか?」


「行った。部屋は空になっていた」


男は息を止めた。


「誰かが荷物を運び出したのか?」


「分からない。部屋の持ち主によれば、今朝、荷物をまとめて出ていったらしい。本人が自分で出ていったのか、誰かが手伝ったのかは見ていないそうだ」


「その部屋の持ち主は、彼がどこへ行ったか知らないのか?」


「知らないと言っていた。ただ、一つだけ、妙なことがあった」


戻ってきた男は、懐から小さな紙片を取り出した。


そこには、短い文が書かれていた。


『報酬は受け取らなくていい。ここから先は、自分で選ぶ。』


男は紙片を受け取った。


筆跡から、書いた人物を特定することはできなかった。


作業員本人が残したものなのか。


誰かが彼に書かせたものなのか。


あるいは、別の人間が、彼の意思を装って置いたものなのか。


どれも否定できなかった。


男は紙片を記録の間に挟んだ。


「これが本人の意思なら、報酬を受け取る権利を争う必要はないかもしれない」


戻ってきた男が言った。


「だが、本人が本当に自分で選んだのかどうかは、まだ分からない」


男はうなずいた。


「そうだ。だから、まずは本人を見つける」


窓の外では、日が傾き始めていた。


報酬を受け取る権利。


仕事を続ける権利。


自分の意思で、その場を離れる権利。


誰かがそれを決めるとき、本人の声はどこにあるのか。


男は紙片を見つめながら、次に何を確かめるべきかを考え続けた。

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