第182章 資格を持たない者
臨時作業員の名前を手に入れたものの、男はすぐに探し回ることはしなかった。
名前が分かっても、居場所が分からなければ意味はない。まして、相手が自分の意思で姿を消したのか、誰かに隠れるよう指示されたのかも分からない。
彼は直人と市場の外れにある食堂へ入り、昼食を取りながら、これまでの情報を整理した。
「昨日の箱を動かした可能性がある人間は、少なくとも三種類いる」
男は指で机を軽く叩いた。
「実際に運んだ人間。運ぶ指示を出した人間。そして、箱を受け取る資格を持っていた人間だ」
直人がうなずいた。
「それに、資格そのものを停止できる人間もいる」
「そうだ。だが、資格を停止できるからといって、箱を持ち去ったとは限らない」
「逆に、箱を持ち去った人間が資格を停止できるとも限らない」
二人は顔を見合わせた。
これまでの調査では、荷物の移動と管理権限の変更が、同じ場所や同じ人間の周辺で起きていた。しかし、接点があることと、同じ者がすべてを操っていることは別だった。
「まずは、臨時作業員を探そう」
男がそう言ったとき、食堂の入口で椅子が倒れる音がした。
一人の若い男が、店の主人に腕をつかまれていた。
「金を払わずに出ていくつもりか?」
「違う。あとで払うと言っただろう!」
「昨日もそう言った。いつ払うんだ!」
若い男は腕を振りほどこうとしたが、主人は離さなかった。
周囲の客が二人を見ている。
男は席を立った。
「少し待ってください。何があったんですか?」
主人が不機嫌そうに答えた。
「こいつは昨日から仕事がないと言って、食事代を払わない。今日も同じことを言っている」
「仕事がないのは本当だ。だが、払わないとは言っていない!」
若い男は男に向かって言った。
「頼むから、少し待ってくれ。明日までには何とかする」
男は二人の話を聞き、主人に尋ねた。
「いくらですか?」
主人が金額を告げた。
男はその金額を確認し、若い男に向き直った。
「今、払える分はいくらある?」
「少しだけなら」
「全部出してくれ。残りは、いつ払えるかを主人と決めろ」
若い男は迷ったあと、懐から小銭を出した。
主人はそれを受け取り、残額を紙に書いた。
「明日の夕方までだ。それまでに払えなければ、次からは食わせない」
「分かった」
若い男は頭を下げた。
男は席に戻ろうとしたが、若い男が呼び止めた。
「あんた、さっき市場で荷の仕事について聞いていた人だろう?」
「見ていたのか?」
「広場で少し聞いた。俺も、あの仕事を失った一人だ」
男は若い男を見た。
「どこの現場にいた?」
「北の水路だ。臨時で荷を運んでいた」
「昨日、船から消えた箱を見たか?」
若い男の顔が強張った。
その反応を見ても、男はすぐに問い詰めなかった。
「知っていることがあるなら、話してほしい。ただし、知らないことまで答える必要はない」
若い男は食堂の主人を見た。
主人は腕を組んでいたが、二人の会話に割り込む様子はなかった。
「ここでは話せない」
若い男は小声で言った。
「仕事を失っただけじゃない。俺は、昨日の荷のことで疑われている」
「誰に?」
「現場の責任者だ。箱がなくなった時間に、俺が船の反対側にいたと言っている。だから、俺が持ち出したんじゃないかと」
「実際は?」
「俺は綱を固定していた。船が岸壁にぶつかりそうになったとき、ほかの作業員と一緒に動いていたんだ。箱を持ち出す余裕なんてなかった」
「それを証明できる人間は?」
若い男は首を振った。
「全員が自分の仕事をしていた。俺がどこにいたか、ずっと見ていた人間はいない」
男は考え込んだ。
現場の責任者が、若い男を犯人だと決めたわけではない。疑っているだけなのかもしれない。
しかし、箱が消えた原因を調べるより先に、責任を負わせる相手を探している可能性もあった。
