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観客のいない世界  作者: 亀


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第186章 奪われた居場所

翌朝、男は宿の部屋で、直人がまとめた記録を確認していた。


前日の襲撃で掌の傷が開き、医師から重いものを持たないよう注意されている。包帯の下では、指を動かすたびに鈍い痛みが走った。


しばらくは、以前のように自分一人で現場へ飛び込むことはできない。


だからこそ、今のうちに調べるべきことと、人に任せるべきことを分けておく必要があった。


「臨時作業員の件は、あの仲介所に任せておいていいのか?」


直人が尋ねた。


「完全には任せられない。あの作業員が戻らなかったことも、報酬について問い合わせた人間がいたことも、まだ断片的な情報だ。ただ、今すぐ俺たちが探し回るより、彼が普段どんな場所で働いていたのかを調べるほうがいい」


「それなら、昨日話を聞いた若い荷運び人に、ほかの仕事仲間を紹介してもらおう」


「頼んでみよう。ただし、昨日の襲撃については詳しく話さない」


男は記録を閉じた。


彼らが次に動こうとしたとき、宿の主人が部屋の入口に現れた。


「少し、話がある」


いつもより表情が硬かった。


「何かありましたか?」


「君たちの部屋についてだ。今日中に出てもらいたい」


男と直人は顔を見合わせた。


「契約はまだ残っています。料金も支払っています」


直人が落ち着いて答えると、主人は困ったように眉を寄せた。


「それは分かっている。だが、こちらにも事情があるんだ」


「具体的には、どのような事情でしょうか」


主人は廊下の奥を一度確認してから、声を落とした。


「今朝、管理側の人間が来た。建物の利用について確認が必要だと言われたんだ。君たちが泊まっている部屋は、届け出の内容と実際の利用状況が一致していない可能性があるらしい」


