第185章 手を貸す理由
食堂の奥には、四人掛けの小さな席が空いていた。
男は壁を背にして座り、直人はその隣に腰を下ろした。戻ってきた男は向かい側に座ったが、入口と窓の両方が見える位置を選んでいた。
以前は、そこまで周囲を気にする人間ではなかった。
男は、その変化を覚えておくことにした。
「まず、君がどうやってここへ戻ってきたのか、聞かせてくれ」
戻ってきた男は水を一口飲んだ。
「前にも話したとおり、目を覚ましたら、この時代にいた。そこまでは変わっていない。そのあと、俺は自分と同じような事情を持つ人間が集まる組織に接触した」
「同じような事情?」
「この時代に来た理由を説明できない人間だ。全員がそうだとは言わない。だが、少なくとも俺が知り合った何人かは、ここへ来た経緯を知らなかった」
「その組織は、君たちがどこから来たのか知っているのか?」
「俺が知る限り、確かな説明は受けていない」
男は彼の表情を観察した。
嘘をついていると断定できるものはない。しかし、説明を受けていないことと、何も知らないことは違う。
「それで、君は組織に入った?」
「ああ。最初は情報を集めるためだった。だが、そこで訓練を受け、以前の俺にはなかった力を得た」
「その力は、どんなものだ?」
戻ってきた男はすぐには答えなかった。
テーブルの上に置かれた木製の箸を一本取り、指先で軽く回す。
「見せたほうが早い。ただし、ここではやらない」
「今、見せられない理由は?」
「周囲を巻き込みたくないからだ。それに、力を見せることと、力の仕組みを説明することは別だ」
男はその返答を受け入れた。
以前なら、相手の能力を知ることを優先していたかもしれない。だが、能力を見せられたところで、それがどこまで使えるのか、どのような条件で発動するのかまでは分からない。
重要なのは、必要な場面で何ができるかだ。
「君は、俺を助けるために戻ってきたと言ったな」
「ああ」
「なぜだ?」
戻ってきた男は、箸を置いた。
「以前の俺は、君と一緒にいても何もできなかった。君が危険な場所へ向かうたびに、俺は足手まといになることを恐れていた。だから離れた」
「それは覚えている」
「今は違う。少なくとも、以前よりは戦える。情報を集める方法も、相手の動きを読む方法も学んだ。君が今も何かを追っているなら、役に立てるかもしれないと思った」
「役に立てるかもしれない、という理由だけで戻ってきたのか?」
「それだけじゃない」
彼は男の目を見た。
「俺が離れたあと、君がどうなったのか気になっていた。自分だけが安全な場所へ逃げたような気がしていたんだ」
男は黙って聞いていた。
その言葉が、どこまで本心なのかは分からない。
だが、すべてが計算であると決めつける理由もなかった。
「分かった。君の気持ちは受け取っておく」
「それだけか?」
「それ以上、何を求めている?」
戻ってきた男は苦笑した。
「いや。君らしいと思っただけだ」
直人が二人の会話に入った。
「一緒に行動するなら、もう少し具体的な話をしよう。君は、こちらが何を調べているのか、どこまで知っている?」
「箱に関することは断片的に聞いている。古い契約や、過去の管理区域に関係する記録を探しているんだろう?」
男の表情がわずかに変わった。
「誰から聞いた?」
「組織の中で、この地域の動きについて話が出た。だが、俺が知っているのは大まかな内容だけだ。君が持っている箱のことも、詳しい仕組みも知らない」
「その組織は、箱を探しているのか?」
「少なくとも、俺に箱を回収しろという指示は出ていない」
男は言葉の選び方に注意を払った。
箱を探していないとは言わなかった。
回収の指示がないことと、箱に関心がないことは同じではない。
「では、君の任務は何だ?」
戻ってきた男の手が、一瞬止まった。
「この地域で起きていることを調べ、必要な情報を組織へ報告する。それが俺に与えられた仕事だ」
「それだけか?」
「今、話せる範囲ではな」
男は相手を見つめた。
「君が俺のそばにいることで、俺の行動が組織へ伝わる可能性がある。そう考えていいか?」
「否定はしない」
「なら、俺たちが話したことをすべて報告するつもりか?」
「必要な情報は報告する。ただし、俺が何を報告するかまで、君に約束することはできない」
直人が眉を寄せた。
「それでは、こちらが一方的に情報を渡すことにならないか?」
「そうなる可能性はある」
戻ってきた男は、逃げずに答えた。
「だから、俺を信用しろとは言わない。必要なときだけ使ってくれればいい」
男はしばらく考えた。
相手には隠していることがある。
その事実は変わらない。
だが、隠し事がある人間と一切協力できないのであれば、情報も能力も持つ人間を仲間にすることは難しくなる。重要なのは、何を共有し、何を共有せず、どこまで任せるかを自分で決めることだった。
「一つ、条件がある」
「聞こう」
