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観客のいない世界  作者: 亀


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第178章 水門の向こう側

翌朝、男は予定より早く宿を出た。


古い水門へ向かう前に、周囲の道を確認するためだった。


直人は管理事務所へ向かい、旧番号に関する承認記録を調べることになっている。男は水門の現場を確認し、危険があれば深入りせずに戻る。


二人の連絡方法も決めてあった。


一定の時間までに男から連絡がなければ、直人は管理事務所での調査を切り上げ、男が最後に伝えた場所へ向かう。ただし、無理に現場へ入ることはしない。


男は、傷の残る掌を軽く握った。


痛みはまだある。


以前なら、多少の危険を承知で走り出していたかもしれない。しかし、これまでの経験で、逃げ道を残すことも行動の一部だと分かってきた。


目的を果たすために、必ずしも最短距離を進む必要はない。


*


古い水門は、町の北側を流れる支流に設けられていた。


水路の一部はすでに新しい設備へ切り替えられているが、古い水門の周囲には石造りの管理小屋や、使われなくなった荷揚げ場が残っている。


男は、まず対岸から全体を確認した。


管理小屋の扉は閉じている。


水門の操作台には布がかけられ、通路の一部には立入制限を示す杭が置かれていた。


ただし、水路そのものが封鎖されているわけではない。


小型の荷船が一隻、下流へ向かって進んでいた。


男は、荷船の動きを見送ってから、水門へ続く道を歩いた。


途中にあった案内板には、数年前の管理権限変更について記載されていた。新しい水門設備の運用開始に伴い、旧設備の管理は別の機関へ移管されたという。


その一方で、旧水門を経由する一部の運送については、事前承認を受けた場合に限り利用できると書かれていた。


男は、案内板の内容を記録した。


直人が見つけた記録と一致している。


旧番号による運送は、単に管理の外へ逃れる仕組みではない。少なくとも、正式な手続きを通じて利用できる経路が残されている。


問題は、その承認を誰が出しているのかということだった。


男が管理小屋へ近づくと、扉の横に小さな受付窓があることに気づいた。


窓の下には、古い受付簿が置かれている。


男は中を覗き込んだ。


誰もいない。


しかし、受付簿の表紙は新しく、最近も使われているようだった。


そのとき、背後から声がした。


「何をしている?」


男が振り返ると、灰色の作業着を着た男が立っていた。


腰には工具袋を下げている。水門の保守作業員らしい。


「旧水門の運送手続きについて調べています」


「誰の依頼だ?」


「特定の業者から依頼されたわけではありません。旧番号を使った荷物の移動について、記録を確認しています」


作業員は、男の顔を見たあと、受付窓へ視線を向けた。


「ここは見学場所じゃない。許可のない者は入れない」


「分かりました。では、手続きについて説明してもらえる窓口を教えていただけませんか?」


作業員は少し意外そうな顔をした。


「管理事務所へ行け。ここで聞いても何も分からない」


「管理事務所では、旧番号の承認を出す機関が別にあると聞きました」


その瞬間、作業員の表情が変わった。


ほんのわずかな変化だったが、男は気づいた。


「誰から聞いた?」


「複数の記録を調べて分かったことです」


「余計なことを調べるな」


作業員は、それだけ言うと管理小屋の裏へ回った。


男は追いかけなかった。


相手が何を知っているのかは分からない。


ただ、旧番号の承認について触れたとき、反応が変わった。


その理由を確かめる必要がある。


男は受付簿をもう一度見た。


表紙には、管理番号と日付だけが記されている。


勝手に中を見ることはせず、受付窓の横に掲示されている連絡先を記録した。


そのとき、水路の上流から大きな音が響いた。


金属がぶつかるような音だった。


続いて、誰かが叫んだ。


「止めろ! そっちへ行かせるな!」


男は声の方向へ走り出した。


*


水門の下流側で、小型の荷船が岸壁へ衝突しかけていた。


船の進路を制御する綱が外れ、船体が水流に押されて岸へ近づいている。


岸壁には荷役作業員が数人いたが、船を引き戻すための綱が届かず、誰も手を出せないでいた。


船上では、操船していた男が必死に舵を切っている。


その後方には、木箱が積まれていた。


船体が傾くたび、箱が滑り、固定用の縄が少しずつ緩んでいく。


「綱を投げろ!」


岸壁の作業員が叫んだ。


別の男が綱を持って走ったが、船との距離が合わず、水面に落ちた。


男は周囲を見回した。


岸壁の端には、予備の綱が巻かれている。


しかし、船を正面から引けば、流れに押された船体が岸壁へ強くぶつかる可能性がある。