「届け出の内容?」


「詳しくは聞いていない。こちらの帳簿を見せるよう求められた。問題が解決するまで、部屋を貸し続けるのは難しい」


男はすぐには返事をしなかった。


これまでにも、荷物の受領資格や倉庫の管理権限が突然変更される事例を見てきた。


しかし、宿泊先まで同じような形で制限されるとは限らない。


宿の主人が本当に管理側から指示を受けたのか、それとも別の事情があるのか、まだ確かめる必要があった。


「その人間は、いつ来たんですか?」


「今朝だ。二人組だった。書類を見せられたが、私は専門家ではないから、正しいものなのか判断できなかった」


「名前や所属は?」


「管理事務所の関係者だと言っていた。それ以上は分からない」


直人が尋ねた。


「私たちに問題があるというなら、具体的な理由を書面で示してもらえますか。契約の内容も確認したいのですが」


主人は首を横に振った。


「私が勝手に判断できることではないんだ。君たちを追い出したいわけじゃない。ただ、建物全体の利用について確認が入っている。ほかの客にまで影響が出るかもしれない」


その言葉には、恐怖よりも困惑がにじんでいた。


主人自身も、どこまで従うべきなのか分かっていないのだろう。


男は主人を責めなかった。


「分かりました。今日中に荷物を整理します。ただし、契約や支払いの記録は確認させてください」


主人は安堵したようにうなずいた。


「帳簿なら見せられる。できる限りのことはする」


主人が去ったあと、直人が低い声で言った。


「昨日の襲撃と関係があると思うか?」


「まだ分からない。だが、無関係だと決めつける理由もない」


男は窓の外を見た。


宿の前を、二人の男が通り過ぎた。


そのうち一人が建物を見上げたが、すぐに視線を戻して歩いていった。


男は顔を覚えようとしたものの、以前見た人物かどうか判断できなかった。


「今は、ここを離れること自体は問題じゃない。問題は、次の場所まで同じように制限される可能性があることだ」


直人はうなずいた。


「箱は安全な場所に移してある。だが、俺たちの居場所が分からなくなれば、連絡を取るのも難しくなる」


「だから、連絡手段を一つに絞らないようにしよう。信頼できる人間を通じた連絡と、直接会う場所を別々に決める」


二人は必要な荷物をまとめ始めた。


その途中、直人が小さな袋を取り出した。


中には、これまでの調査で集めた紙片や、荷物の番号を記録した紙が入っている。


「これも持っていくか?」


「持っていく。ただし、箱に関する記録と、最近の荷物の記録は分けておこう。全部を一か所にまとめる必要はない」


直人は紙を二つに分けた。


男は、荷物をまとめながら考えていた。


もし誰かが自分の調査を妨害しようとしているのなら、直接襲う以外にも方法はある。


仕事を失わせる。


泊まる場所を失わせる。


情報を得るために必要な人間との接触を難しくする。


そうした制限は、一つひとつなら小さく見える。だが、重なれば、人は自分で選べる行動を失っていく。


ただし、今回の宿の件が誰かの意図によるものなのか、それとも別の事情なのかは、まだ分からない。


男はその区別を記録に残した。


昼前、二人は宿を出た。


次の滞在先をすぐに決めることはせず、まずは荷物を一時的に預けられる場所を確保することにした。


箱はすでに別の安全な場所にある。今持っているのは、衣類と記録、最低限の道具だけだ。


それでも、荷物を持って歩き続けることは負担になる。


特に今の男は、片手を十分に使えなかった。


市場の裏手にある荷物預かり所を訪ねると、主人は料金表を示した。


「通常なら問題ない。ただ、最近は管理側から確認が入ることが増えている。長期間預けるなら、身元と荷物の内容を記録してもらう必要がある」


男は料金表を見た。


「短期間なら?」


「一日単位でも預かれる。ただし、預けた本人以外には渡せない。引き取り時には、この控えが必要だ」


男は条件を確認し、必要な分だけ荷物を預けた。


直人は控えを受け取ると、男に尋ねた。


「この場所も、あとで使えなくなるかもしれないな」


「その可能性はある。だから、ここを拠点にするつもりはない」


二人が預かり所を出ると、通りの反対側で言い争いが起きていた。


荷物を積んだ商人が、管理事務所の職員らしい男に通行を止められている。


「昨日までは、この道を通れたはずだ」


商人が声を荒らげた。


「許可の確認が必要になりました。こちらの記録では、あなたの荷物は現在の通行条件を満たしていません」


「そんな話は聞いていない。納品の期限があるんだ。今日中に届けなければ、契約を失う」


職員は困ったような表情を浮かべた。


「私も、ここで判断を変えることはできません。異議があるなら、管理事務所で手続きをしてください」


商人は書類を掲げたが、職員は首を横に振った。


そのとき、荷車の後ろから一人の少年が飛び出した。


「父さん、もういいよ。別の道へ行こう」


商人は息子を見て、悔しそうに唇をかんだ。


「別の道では間に合わないんだ」


男は、そのやり取りを見ていた。


以前なら、職員に話を聞き、許可の仕組みを調べようとしたかもしれない。


