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観客のいない世界  作者: 亀


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第184章 追跡者の条件

翌朝、男は包帯を巻き直すために、直人と一緒に医師のもとを訪れた。


掌の傷は、昨日の襲撃で再び開いていた。医師は傷口を洗い、残っていた汚れを取り除くと、以前よりも厚く包帯を巻いた。


「しばらく、この手で重いものを持たないこと。傷が塞がる前にまた開けば、治るまで時間がかかる」


男はうなずいた。


「走ることは?」


「走ること自体より、転んだり、誰かと揉み合ったりするほうが問題だ」


医師は男の顔を見た。


「何かあったのか?」


「少し、揉め事がありました」


「なら、しばらく揉め事から離れなさい」


男は返事をしなかった。


診察を終えて外へ出ると、直人が待っていた。


「今日は調査を休む。昨日の話はそれからだ」


「分かっている。だが、何もせずに待つわけにもいかない」


「誰も、何もするなとは言っていない。君が自分で動けないなら、ほかの人間に頼めばいい」


男は足を止めた。


これまで、現場へ行き、自分の目で確かめ、必要ならその場で判断してきた。情報を持つ人間が限られている以上、自分が動かなければ何も進まないと思っていた。


しかし、昨日は違った。


自分が動けなくなれば、直人まで危険にさらされる。相手が二人以上いれば、怪我をした手で対応することも難しい。


「……そうだな」


男は認めた。


「まず、昨日の倉庫で何が起きたのか、外から確認できる範囲で調べよう。中へは入らない」


直人は少し表情を和らげた。


「それならいい」


二人は宿へ戻り、これまでの記録を広げた。


水門で消えた箱。


受領資格の停止。


箱を別扱いにするよう指示した人物。


倉庫街で見つけた荷車と、金属片を抜き取った男。


そして、昨日、倉庫で作業員を問い詰めていた二人組。


直人は記録を見比べながら言った。


「今のところ、箱を持ち去った人間の顔は分かっていない。指示を出した人間も、資格を持つ人間も、同じ人物だと確認できていない」


「それに、昨日襲ってきた二人が、箱の件をどこまで知っていたのかも分からない」


「ただ、あの作業員が何かを知っていると思われていた可能性は高い」


男は昨日の倉庫を思い出した。


作業員は、荷物を運んだだけだと繰り返していた。


それが本当なら、彼が知っているのは、荷物の受け渡しに関する一部の情報だけかもしれない。


しかし、その程度の情報でさえ、誰かにとっては隠しておきたいものだった。


「作業員を見つける必要があるな」


「そうだ。ただし、見つけても、すぐに問い詰めるのはやめよう。彼が逃げているなら、こちらを信用していない可能性もある」


「分かった」


直人は紙を一枚取り出した。


「昨日、店主が確認してくれた範囲では、倉庫の裏口から北へ抜ける道がある。そこから先は、古い職人街と市場につながっている。怪我をしていたなら、遠くへは行っていないかもしれない」


