第181章 市場の西側
昼を過ぎると、市場の西側にある古い広場へ、荷運びの仕事を失った人間たちが集まり始めた。
彼らは大声で抗議しているわけではなかった。
仕事の再開を待つ者、仲介人を探す者、別の現場へ移ろうとする者。事情はそれぞれ違う。ただ、昨日まで受け取れていた仕事が、今朝になって突然なくなったという点だけは共通していた。
男は直人と並んで広場の端に立った。
「ここで話を聞くのか?」
直人が尋ねた。
「先に、誰が何を失ったのかを確かめる。昨日の箱が本当に原因なら、似た影響を受けた人間がほかにもいるはずだ」
男は広場を見回した。
一人の中年女性が、荷運び人らしい男と口論していた。
「保証金を返してほしいと言っているだけです。仕事が中止になったのは、私のせいではないでしょう」
「俺だって返したいんだ。だが、仲介人から金が戻ってこない」
「あなたは私から受け取ったでしょう」
「受け取った。だから、返すために探している」
二人とも声を荒らげていたが、互いに相手を騙そうとしているようには見えなかった。
女性は生活費の一部を保証金として預けていた。男は仕事を紹介する仲介人にその金を渡していた。仕事が止まり、仲介人と連絡が取れなくなったため、返金できなくなっている。
男が女性を騙したのか。
仲介人が最初から金を持ち逃げするつもりだったのか。
あるいは、仕事の停止によって資金が動かなくなっただけなのか。
現時点では、どれも断定できなかった。
男は口論が落ち着くのを待ってから、二人に声をかけた。
「昨日までの仕事について、少し聞いてもいいですか」
女性は警戒した目を向けた。
「役所の人ですか?」
「違います」
「では、仲介人の使いですか?」
「それも違います。今、何が起きているのかを調べています」
「調べて、どうするんです?」
男はすぐに答えられなかった。
仕事を再開させられると約束することはできない。保証金を取り戻せるとも言えない。
「まだ、どうすれば解決できるか分かっていません。ただ、何が原因なのかを知りたいんです」
女性は不満そうに口を閉じた。
それでも、男が無理に約束をしないことは伝わったらしい。
「昨日の仕事は、突然なくなりました。朝、いつもの仲介所へ行ったら、今日は荷を受け取れないと言われたんです。理由は資格の確認が終わっていないからだと」
「資格というのは、運ぶ側の資格ですか?」
「分かりません。私たちは、仕事を受けるときに渡された札を見せただけです」
女性は懐から小さな木札を取り出した。
表には番号が刻まれ、裏には円と二本の短い線が記されている。
男はすぐには手を伸ばさなかった。
「見せてもらってもいいですか?」
女性がうなずくと、彼は札を両側から確かめた。
以前、荷札や受領資格を示す金属片の周辺で見た記号と似ている。ただし、完全に同じではない。
「この札は、誰から受け取りましたか?」
「仲介所です。仕事を紹介してもらうときに、これを持っていれば現場に入れると言われました」
「仕事が止まったあと、返すように言われましたか?」
「いいえ。返せとも、使えるとも言われていません」
男は札の番号を記録した。
女性に礼を言い、木札を返す。
その番号が、旧番号の荷や資格の変更に関わるものなのかは分からない。しかし、仕事を受けるために必要な札が、仕事の停止後も回収されていないという事実は残った。
次に話を聞いたのは、若い荷運び人だった。
彼は三日分の仕事を失い、今日の食事代にも困っているという。
「資格が止まった理由なんて、俺たちには関係ない。運べと言われたものを運んで、決められた金を受け取る。それだけだ」
「もし、荷の中身に問題があったら?」
「開けるなと言われた荷は開けない。俺たちが勝手に開けたら、今度は俺たちが責任を取らされる」
「荷の行き先が途中で変わった場合は?」
若い男は、少し考えた。