「昨日の仕事で、誰かに指示されたことはあるか?」
若い男はしばらく黙っていた。
「一つだけ、変なことがあった」
「何だ?」
「荷を船から降ろす前に、知らない男が来たんだ。責任者と話していて、そのあと俺たちに、箱を動かすときは他の荷と分けるようにと言った」
「その男の特徴は?」
「顔はよく覚えていない。帽子を深くかぶっていた。服は普通だったと思う」
「責任者は、その指示に従ったのか?」
「従った。ただ、箱を別にする理由は聞いていない」
男は直人と目を合わせた。
箱が消える前から、箱だけを別扱いにする指示が出ていた。
それは重要な情報だった。
だが、その男が箱を盗むつもりだったのか、正規の受け取り手に渡すために分けたのか、あるいは安全上の理由があったのかは分からない。
「その男は、箱を受け取る資格を持っていたのか?」
「知らない。資格を確認する人間とは別だったと思う」
若い男は声を落とした。
「ただ、責任者がそいつに敬語を使っていた。普段、現場に来る役所の人間に対する態度とは違った」
男はその言葉を記録した。
身分が高いのか、取引相手として重要なのか、あるいは個人的な事情があるのか。敬語だけでは判断できない。
「もう一つ聞きたい。昨日、箱を運ぶ指示をした人間は、どこへ行った?」
若い男は首を振った。
「分からない。でも、俺はその男が帰るところを見た。水門の北側じゃなく、古い橋のほうへ歩いていった」
「古い橋?」
「そうだ。橋を渡った先に、小さな倉庫街がある。俺たちは普段、あそこへ荷を運ばない」
男は地図を思い浮かべた。
以前、黒い服の男が示した場所とも、管理事務所で確認した旧番号の倉庫とも違う。
新しい場所が一つ増えた。
「そのことを責任者に話したか?」
「話していない。俺が何か知っていると分かったら、もっと疑われる」
男はうなずいた。
「分かった。今の話は、俺から勝手に広めない。ただし、君が疑われている以上、誰かに聞かれたときに、すべてを隠すのも危険だ。自分が実際に見たことと、推測を分けて話したほうがいい」
若い男は不安そうに尋ねた。
「それで、俺の疑いは晴れるのか?」
「約束はできない。でも、君が見たことを記録しておけば、あとから別の証言と照合できる」
男は一枚の紙を渡した。
そこには、今日の日付と、若い男が話した内容を簡潔にまとめてあった。
「間違っているところがあれば、直してくれ」
若い男は紙を読み、何かを書き足した。
「この男は、箱を運ぶ指示をしたあと、船に近づかなかった。俺が最後に見たときは、水門の外へ出ていた」
男はその一文を確認した。
箱を運ぶよう指示した人間と、実際に持ち去った人間が同じとは限らない。
だが、指示を出した人物が船の外へ移動していたなら、その後の動きを追う価値はある。
「ありがとう。君の名前を記録してもいいか?」
若い男はためらった。
「名前は、今は書かないでくれ。責任者に知られたら、仕事に戻れなくなるかもしれない」
「分かった。名前は記録しない」
男は紙から名前を書きかけた部分を消し、証言だけを残した。
食堂を出たあと、直人が言った。
「君は、彼の話を信じるのか?」
「全部を信じるわけじゃない。でも、全部を疑う理由もない」
「彼が自分に都合のいい部分だけを話している可能性は?」
「ある。だから、別の証言と照合する」
男は歩きながら続けた。
「重要なのは、彼が正しい人間かどうかじゃない。彼の話のどこが事実で、どこが推測なのかを分けることだ」
直人は納得したようにうなずいた。
二人は古い橋へ向かった。
橋の手前には、小さな修理店があり、荷車の車輪や滑車を直す職人が働いていた。男は店主に、昨日の夕方、帽子を深くかぶった男が通らなかったかと尋ねた。
店主は最初、覚えていないと答えた。