「ただ、相手が彼を連れていった可能性もある」


「その場合は、足取りを追うだけでは見つからない」


男は少し考えた。


「なら、彼が普段どこで仕事を受けていたかを調べよう。倉庫街にいた理由だけじゃなく、そこへ行く前の生活を知るんだ」


直人はうなずいた。


「仕事を失った人間の中に、彼を知っている人がいるかもしれない」


二人は市場へ向かった。


昨日話を聞いた若い荷運び人は、同じ場所にいた。男を見ると、包帯に目を向けた。


「また何かあったのか?」


「少し揉めた。ところで、昨日の倉庫で働いていた人間を探している。臨時で荷を運んでいた作業員だ」


若い男の表情が変わった。


「誰のことだ?」


「名前はまだ分からない。昨日、荷を運んだあと、別の人間に荷物を渡したらしい」


若い男は周囲を確認してから、声を落とした。


「その人なら、俺も知っているかもしれない」


「どこで会った?」


「仕事を紹介する仲介所だ。何度か同じ場所で見かけた。ただ、親しいわけじゃない」


「その仲介所の場所は?」


若い男は市場の東側を指した。


「大通りから一本入ったところだ。看板はない。仕事を探している人間が集まる場所だから、今も開いているかもしれない」


男は礼を言った。


「その人の名前は?」


「知らない。みんな、仕事を受けるときは番号で呼ばれていた」


番号。


男は直人と目を合わせた。


荷の番号、倉庫の番号、受領資格の番号、そして仕事を受ける人間の番号。


同じ数字の仕組みが使われているとは限らない。だが、名前ではなく番号によって人間を扱う場所が複数あることは、記録しておく価値があった。


二人は仲介所へ向かった。


大通りから一本入った建物は、外から見ると普通の事務所にしか見えなかった。看板はなく、入口の横には小さな木札が掛けられている。


扉を開けると、数人の男女が長椅子に座っていた。


奥の机では、事務員らしい男が紙を整理している。


「仕事を探しているのか?」


事務員が顔を上げた。


「今日は違います。昨日、倉庫街で働いていた臨時作業員について聞きたいんです」


「個人のことは教えられない」


「名前を教えてほしいわけではありません。昨日の仕事を受けた人間が、今もここにいるかどうかだけ確認したい」


事務員は紙を置いた。


「なぜ、そんなことを聞く?」


男は少し迷った。


ここで水門の箱について詳しく話せば、相手が誰かに連絡する可能性がある。一方、事情を隠しすぎれば、協力を得ることもできない。


「昨日、荷物を運んだ人間が、別の場所で暴力を受けていた可能性があります。今、その人を探しています」


事務員はすぐには答えなかった。


やがて、机の引き出しから薄い帳簿を取り出した。


「昨日、仕事を受けた者の中に、予定の時間に戻らなかった人間が一人いる」


男は身を乗り出しかけたが、直人がそっと腕を押さえた。


「その人間が、探している人物だとは限らない」


男は姿勢を戻した。


「そうですね。分かっていることだけで構いません」


事務員は帳簿を開いた。


「この番号の人間だ。昨日は倉庫街への運搬を請け負った。仕事が終わったら、ここへ戻って報告する約束だった」


帳簿には、名前の代わりに数字が記されていた。


その横には、報酬の受け取り欄がある。


空白だった。


「報酬を受け取っていない?」


「そうだ。仕事の完了報告がないから、支払いを保留している」


「彼が戻らなかった理由は?」


「知らない。仕事を途中で放棄したのかもしれないし、別の仕事を受けたのかもしれない」


事務員は帳簿を閉じた。


「ただ、一つだけおかしなことがある」


「何ですか?」


「昨日の夕方、この番号の仕事について、別の人間から問い合わせがあった。本人が戻っていないのに、報酬を誰に渡すのかと聞かれたんだ」


男は眉を寄せた。


「誰が問い合わせたんです?」


「名前は残っていない。仕事を紹介した仲介人の一人だったと思う」


「その仲介人は、どんな人間ですか?」


事務員は少し考えた。


「背は高くない。右手に傷があったように思う」


男の視線が、自分の包帯に落ちた。


昨日、金属片を抜き取った男。


そして、倉庫街で自分たちを襲った二人。


右手に傷があったというだけで、同一人物だとは言えない。しかし、同じ場所で同じような特徴を持つ人間が現れたことは、偶然として片づけるには早かった。


「その仲介人は、今もここに来るんですか?」


「時々な。ただ、次にいつ来るかは分からない」


男は事務員に礼を言った。


事務所を出たあと、直人が尋ねた。


「どう思う?」


「報酬を受け取っていない作業員がいる。その作業員の仕事について、本人が戻る前に別の人間が問い合わせている。少なくとも、誰かが彼の行方を気にしていた可能性がある」


「心配していたのか、それとも、何かを回収したかったのか」


「そこは分からない」


男は歩きながら続けた。


「ただ、仕事の報酬を受け取る権利が誰にあるのか、という問題が出てきた。荷物の受領資格と同じように、仕事をした人間と、報酬を受け取る人間が分かれている可能性がある」


直人は考え込んだ。


「本人が戻らなければ、別の人間が報酬を受け取る仕組みなのかもしれないな」


「あるいは、報酬を受け取る権利そのものが、誰かに移されるのかもしれない」


男はその可能性を記録した。


荷物を運ぶ資格。


荷物を受け取る資格。


仕事の報酬を受け取る権利。


それらがどこまでつながっているのかは分からない。


しかし、誰かが荷物だけでなく、荷物を動かした人間の記録や報酬まで管理しているのなら、これまでの出来事の見え方も変わってくる。


二人が宿へ戻ろうとしたとき、道の向こうに見覚えのある人物が立っていた。


かつて一度、主人公の前から去った男だった。


彼は二人を見つけると、ゆっくり近づいてきた。


「久しぶりだな」


男は相手を見つめた。


以前とは違う。


立ち方も、視線の動かし方も、周囲への注意の向け方も変わっている。身につけている装備も、以前より実用的だった。


「何をしに来た?」


男が尋ねると、彼は肩をすくめた。


「君を探していた。正確には、君がこのあたりで何を調べているのかを確かめたかった」


「どうやって俺の居場所を知った?」


「それを説明すると長くなる。今は、話すべきことがある」


彼は男の包帯を見た。


「誰かと戦ったのか?」


「それも話す必要があるのか?」


「必要がある。君がどんな相手と関わっているのかによって、俺が手を貸せる範囲も変わる」


男はすぐには答えなかった。


以前の彼は、自分には何もできないと考え、去っていった。


今は、何かを得て戻ってきたように見える。


しかし、何を得たのか。


何を目的に動いているのか。


それを知らないまま、再び隣に立たせるわけにはいかなかった。


「話をするなら、直人も同席する。それでいいか?」


「構わない」


彼は即答した。


「ただし、俺にも話せないことがある。それは先に伝えておく」


男はうなずいた。


「分かっている。俺も、すべてを話すつもりはない」


三人は、通りから少し離れた食堂へ向かった。


今度は、箱の行方だけではなく、かつて去った仲間が何を持ち帰ったのかも、確かめなければならなかった。

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