だが、今は違う。


まず確認すべきなのは、この商人が本当に通行できないのか、ほかの道があるのか、そして期限に間に合わなかった場合に誰が損失を負うのかということだった。


男は商人に近づいた。


「すみません。少しだけ聞いてもいいですか」


商人は警戒した様子で振り向いた。


「何だ?」


「この荷物を届ける期限は、今日中ですか?」


「そうだ。明日の朝までに納品しなければ、契約違反になる」


「別の道を通る場合、どれくらい時間がかかりますか?」


「荷車なら半日以上だ。今からでは間に合わない」


男は職員にも尋ねた。


「この制限は、すべての荷物に適用されるんですか?」


職員は少し戸惑った。


「荷物の種類と通行資格による。すべてではない」


「では、この商人の荷物が通れない理由は、どこで確認できますか?」


「管理事務所の記録だ。ここでは詳細を見せられない」


男はうなずいた。


「分かりました。ここで判断を変えてほしいと言っているわけではありません」


職員は少しだけ表情を緩めた。


男は商人に向き直った。


「納品先には、通行が止められたことを伝えましたか?」


「まだだ。通れるようになると思っていた」


「なら、まず納品先へ連絡したほうがいい。契約に遅延時の扱いがあるなら、それも確認してください。通行制限の責任と、納品の責任が同じとは限りません」


商人は不満そうに男を見た。


「そんなことをしても、荷物は届かない」


「ええ。ですが、今のまま待っていても、期限は過ぎます」


商人はしばらく黙っていた。


やがて、息子に荷車を見ているよう言い、自分は納品先へ連絡するために歩き出した。


男はその背中を見送った。


直人が小声で尋ねた。


「助けたつもりか?」


「いや。俺にできるのは、彼が次の選択をするための情報を整理することくらいだ。納品が間に合うかどうかは、まだ分からない」


「それでも、昨日までの君なら、職員の後を追っていたかもしれない」


男は苦笑した。


「今は、自分が追うべき問題を選ぶ必要がある」


二人は市場を離れた。


宿を失ったことは、小さな不便では済まないかもしれない。


だが、今すぐ誰かを敵だと決めつける必要もなかった。


まずは新しい滞在先を確保し、箱を預けている相手との連絡手段を整える。そして、昨日の襲撃と宿の利用制限に関連があるのかを、別々に確かめる。


男は歩きながら、次に取るべき行動を頭の中で組み立てた。


そのとき、通りの向こうから、見覚えのある男がこちらへ歩いてきた。


戻ってきた仲間だった。


彼は二人の前で足を止めると、周囲を確認してから言った。


「少し厄介な話が分かった」


「何だ?」


「昨日の倉庫で働いていた作業員だが、今朝、仕事を紹介していた仲介所に連絡が入ったらしい」


「本人からか?」


「いや。別の人間からだ」


彼は声を落とした。


「その作業員の報酬を、本人が戻らないまま支払うよう求めてきたそうだ」


男の目が細くなった。


「誰が?」


「まだ分からない。ただ、支払いを求めた人間は、報酬を受け取る権利が自分にあると主張したらしい」


直人が息をのんだ。


「本人が戻っていないのに?」


「ああ。それだけじゃない。仲介所が支払いを保留すると、その人間は、今後その仲介所へ仕事を回さないと言ったそうだ」


男は黙った。


一人の作業員が行方不明になっている。


その作業員の報酬を、別の人間が要求している。


そして、支払いを拒めば、仲介所そのものが仕事を失う可能性がある。


それは単なる帳簿の問題ではなかった。


誰が報酬を受け取るのかを決める権限が、誰の生活を左右するのか。


男は、ようやくその問いの重さを理解し始めていた。


「その仲介所へ行こう」


直人が言った。


男は首を横に振った。


「すぐには行かない。先に、報酬を要求した人間が何を根拠に権利を主張しているのかを確認する。仲介所を守るために動いたつもりが、相手の思うとおりの場所へ誘導されることもある」


戻ってきた仲間は、男を見つめた。


「それなら、俺が先に話を聞いてくる。君の顔を知らない人間なら、少しは警戒されずに済むかもしれない」


男は少し考えた。


「頼む。ただし、相手がこちらのことを知っていると分かったら、無理に聞き出すな。仲介所の人間を守るために、君まで危険にさらす必要はない」


「分かった」


彼は市場の奥へ向かった。


男は、その背中を見送りながら、自分たちが失ったものを考えた。


宿泊場所。


安全に動ける時間。


そして、調査を続けるための余裕。


一つひとつは取り戻せるかもしれない。


しかし、相手が同じ方法で仕事や住居、報酬、移動手段を制限し続けるなら、個別に対処しているだけでは追いつかなくなる。


その仕組み自体を理解し、相手がどこまで影響を及ぼせるのかを見極めなければならない。


男は包帯を巻いた手を握ろうとして、痛みに顔をしかめた。


まだ、戦えない。


だからこそ、戦う前に考えなければならなかった。

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