第179章 奪われたものの行方
水門を離れたとき、日はすでに傾き始めていた。
男は歩きながら、何度も右手を握り直した。
掌の傷は、布の内側でじわじわと痛みを増している。水門で荷を支えた際、傷口が再び開いたのだろう。指を曲げるたびに、皮膚が引きつった。
急いで手当てをする必要がある。
そう分かっていても、頭から離れないものがあった。
船から消えた木箱。
水面下で動いた影。
そして、旧番号の荷を受け取るために、通常の許可とは別の資格が必要だという事実。
彼は水門を振り返った。
あの場で誰かを追いかけていたら、何かをつかめたかもしれない。しかし、船が岸壁に衝突しかけていた状況で、目の前の人間を見捨ててまで追うべきだったのか。
答えは出ていた。
問題は、相手がその判断を利用している可能性だった。
人を助けることと、相手の思惑どおりに動くことは、必ずしも同じではない。
彼は歩みを速めた。
直人と合流する前に、まず手当てを済ませるつもりだった。
ところが、いつもの薬屋へ向かう路地に入ったところで、道を塞ぐように立っている男が目に入った。
男は三十歳前後。商人とも役人ともつかない服装で、腰には小さな革袋を下げていた。
「少し、尋ねたいことがある」
男は彼の手を見た。
「水門で怪我をしたそうだな」
「誰から聞いた?」
「今は、そこが重要じゃない」
「俺にとっては重要だ」
男はわずかに眉を動かした。
「荷が一つ消えた。お前も見ていたはずだ」
「見たのは、船の事故と、荷の確認をしていた人間たちだ。誰が持ち去ったかは知らない」
「それで通すつもりか?」
「知らないことを知っているとは言えない」
男はしばらく彼を見つめたあと、声を落とした。
「消えたのは、ただの木箱じゃない。あれが予定の場所に届かなければ、明日から北側の水路で働く者たちの仕事が止まる」
男の言葉に、彼は目を細めた。
「どうして箱一つで、そんなことになる?」
「箱の中身を知りたいのか。それとも、仕事を失う人間を助けたいのか」
「その二つを、わざわざ分ける必要があるのか?」
「あるさ。箱を探すために動けば、仕事を失う人間を増やすことになるかもしれない」
男は革袋から一枚の紙を取り出した。
そこには、いくつかの荷番号と、明日の朝までに完了させるべき作業が書かれていた。末尾には、旧番号を示す記号と、受領資格を確認する者の署名欄がある。
署名欄は空白だった。
「この荷が届かなければ、関連する荷の受け取りも停止される。水門の作業員だけじゃない。運搬人、修理工、倉庫の人間まで影響を受ける」
「それを俺に話して、どうしたい?」
「消えた箱を探してほしい」
「なぜ俺なんだ」
「お前は、あの箱を見ていた。旧番号のことも調べている。少なくとも、無関係な人間よりは事情を知っている」
「事情を知っている人間なら、ほかにもいるはずだ」
「いるだろうな。だが、そいつらは自分の持っている情報を出そうとしない」
男は紙を差し出した。
彼は受け取らなかった。
「名前は?」
「今は言えない」
「所属は?」
「それも言えない」
「それで、俺には動けと言うのか」
「断っても構わない」
男は紙をしまった。
「ただし、明日の朝になれば、仕事を失った人間たちが動き始める。箱を奪った者を探すために、誰かを捕まえようとするかもしれない。お前が水門にいたことは、すでに何人かが知っている」
男はそれ以上説明せず、路地の向こうへ歩いていった。
彼は追わなかった。
相手が嘘をついている可能性はある。だが、話のすべてが嘘だとも限らない。
箱が消えたことで、誰かが損をする。
その損失を理由に人を動かし、動いた人間を別の誰かが利用する。
そういう構図なら、これまで見てきた出来事とも矛盾しなかった。
彼は薬屋で傷の手当てを受け、そのまま直人の待つ場所へ向かった。
直人は彼の手を見るなり、ため息をついた。
「また開いたのか」
「少しだけだ」
「その『少しだけ』を何回聞いたと思ってる」
直人は新しい布を取り出し、傷の状態を確かめた。深い傷ではないが、動かし続ければ治りが遅くなる。しばらくは重いものを持たず、無理に手を使わないようにと言われた。
彼は黙ってうなずいた。
それから、水門で起きたことと、路地で会った男の話を伝えた。
直人は最後まで聞いてから、机の上に地図を広げた。
「明日の朝までに箱が届かなければ、複数の仕事が止まる。相手はそう言ったんだな」
「ああ」
「本当なら、箱を奪った人間は、単に中身が欲しいだけじゃないのかもしれない。仕事を止めること自体に意味がある可能性もある」
「あるいは、箱が届かないことで困る人間に、誰かを探させたいのかもしれない」
「君を動かすために?」
「俺だけとは限らない。箱を欲しがっている人間も、仕事を失う人間も、みんな動かされる可能性がある」
直人は地図の北側に印をつけた。
「なら、箱を探す前に、明日止まる仕事が何なのかを確かめよう。箱が本当に必要なのか、箱が届かなくても仕事を続けられるのか。そこを分けて考えたほうがいい」
「そうだな」
彼は地図を見下ろした。
これまで彼は、荷物がどこへ運ばれ、誰が受け取り、どの資格で移動したのかを追ってきた。
しかし、荷物の流れを追うだけでは、荷物を動かす理由までは分からない。
そして、理由を知らないまま動けば、相手が用意した道を歩くことになる。
「一つ、気になることがある」
彼は水門で見た光景を思い出した。