しかし、男が水門の事故について説明すると、思い出したように手を止めた。
「昨日、荷車の車輪を直してほしいと言ってきた男がいたな。帽子をかぶっていたかどうかは覚えていないが、急いでいた。修理を頼むだけ頼んで、代金も払わずに帰った」
「荷車は?」
「古い二輪車だ。右側の車輪が歪んでいた」
男は目を上げた。
以前、旧番号の倉庫の近くで、右側の車輪を修理した荷車が通ったという話を聞いていた。
同じ荷車だとは限らない。
だが、確認する価値はある。
「その荷車は、どちらへ向かいましたか?」
店主は橋の向こうを指した。
「倉庫街のほうだ。ただ、修理を終えたわけじゃない。車輪が歪んだまま走れば、途中で止まるだろう」
男は礼を言い、橋を渡った。
倉庫街は古い建物が並ぶ場所だった。使われている倉庫もあれば、扉が錆びつき、何年も開いていないように見える建物もある。
彼は道の両側を観察した。
荷車の轍は複数残っていた。どれが昨日のものなのかは分からない。
だが、通りの奥に、片側の車輪が歪んだ荷車が一台止まっていた。
荷台は空だった。
そばには誰もいない。
男は荷車に近づき、車輪を確認した。
修理店の店主が話していた状態とよく似ている。車輪の外側には、新しく削れたような跡があった。
しかし、これだけで水門の箱と結びつけることはできない。
彼は荷車の周囲を調べ、地面に残った木片を見つけた。
木片には、古い印の一部らしい線が刻まれていた。
男はしゃがみ込み、木片を拾おうとした。
その瞬間、背後から声がした。
「それに触るな」
男は手を止めた。
倉庫の陰から、一人の青年が姿を現した。
以前、市場で箱の許可に関する記号を見せた青年だった。
青年は男の手元を見てから、静かに言った。
「それは、箱から剥がれたものじゃない」
「なら、何だ?」
「箱を運ぶために使われた木枠の一部だ。荷物を固定するためのものだよ」
「なぜ、そんなことが分かる?」
青年は答えなかった。
男は木片から手を離した。
「君は、昨日の箱についてどこまで知っている?」
「箱が運ばれたこと。箱を受け取る資格が別に存在すること。そして、その資格を持っていても、実際に箱を受け取れるとは限らないこと」
「それだけか?」
「今、君に話せるのはそれだけだ」
青年は倉庫の奥を見た。
「一つ忠告しておく。箱を運ぶ指示を出した人間を見つけても、そいつが箱の持ち主だとは限らない。指示を出す人間と、権限を持つ人間と、利益を得る人間は、別々であることがある」
男はその言葉を聞き、これまでの情報を頭の中で並べ直した。
箱を分けて運ぶよう指示した男。
受領資格を停止した部署。
箱を持ち去った可能性のある人間。
そして、資格や記録を利用して利益を得ている者たち。
それぞれの関係は、まだ見えていない。
「君は、誰の側にいる?」
男が尋ねると、青年は少しだけ笑った。
「誰かの側にいると決めつけないほうがいい。俺にも、俺の都合がある」
「なら、なぜ俺に情報を渡す?」
「君が箱を探しているからだ。それ以上でも、それ以下でもない」
青年はそれだけ言い残し、倉庫の間へ消えた。
男は追わなかった。
今は、青年を追いかけるより、目の前の荷車を確かめるほうが重要だった。
彼は直人を呼び、荷車の位置と車輪の状態を記録した。
そして、二人で倉庫街を調べ始めた。
日が傾くまでに、少なくとも一つの事実を確かめる必要があった。
この荷車が、昨日の水門から箱を運んだものなのか。
もしそうなら、箱を持ち去った人間の足取りを追う手がかりになる。
もし違うなら、別の可能性を探す必要がある。
男は荷車の脇に立ち、歪んだ車輪を見つめた。
箱の行方は、まだ分からない。
だが、これまで記録の中にしかなかった人間の動きが、ようやく現実の痕跡として目の前に現れ始めていた。