「俺たちが一緒に行動している間、君が知った危険については、可能な範囲で事前に知らせてくれ。組織の秘密をすべて話せとは言わない。だが、俺たちの命に関わることまで黙っているなら、協力関係は続けられない」
戻ってきた男は、ゆっくりとうなずいた。
「それなら約束できる」
「もう一つ。俺たちが調べている箱や記録を、許可なく持ち出さないこと」
「分かった」
直人も条件を加えた。
「俺たちが危険だと判断した場合は、作戦を中断する。君が組織から命令を受けていても、こちらまで無条件に従うつもりはない」
「当然だ」
三人は、最低限の取り決めを確認した。
信頼が戻ったわけではない。
互いの事情が明らかになったわけでもない。
ただ、協力できる範囲と、越えてはならない線が少しだけ見えた。
話が一区切りついたところで、男は昨日の倉庫街で起きたことを説明した。
作業員が二人の男に問い詰められていたこと。
自分が割って入り、直人とともに逃げたこと。
作業員の行方が分からないこと。
そして、臨時作業員の仲介所で、報酬を受け取っていない人物がいると分かったこと。
戻ってきた男は、最後まで口を挟まずに聞いていた。
「君の手で、今後も同じように戦うのは難しいな」
「分かっている」
「なら、しばらくは俺が前に出る」
「相手の力も分からないのに、簡単に言うな」
「簡単に言っているわけじゃない。俺が前に出ることで、君が観察する時間を作れるかもしれないと言っている」
男は少し考えた。
以前の彼なら、自分が戦えるようになったことを証明しようとしたかもしれない。
今の彼は、戦うこと自体を目的にしていないようだった。
「分かった。ただし、俺の指示に従えという意味ではない。現場では状況を見て判断してくれ」
「了解した」
「それから、昨日の二人組について、何か心当たりはあるか?」
戻ってきた男は首を横に振った。
「顔を見たことはない。ただ、この地域では、特定の荷物に近づいた人間が襲われるという話を聞いたことがある」
「どこで聞いた?」
「組織の人間からだ。詳しい事件や被害者については聞いていない」
男はすぐに問い返した。
「その話は、いつ聞いた?」
「ここへ来てから、数日前だ」
「俺が倉庫街で襲われる前か?」
「ああ」
直人が身を乗り出した。
「それなら、昨日の襲撃は偶然ではない可能性がある」
「可能性はある。ただし、同じ話を指しているとは限らない」
男はそう言ったが、胸の内では考えを進めていた。
自分が倉庫街へ向かう前から、特定の荷物に関わる人間への襲撃が話題になっていた。
それが同じ事件のことなら、昨日の暴力は突発的なものではなく、ある程度続いている行動の一部かもしれない。
しかし、誰が命令しているのか、何を守ろうとしているのかは分からない。
「その話をした人間に、もう一度確認できるか?」
「できると思う。ただし、相手がどこまで話すかは分からない」
「それでいい。まずは、どんな話だったのかを確かめてくれ」
戻ってきた男はうなずいた。
三人は食堂を出た。
通りの向こうでは、荷車が市場へ向かっていた。商人が車輪の不具合を指摘し、荷運び人が積み荷を降ろして確認している。
以前なら、男はその光景から何かの手掛かりを探そうとしただろう。
だが、今は違った。
必要な情報を集めることと、目に入ったすべてを追いかけることは同じではない。
箱の行方を調べるためには、箱を運んだ人間だけでなく、その人間が働く仕組みや、危険を知りながら仕事を引き受ける理由も理解する必要がある。
そして、誰かが自分を襲う可能性がある以上、調査そのものを続けるための備えも必要だった。
「明日から、少し動き方を変えよう」
男が言った。
直人が尋ねた。
「どう変える?」
「俺は、箱と旧契約の記録に関する調査を続ける。ただし、一人で現場へ入ることは減らす。君には記録と人間関係の整理を頼みたい」
直人がうなずく。
「分かった」
男は戻ってきた仲間に視線を移した。
「君には、昨日の襲撃について調べてもらいたい。ただし、相手を追い詰める必要はない。誰が、どのような人間を狙っているのか。その範囲だけを確かめてくれ」
「了解した」
「危険を感じたら引き返せ。手柄を立てる必要はない」
戻ってきた男は少し笑った。
「今の俺は、昔の俺とは違う。だが、無敵になったわけじゃない。それくらいは分かっている」
三人は別々の道へ向かうことにした。
男は宿へ戻る前に、もう一度、自分の包帯を見た。
傷はまだ痛む。
今の自分には、できないことがある。
その事実を認めることは、戦いを諦めることではなかった。
自分ができないことを誰かに任せ、その間に別の手を打つ。
それもまた、相手に選択を迫るための方法だった。
そして、男はまだ知らなかった。
自分が調査の範囲を広げようとしているのと同じ頃、遠く離れた場所では、彼の動きを記録していた者が、次の段階へ進むための準備を始めていたことを。




