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観客のいない世界  作者: 亀


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第180章 止められた朝

翌朝、水門へ向かう道は、いつもより静かだった。


荷車の数が少ない。


普段なら夜明け前から始まっている荷の積み替えも、岸壁の一角では止まっていた。作業員たちは集まって話していたが、誰も荷に手をつけようとしない。


男は少し離れた場所から、その様子を観察した。


昨日の紙片には、こう書かれていた。


――箱を探すなら、明日の仕事を止めるな。


箱を探すことが仕事を止めるのか。それとも、誰かが箱を理由に仕事を止めようとしているのか。


彼はまだ、その違いを判断できていなかった。


「来たのか」


背後から声がした。


振り返ると、昨日の水門で船の綱を回収していた若い作業員が立っていた。顔には疲労が残り、袖口には乾いた泥が付いている。


「昨日の箱について、何か分かったか?」


男が尋ねると、作業員は周囲を確かめた。


「分かったことならある。だが、あんたに話していいのか分からない」


「話したくないなら、無理に聞くつもりはない」


「そういう問題じゃないんだ」


作業員は唇を噛んだ。


「昨日の事故のあと、俺たちは荷の数を確認した。帳簿では全部そろっていた。でも、実際には一つ足りなかった」


「誰が帳簿を確認した?」


「現場の責任者だ。俺たちは指示どおりに数えただけだ」


「足りないと分かったあと、責任者は何をした?」


「報告した。それから、俺たち全員に口外するなと言った」


「理由は?」


「荷主との契約に関わるからだと」


作業員は一度言葉を切った。


「でも、今朝になって話が変わった。箱が見つからないなら、俺たちの確認が不十分だったことになるらしい」


男は岸壁のほうを見た。


作業員たちの前では、年配の責任者が二人の男と話していた。一人は役所の職員らしい服装で、もう一人は商人に近い格好をしている。


「昨日、荷を確認したとき、箱に何か特徴はあったか?」


「普通の木箱だった。側面に古い印があったけど、俺たちは中身を知らない」


「その印を見た人間は?」


「責任者と、受け取りの確認に来た人間だと思う」


「受け取りの確認?」


作業員はうなずいた。


「普通の荷とは別に、旧番号の荷を受け取る資格を確認する人間がいるんだ。昨日も一人来ていた。でも、そいつが箱を持ち去ったわけじゃない。俺たちが最後に数えたときには、まだ船にあった」