「指示が書かれた紙を見せられることはある。だが、誰が変更したかまでは分からない。紙に印があれば、俺たちは従うしかないんだ」
「その印が間違っていたら?」
「そのときは、俺たちの責任になることもある」
彼は苦笑した。
「だから、危ない仕事を避ければいいと言う人もいる。でも、仕事を選べるほど金があるわけじゃない」
男はその言葉を記録した。
ここにいる人間たちは、同じ制度の下で働いていても、同じ選択肢を持っているわけではない。
仕事を断れる者もいれば、断れば今日の生活が成り立たなくなる者もいる。
それを利用する仲介人がいるかもしれない。
一方で、仲介人自身も、荷主や管理者からの指示に従わなければ仕事を失う立場なのかもしれない。
問題は、誰か一人を見つけて責任を押しつければ終わるものではなかった。
「何か分かったか?」
直人が尋ねた。
「少なくとも、箱が届かなかったことだけでは、今朝の仕事停止を説明できない」
「どうして?」
「箱を運んだことのない人間まで、仕事を失っている。それに、受領資格が止まったという話は、箱が消えたという話とは別の経路から伝わっている」
男は広場の奥を見た。
「箱を見つければ、誰かの目的が分かるかもしれない。でも、それで全員の仕事が戻るとは限らない」
直人は静かにうなずいた。
そのとき、広場の向こうから、昨日の倉庫にいた中年の男が現れた。
彼は周囲を確認し、二人を見つけると、手招きした。
「来たか。少し歩こう」
男は直人と目を合わせてから、相手についていった。
中年の男は市場の裏手にある、使われなくなった荷車置き場へ向かった。周囲には数台の壊れた荷車が残されているが、人の姿はほとんどない。
「ここなら話せる」
男は立ち止まった。
「昨日の箱を運んだのは、俺たちの班だ。船から降ろす荷を確認していた。だが、箱が消えたことを俺たちの責任にされるのは納得できない」
「箱が消えた瞬間を見た人間はいないんですか?」
「いない。少なくとも、正式な報告にはそう書かれている」
「正式な報告と、実際に見たことは違うんですか?」
中年の男は目を伏せた。
「一人だけ、箱を船から降ろしたあと、岸壁の端で誰かと話していた人間がいる。そいつは今朝から姿を見せていない」
「誰です?」
「荷の確認を手伝っていた臨時作業員だ。名前は分かるが、住所は知らない」
「名前を教えてください」
「その前に、一つ聞かせてくれ。お前は箱を探しているのか。それとも、箱を使って誰かを追い詰めたいのか?」
男は中年の男を見た。
「箱を探しています。ただ、箱を持ち去った人間が誰なのか分からない以上、最初から誰かを犯人だと決めるつもりはありません」
「箱を見つけたら、どうする?」
「まず、誰が何のために動かしたのかを確かめます。中身も分からないまま、誰かに渡すつもりはありません」
中年の男はしばらく黙っていた。
「俺たちにとっては、箱より仕事のほうが大事だ」
「分かっています」
「本当に分かっているのか?」
男はすぐに答えなかった。
自分が箱を追い続けることで、彼らの仕事がさらに止まる可能性はある。逆に、箱を放置すれば、それを利用する人間が別の場所で何かを起こすかもしれない。
どちらを選んでも、影響を受ける人間がいる。
「全員の生活を守れるとは言えません。でも、箱を探すことと、仕事を守ることが本当に両立できないのかは、まだ分かっていません」
中年の男は、少しだけ表情を緩めた。
「その答えを探すなら、臨時作業員の名前を教える。ただし、俺が教えたとは言うな」
男は名前を聞き、記録した。
「もう一つ。今朝、受領資格が止まったと話したな。あれは、どこからの指示だったんですか?」
「俺たちには分からない。だが、資格を確認する部署から直接来た通知ではなかった」
男は顔を上げた。
「どういうことです?」
