第183章 倉庫街の襲撃
荷車の車輪には、新しい傷があった。
男はしゃがみ込み、歪んだ部分を確かめた。金属の縁が内側へ押し込まれ、木製の軸にも細い亀裂が走っている。
修理店の主人が言っていた状態と似ている。
だが、似ているだけでは証拠にならない。
「この荷車が昨日のものだとして、箱を運んだあと、ここに置かれたのかもしれない」
直人が周囲を見ながら言った。
「逆に、別の荷物を運んで壊れた可能性もある」
男はうなずいた。
荷台には、木箱を固定していたらしい縄の跡が残っていた。縄そのものは切られたのではなく、結び目をほどいて外したように見える。
荷を急いで下ろしたのか。
それとも、最初からここで荷を降ろす予定だったのか。
彼は荷台の端に残った泥を指先で確かめた。乾いた泥の中に、細かな黒い粒が混じっている。
水門の周辺で見た泥と同じかどうかは、見ただけでは分からない。
「これ以上、荷車だけを見ても仕方がないな」
男は立ち上がった。
「ここへ来た人間を探そう」
倉庫街には、荷車の修理を請け負う小さな工房がいくつかあった。二人は一軒ずつ回り、昨日の夕方に荷車を持ち込んだ人間がいなかったか尋ねた。
多くの店主は覚えていなかった。
一人は、夕方に荷車の車輪を直してほしいと頼まれたが、部品が足りず断ったと話した。別の店主は、夜になってから倉庫街を通る荷車が増えたと証言したが、荷物の中身までは知らなかった。
どれも決め手にはならない。
日が傾き、倉庫の影が長くなったころ、最後の工房で、年配の職人が手を止めた。
「昨日の荷車を探しているのか?」
男は顔を上げた。
「どの荷車ですか?」
「右の車輪が歪んでいたやつだ。修理を頼みに来た男がいた。だが、そいつは車輪を直してほしかったわけじゃない」
「どういう意味です?」
職人は工房の奥から、短い金属棒を持ってきた。
「軸を交換する必要があると言ったら、断られた。代わりに、車輪の内側に挟まっていた金属片だけを抜いてほしいと言われたんだ」
男は金属棒を見た。
「その金属片は?」
「持っていかれた。代金を払ってな」
「どんな形でした?」
職人は指で長さを示した。
受領資格を示す金属片に似た大きさだった。しかし、職人は表面の記号を覚えていない。
「その男の顔は?」
「帽子を深くかぶっていた。顔はよく見えなかった。だが、右手に傷があった」
男は自分の包帯を見た。
傷があるというだけでは、何も確定できない。
「その男は、どちらへ?」
「倉庫街の奥だ。あの荷車を置いてある場所の近くに、昔から使われていない倉庫がある」
職人は窓の外を見た。
「今も使われていないのかどうかは知らん。最近、夜になると人の出入りがある」
男は礼を言い、直人と工房を出た。
倉庫街の奥へ進むと、道幅が急に狭くなった。
古い壁が両側に迫り、建物の間には荷車一台が通れる程度の道しかない。人の往来も少なく、日が落ちれば足元を確かめるのも難しくなるだろう。
「ここで夜を待つのは危険だ」
直人が言った。
「そうだな。まずは外から様子を確認して、出入りがなければ今日は引き上げる」
男がそう答えた直後、前方の倉庫から怒鳴り声が聞こえた。
「だから、俺は運んだだけだ!」
続いて、何かが床に落ちる音がした。
二人は足を止めた。
倉庫の扉は半分開いている。
中では、二人の男が一人の作業員を壁際へ追い詰めていた。作業員の服は泥で汚れ、頬には殴られたような跡がある。
「誰に頼まれた?」
一人が作業員の胸ぐらをつかんだ。
「知らない! 仕事を紹介されたんだ!」
「嘘をつくな。荷車をここまで運んだのはお前だろう」
「運んだ! だが、荷物は途中で別の人間が持っていった!」
男は直人を見た。
ここで何が起きているのか、まだ分からない。
しかし、作業員が昨日の箱を運んだ人物なのか、それとも別の荷物を運んだ人物なのかは、確認する必要があった。
「やめてください」
男は倉庫の入口から声をかけた。
二人が振り返った。
「誰だ?」
「通りかかっただけです。話を聞くなら、殴る必要はないでしょう」
「関係のない人間は帰れ」
男の一人が近づいてきた。
もう一人は作業員を壁際に押しつけたままだった。
「この人が何をしたのか、聞いてもいいですか?」
「荷物を盗んだ」
「何を盗んだんです?」
男は答えなかった。