その証言が正しければ、箱が消えたのは最後の確認から船の荷を引き渡すまでの間だ。


ただし、作業員が見ていた範囲は限られている。船の反対側にいた人間の動きまでは分からない。


「その確認役は、今どこにいる?」


「知らない。今朝、責任者が探していたけど、見つからなかったらしい」


男は考え込んだ。


確認役が消えたのか。


単に別の現場へ移動しただけなのか。


あるいは、最初から昨日の箱を受け取るつもりだったのか。


「もう一つ、聞いていいか」


「何だ?」


「今朝、仕事が止まったのは、この箱が届かなかったからなのか?」


作業員は首を振った。


「それだけじゃない。昨日の夜、荷の受け取り資格を確認する仕組みそのものが一時停止されたんだ。理由は聞いていない」


男の目が細くなった。


箱の紛失と、受け取り資格の停止。


二つの出来事が同じ時間帯に起きている。


偶然の可能性は残る。しかし、少なくとも箱を見つけるだけでは、今朝の仕事が再開するとは限らなかった。


「停止を決めたのは誰だ?」


「俺たちには分からない。上から通知が来ただけだ」


作業員は苦い顔をした。


「俺たちは荷を運ぶだけだ。誰が資格を持っているかも、誰が止めたかも知らない。なのに、問題が起きたら責任だけは現場に来る」


男はすぐには答えなかった。


作業員の言葉には、怒りだけではなく、生活を失うことへの不安があった。


彼にとって重要なのは、箱の中身でも、古い契約の意味でもない。今日の仕事ができるかどうかだ。


男はそれを忘れないようにした。


「昨日の帳簿を、もう一度見られるか?」


「無理だ。責任者が回収した」


「写しは?」


「知らない」


作業員はしばらく迷ったあと、岸壁の端を指さした。


「ただ、昨日の荷の確認に立ち会った人間が、今朝もあそこにいる。荷の数を数えたのは俺たちだけじゃない」


指の先には、小さな倉庫があった。


扉の前には二人の男が立ち、出入りする人間を確認している。


男は作業員に礼を言い、すぐには倉庫へ向かわなかった。


正面から入ろうとすれば、誰何される可能性が高い。昨日の一件で自分の顔を覚えている者もいるだろう。


それに、今は負傷した手を自由に使えない。


無理に押し通るより、立ち会った人間が外へ出てくるのを待つほうがいい。


男は岸壁から少し離れた場所に移り、倉庫の出入口と周囲の通路を確認した。


そのとき、背後で荷車が急停止した。


車輪が石畳に擦れ、積まれていた木材が大きく傾く。


御者が手綱を引いたが、荷車は止まりきらなかった。


荷台の上から長い木材が一本滑り落ち、近くを歩いていた少年に向かって倒れていく。


男は考えるより先に動いていた。


少年の腕をつかみ、道の脇へ引き寄せる。


木材は二人のすぐ横に落ち、石畳を打って跳ねた。


少年は尻もちをついた。


「怪我はないか?」


少年は震えながら首を振った。


御者が駆け寄ってきた。


「すまない! 車輪が急に引っかかって……!」


男は少年を立たせ、倒れた木材から距離を取らせた。


荷車の片側の車輪が、石畳の継ぎ目に深くはまり込んでいた。荷台にはまだ何本もの木材が積まれている。無理に動かせば、残りも落ちる危険がある。


「押すな。先に荷を固定し直す」


男が言うと、御者は慌ててうなずいた。


近くの作業員が二人駆け寄り、縄を持ってきた。彼らが荷を固定している間、男は少年を安全な場所へ連れていった。


その途中、少年が小さな声で言った。


「兄ちゃん、さっきの人たち、あの車を待ってたんだ」


「どの人たちだ?」


少年は倉庫のほうを指した。


「黒い服の人。車が止まる前から、ずっと見てた」


男は倉庫を振り返った。


扉の前にいた二人のうち、一人がこちらを見ていた。


目が合った瞬間、その男は視線を外し、倉庫の中へ入っていった。


荷車の事故が意図的に起こされたとは限らない。車輪の故障は珍しくないし、少年の証言だけでは、黒い服の男たちが何をしていたのかも分からない。


それでも、今の状況で見過ごすべき情報ではなかった。


男は御者に車輪の状態を確認するよう頼み、少年を近くの店先へ送り届けた。


そして、倉庫へ戻ろうとしたときだった。


「そこまでだ」


前方から、二人の男が歩いてきた。


一人は昨日の修理場にいた男に似た体格だった。もう一人は背が高く、腰に短い棒を差している。


「ここは関係者以外、立ち入り禁止だ」


「入るつもりはない。昨日の荷の確認に立ち会った人間に話を聞きたいだけだ」


「聞く必要はない」


「必要があるかどうかは、話を聞いてから決める」


背の高い男が一歩近づいた。


「お前は、箱を探しているんだろう」


男は答えなかった。


「余計なことをすれば、箱だけじゃ済まなくなる」


「何が済まなくなる?」


「お前が関わっている連中のことだ」


男は相手の顔を見た。


自分と直人の関係を指しているのか。それとも、箱を保管している人物や、以前から協力している商人たちを知っているのか。


判断できない。


だが、ここで問い詰めれば、相手にこちらの関係者を探る時間を与えるかもしれなかった。


「脅しなら、相手を間違えている」


男は静かに言った。


「俺は、誰かの名前を出していない。あんたたちも、俺に何を知っているのか確認できていないはずだ」


二人の表情が変わった。


ほんのわずかだったが、反応はあった。


彼らは自分が何を知っているかを確かめに来たのだ。


ならば、少なくとも今この場で、彼らがすべてを把握しているわけではない。


男はそう判断した。


「帰れ。次は警告だけでは済まない」


背の高い男が言った。


男は一歩も引かなかった。


「ここで騒ぎを起こせば、止まっている荷の仕事がさらに遅れる。あんたたちがそれを望んでいないなら、俺を追い払うより、箱を見つける方法を考えたほうがいい」


二人は答えなかった。


その沈黙の向こうで、倉庫の扉が開いた。


中から出てきたのは、昨日の荷の確認に立ち会ったらしい中年の男だった。


彼は二人の間に立つと、背の高い男に短く告げた。


「もういい。ここでやり合うな」


それから、男のほうを向いた。


「話があるなら、昼過ぎに市場の西側へ来い。ただし、一人で来るな。誰かを連れてこい」


「どうしてだ?」


「お前が何を知っているか、俺には分からない。俺が何を知っているかも、お前には分からない。なら、互いに後ろを守れる人間がいたほうがいい」


中年の男は、それ以上説明しなかった。


二人の男を連れて倉庫へ戻っていく。


男はその背中を見送りながら、朝の出来事を整理した。


箱が消えた。


受領資格が停止された。


現場の人間に責任が押しつけられようとしている。


そして、箱を探す彼に対して、正体の分からない男たちが警告を与えた。


これらが一つの計画なのか、複数の思惑が重なった結果なのかは、まだ分からない。


ただ、相手の動きに合わせて調査を続けるだけでは、いつか選択肢を奪われる。


彼は直人と合流するため、あらかじめ決めていた場所へ向かった。


直人はすでに待っていた。


「どうだった?」


男は朝の出来事を伝えた。


直人は最後まで聞くと、しばらく考えてから言った。


「昼過ぎの約束、行くのか?」


「行く。ただし、相手が何を見せるかは分からない。俺たちが欲しい情報を持っている保証もない」


「罠の可能性は?」


「ある。だから、先にこちらの目的を決めておく」


男は指を一本ずつ折るようにして、必要なことを挙げた。


「箱を誰が持ち去ったのか。受領資格の停止を誰が決めたのか。そして、この二つが本当に関係しているのか」


「三つ目が一番重要かもしれないな」


直人は地図を広げた。


「箱が消えたことを理由に仕事が止められたのなら、箱を見つければ解決するかもしれない。でも、資格の停止が別の理由で行われたなら、箱を戻しても何も変わらない」


「その場合、箱を探している間に、仕事を失う人間だけが増える」


男は地図に目を落とした。


「だから、箱を追うのと同時に、仕事が止まる仕組みも確かめる。ただし、どちらか一方に引きずられないようにする」


直人はうなずいた。


昼過ぎまで、まだ時間がある。


二人はまず、止められた荷の仕事によって直接影響を受ける人間を確認することにした。荷主ではなく、実際に運搬や修理を請け負っている者たちだ。


彼らが何を失い、どこまで事情を知っているのか。


その答えによって、箱を探すことが誰の利益につながるのかも見えてくるかもしれない。


男は立ち上がった。


負傷した手は、まだ痛む。


それでも、今度は相手の用意した場所へ行き、用意された話を聞くだけでは終わらせない。


箱を探すこと。


人を守ること。


そして、自分の行動を他人に決めさせないこと。


三つを同時に成立させる方法を、彼自身が見つけなければならなかった。

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