「管理事務所を通して届いた。通知には、旧番号の荷を受け取る資格について、再確認が必要だと書かれていた。箱がなくなったから止めるとは、一言も書かれていない」
直人が口を挟んだ。
「では、箱の紛失と資格停止は、別々に決まった可能性がある?」
「そうだ。少なくとも、俺が見た通知には、箱の話はなかった」
男は考え込んだ。
箱が消えた。
その前後に、旧番号の荷を受け取る資格が止まった。
二つの出来事が同じ計画に属しているとすれば、誰かが箱の移動と資格停止を組み合わせていることになる。
しかし、別々の原因で起きたのなら、誰かが混乱に乗じて箱を持ち去った可能性もある。
現時点で、どちらとも断定できなかった。
「通知の写しはありますか?」
「ない。管理事務所へ戻ったはずだ」
「その通知を出した部署は?」
「旧番号を扱う専門部署だと聞いた。ただし、俺たちは直接連絡できない」
男は中年の男に礼を言った。
話せることは限られていたが、重要な違いが一つ見つかった。
箱の紛失を報告した経路と、資格停止の通知が届いた経路は別だった。
それなら、次に確かめるべきことも変わる。
管理事務所で古い記録を探すだけでは足りない。旧番号の資格を扱う部署が、いつ、どの理由で停止を決めたのかを確かめる必要がある。
二人が荷車置き場を出ようとしたとき、入口に一人の青年が立っていた。
青年は男を見ると、まっすぐ近づいてきた。
「あなたが、箱を探している人ですか?」
「そうだが、君は?」
「以前、あなたと会ったことがあります」
男は青年の顔を見た。
見覚えがある。
だが、すぐには思い出せなかった。
青年は周囲を確認してから、声を落とした。
「今は、長く話せません。ここに来たのも、予定していたわけじゃない」
「何の用だ?」
「あなたが探している箱について、少しだけ知っています」
青年は一枚の紙を取り出した。
そこには、旧番号でも新しい管理番号でもない、見慣れない記号が記されていた。
男は紙に触れず、記号を目で追った。
「これは何だ?」
「箱そのものを示す番号ではありません。箱を動かせる人間が、誰の許可を受けているかを示すものです」
「誰から、それを聞いた?」
「それは言えません」
青年は紙をしまった。
「ただ、一つだけ覚えておいてください。箱を持ち去った人間を探すなら、荷を運んだ人間だけを追っても見つかりません」
男は青年を見つめた。
「それは、昨日も聞いたような話だな」
青年はわずかに笑った。
「同じことを言っている人間が、同じ目的を持っているとは限りません」
そう言い残し、青年は市場の人混みへ消えていった。
男は追わなかった。
今は、相手の正体を確かめることよりも、手元に残った情報を整理するほうが重要だった。
箱を動かした人間。
箱を受け取れる資格を持つ人間。
その資格を停止できる人間。
そして、箱の移動を許可する人間。
四つの役割が、必ずしも同じ人物や組織に属しているとは限らない。
彼は直人に向き直った。
「次は、旧番号の専門部署だ」
「正面から行っても、相手にされない可能性が高い」
「だから、先に臨時作業員を探す。彼が箱を運んだとき、誰と話していたのかを確かめる。その情報があれば、専門部署へ行く理由も具体的になる」
直人はうなずいた。
「でも、仕事を失った人たちを放っておくわけにはいかないな」
「そうだ。箱を探すのと同時に、今朝の仕事停止が誰の判断で起きたのかも調べる」
男は市場のほうを振り返った。
人々はまだ、広場に残っていた。
彼らにとって、旧契約も管理番号も、未来の技術も関係ない。
必要なのは、今日の仕事と、明日の生活だ。
その現実を無視して箱だけを追えば、彼自身もまた、誰かの都合で動く人間になってしまう。
男は歩き始めた。
次に探すのは、消えた箱だけではない。
箱を動かすことができる人間と、その権限を利用して利益を得ている人間。
その二つを、今度こそ分けて見つけるために。