「船から消えた箱は、事故の前から狙われていたのか。それとも、事故が起きたから持ち去られたのか」
「そこは分からない」
「なら、明日の朝まで待つのは危険かもしれない」
直人が顔を上げた。
「今夜、動くつもりか?」
「箱を探し回るつもりはない。まず、水門で荷の受け取りを担当していた人間に会う。事故の前後で、誰がどこにいたのか。それだけでも分かれば、次に何をするべきか判断できる」
「手を怪我しているのに?」
「戦うつもりはない。話を聞くだけだ」
直人はしばらく黙っていた。
「話を聞くだけで済むとは限らない」
「分かっている。だから、場所を選ぶ。相手が指定する場所には行かない。人目のあるところで、短時間だけ話す」
直人は地図にもう一つ印をつけた。
「水門の近くに、夜でも人がいる修理場がある。船の事故が起きたなら、明日の仕事に備えて修理に来る人間もいるはずだ」
「そこから始めよう」
二人は必要な準備だけを整えた。
箱の保管場所は変えない。記録類も持ち歩かない。連絡が途絶えた場合の待ち合わせ場所を決め、相手が複数いた場合には無理に追わない。
それは慎重さというより、失敗したときに失うものを限定するための手順だった。
夜が深くなる前に、二人は修理場へ向かった。
水門に近いその場所では、二人の職人が壊れた滑車を調べていた。奥には、事故を起こしかけた船のものと思われる綱が積まれている。
直人が少し離れた場所で待ち、彼が職人に声をかけた。
「今日の船の事故について、少し聞きたいことがあります」
年配の職人は、彼の包帯を見てから答えた。
「役所には話した。ほかに話すことはない」
「役所が聞かなかったことだけで構いません。事故の前後で、荷の数が変わったかどうかを知りたいんです」
職人の手が止まった。
「誰に聞いた?」
「荷が一つ消えたと聞きました」
「誰からだ」
「名前は聞いていません」
職人は工具を置き、周囲を見た。
「ここで話すことじゃない」
「では、どこなら話せますか」
「話すとは言っていない」
職人は奥の扉を開け、二人に背を向けた。
そのとき、修理場の外で足音がした。
一人ではない。
直人がこちらを見た。
彼は職人の背中から目を離さず、足音の間隔を聞いた。二人、いや、三人かもしれない。足音の一つは入口の前で止まり、残りは建物の脇へ回った。
職人の顔から血の気が引いた。
「帰れ」
「誰が来たんです?」
「いいから帰れ!」
怒鳴り声と同時に、入口の戸が開いた。
入ってきたのは、昼間に水門で見た作業員だった。
その作業員は彼を見つけると、驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに視線をそらし、年配の職人へ向き直った。
「受け取りの確認に来た。あの箱の件だ」
「もう説明したはずだ。箱はここにはない」
「なら、誰が持ち出した?」
「知らん」
作業員は一歩近づいた。
「知らないでは済まない。明日の仕事が止まるんだぞ」
「だからといって、俺に何ができる!」
二人の声が荒くなった。
彼は直人に目配せした。
この場に残れば、彼らの争いに巻き込まれる。だが、帰れば、今まさに起きていることを見失う。
彼が決める前に、建物の脇から別の男が入ってきた。
黒い袖。
背は高くない。
男は職人にも作業員にも声をかけず、修理場の奥に置かれた工具箱のそばへ歩いた。
そして、工具の陰に隠されていた小さな金属片を拾い上げた。
受領資格を示す金属片に似ていた。
男はそれを懐にしまい、出口へ向かった。
彼は反射的に動きかけた。
だが、負傷した手が痛み、足が止まる。
追えば、また何かを見失うかもしれない。
彼は一瞬だけ迷い、それから直人に低く告げた。
「入口の二人を見ていてくれ。俺は外へ出る。でも、追いかけない。顔と行き先だけ確認する」
直人がうなずいた。
彼は男より先に裏口から外へ出た。
建物の脇を抜けた男は、路地の角で一度だけ振り返った。
目が合った。
男は逃げなかった。
ただ、彼の包帯を見て、わずかに口元を歪めた。
「その手で、まだ追うのか」
「何を持っていった?」
「お前に関係のないものだ」
「なら、なぜ隠していた?」
男は答えず、路地の先へ歩き出した。
彼は距離を保ったまま後を追った。
二つ目の角を曲がったところで、男の姿が消えた。
代わりに、壁際に小さな紙片が落ちていた。
彼はすぐには拾わなかった。
周囲を確認し、誰も近くにいないことを確かめてから、傷のない左手で紙片をつまみ上げた。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
――箱を探すなら、明日の仕事を止めるな。
彼は紙片を見つめた。
脅しなのか。
忠告なのか。
それとも、彼に選択を迫るための誘導なのか。
どれも、まだ断定できなかった。
しかし、一つだけ確かなことがある。
誰かは、箱が消えたことを知っている。
そして、その箱を探すことと、明日の仕事を守ることが、同じ選択ではないように見せようとしている。
彼は紙片を記録用の袋に入れた。
箱を探すのをやめるつもりはない。
だが、箱を追うために、目の前の人間を犠牲にするつもりもなかった。
明日の朝までに、箱の行方を確かめる。
同時に、仕事が止まるという話が本当なのか、自分の目で確かめる。
その二つを、相手に決めさせないために。
彼は修理場へ戻った。
今度は、逃げるためではなく、次に何を守るべきかを決めるためだった。