代わりに、作業員が叫んだ。
「盗んでない! 俺は運ぶように言われた荷物を運んだだけだ!」
その瞬間、近づいてきた男が手を伸ばした。
男は反射的に身を引いたが、負傷した右手をかばったため、動きが遅れた。相手の腕が肩に当たり、背中が壁にぶつかる。
鈍い痛みが走った。
相手は間を置かず、もう一度つかみかかってきた。
男は正面から受け止めず、身体を横へずらした。相手の勢いを逃がし、壁際に置かれていた木箱との間を抜ける。
しかし、狭い通路では十分に距離を取れない。
二人目が作業員を放し、こちらへ向かってきた。
男は後退した。
右手は使えない。足場も悪い。ここで二人を相手にするのは不利だった。
「直人、外へ!」
叫ぶと同時に、彼は倉庫の脇へ走った。
二人の男が追ってくる。
狭い通路を抜けた先には、荷車を置くための空き地があった。男は倒れた荷車の間をすり抜け、追ってくる相手との距離を少しずつ広げた。
だが、背後から投げられた木片が肩に当たった。
足がもつれ、膝をつきかける。
そこへ一人が追いつき、腕をつかもうとした。
男は相手の手首を両手で払おうとしたが、右手に鋭い痛みが走った。力が入りきらず、相手の指が袖をつかんだ。
そのとき、横から飛び込んできた直人が、男の肩を押して相手との間に割って入った。
「こっちだ!」
直人は近くの荷車を倒し、狭い通路を塞いだ。
追ってきた男たちは荷車を避けようと足を止めた。
二人はその隙に、空き地の反対側にある通りへ走り出た。
人通りのある場所まで出てから、ようやく足を止めた。
男は壁に手をつき、息を整えた。
掌の傷がまた開いている。包帯には赤い染みが広がり始めていた。
直人は男の肩と膝を確認した。
「動けるか?」
「動ける。手は少しまずい」
「少しどころじゃない。今日はもう無理だ」
男は返事をせず、倉庫街のほうを見た。
追手は出てこなかった。
偶然、作業員を問い詰めていた者たちだったのか。
それとも、彼が倉庫へ近づくことを知って待っていたのか。
今は判断できない。
「助けた作業員は、どうする?」
直人が尋ねた。
男は息を吐いた。
「戻るのは危険だ。まず、ここから人を呼ぶ。あの二人が去ったことを確認できてから、作業員を探そう」
直人は近くの店へ走り、店主に事情を説明した。しばらくして、店主ともう一人の男が倉庫街へ向かった。
二人が戻ってきたのは、日がほとんど沈んだころだった。
作業員は倉庫からいなくなっていた。
床には縄が落ちていたが、血痕は見当たらない。裏口が開いており、そこから出ていった可能性が高いという。
「逃げたのか、連れていかれたのかは分からない」
店主はそう告げた。
男は目を閉じた。
助けられなかった。
その事実は変わらない。
だが、無理に戻っていれば、彼自身が捕まり、直人まで危険にさらされていた可能性がある。
結果だけで判断することはできない。
「明日、もう一度調べる」
男が言うと、直人はすぐに首を振った。
「手当てが先だ。今の状態で、また同じことを繰り返すつもりか?」
「分かっている」
「分かっているなら、今日は帰ろう」
男はしばらく黙ったあと、うなずいた。
帰り道、彼は今日の出来事を整理した。
荷車に残った縄の跡。
車輪の内側から抜き取られた金属片。
倉庫で問い詰められていた作業員。
そして、自分たちを追ってきた二人の男。
すべてが同じ箱につながっているとは限らない。
しかし、少なくとも倉庫街では、荷物を運んだ人間が、何かを知っているという理由で暴力を受けていた。
箱の行方を追うことは、記録を調べるだけでは済まなくなっている。
男は包帯の巻かれた手を見下ろした。
相手は、情報を隠しているだけではない。
必要なら、情報を持つ人間そのものを動けなくする。
そして自分もまた、すでに相手の行動範囲に入っているのかもしれなかった。
今までと同じやり方では、次は逃げ切れない可能性がある。
男は歩みを止めなかった。
箱を探すことをやめるつもりはない。
だが、次に動くときは、ただ手がかりを追うのではなく、誰が自分を待ち受けているのかまで考えなければならない。
そのためには、まず傷を治し、使える手段を増やす必要があった。
焦って動くことと、前へ進むことは、同じではない。
彼はその違いを、今日の痛みとともに覚えておくことにした。