男は作業員に声をかけた。


「船首ではなく、後ろ側へ綱を回してください! 船を岸へ引き寄せるのではなく、まず向きを変えます!」


「お前、何が分かる!」


「今のまま引けば、船体が岸壁にぶつかります! 操船している人がいるなら、船尾を流れに向けてください!」


作業員は一瞬迷った。


その間にも、船は岸壁へ近づいている。


男は予備の綱を手に取り、岸壁の柱へ通した。


「この綱を使ってください! 固定する場所を変えれば、船の向きを調整できます!」


作業員たちは、ようやく動き始めた。


二人が綱を引き、もう一人が船上の操船者へ合図を送る。


男も綱を引いた。


掌の傷が開き、鋭い痛みが走った。


力を緩めれば、綱が滑る。


男は歯を食いしばり、傷のある手に負担をかけないよう、もう一方の手と体重を使って綱を引いた。


少しずつ、船首の向きが変わる。


船は岸壁へ衝突する寸前で進路を変え、下流側の広い水面へ流れ出した。


岸壁にいた作業員たちが、ようやく息をついた。


「船を止めろ! 下流の係留場所へ誘導しろ!」


指示が飛び交う。


男は綱を離し、傷のある掌を押さえた。


痛みが強くなっている。


それでも、船が安全な場所へ向かうのを見届けるまでは、その場を離れなかった。


*


荷船が係留場所へ着くと、作業員たちは積み荷の確認を始めた。


船上の木箱は一部が崩れ、金属部品が床に散らばっている。


その中に、男が以前から調べていた金属片に似たものがあった。


細長い板状の部品で、表面には短い線が刻まれている。


男が近づこうとしたとき、一人の作業員がそれを拾い上げた。


「これは別にしておけ」


作業員は金属片を布で包み、工具袋ではなく、腰の内側にある小さな袋へしまった。


男は、その動きを見逃さなかった。


「その金属片は、何に使うものですか?」


作業員は振り返った。


「荷物の一部だ」


「通常の金属部品とは扱いが違うように見えました」


「お前には関係ない」


男は、相手の腰にある袋を見た。


「それが受領資格を確認するためのものなら、荷物と一緒に保管しなくてもいいのですか?」


作業員の表情が硬くなった。


「誰からその話を聞いた?」


「記録を調べています」


「またそれか」


作業員は、周囲の人間に目配せした。


二人の作業員が男の前へ進み出た。


「これ以上、荷物に触れるな。管理責任者が来るまで、ここから離れろ」


男は、相手の指示に従って一歩下がった。


ここで争っても、金属片を確認できるとは限らない。


むしろ、相手が何を警戒しているのかを知ることができた。


金属片は、単なる積み荷の一部ではない可能性がある。


しかも、受領資格に関係するものなら、旧番号による運送ともつながっているかもしれない。


男は、作業員たちの顔と特徴を記録した。


そのとき、船上から別の声が聞こえた。


「荷物が一つ足りない!」


作業員たちが振り返った。


積み荷の数を確認していた男が、空になった木箱を指さしている。


「出発前には、確かに積んだ。どこへ行った?」


岸壁の周囲が騒がしくなった。


船の中にも、岸壁にも、木箱の姿はない。


男は、さきほど船が傾いた瞬間を思い出した。


箱が滑ったとき、固定用の縄が緩んでいた。


だが、船が岸壁へ衝突しかけたとき、箱が水中へ落ちた音は聞こえなかった。


もし箱が落ちていれば、誰かが気づいているはずだ。


男は、水面と岸壁の隙間を見た。


そこには、流れに逆らうように動く小さな波があった。


船の影に隠れる位置で、誰かが水中から岸へ上がろうとしている。


男が気づいた瞬間、黒い布に包まれた何かが岸壁の下へ引き込まれた。


「そっちだ!」


男は声を上げた。


作業員たちが一斉に振り向く。


しかし、岸壁の下には誰もいなかった。


水面だけが揺れていた。


*


騒ぎが落ち着いたあと、男は水門の管理小屋へ戻った。


先ほどの作業員は、まだ戻っていない。


受付窓の横には、管理事務所の連絡先が掲示されている。


男は、そこで働く別の職員に声をかけた。


「先ほどの船の事故について、記録を残すことはできますか?」


「船体に損傷があれば、正式な事故記録を作成します。ただ、荷物の紛失については、荷主側の確認も必要です」


「旧番号を使った運送については、どこへ問い合わせればいいのでしょうか?」


職員は、少し考えた。


「通常の運送許可とは別の承認が必要な荷物については、専門の担当窓口があります。ただし、担当者の名前や連絡先は、関係者以外には案内できません」


「では、関係者として問い合わせるには、何が必要ですか?」


「荷主、運送業者、または正当な利害関係を証明できる方である必要があります」


男は頷いた。


「分かりました。必要な手続きを確認します」


男は、受付窓の前を離れた。


今日の事故で、いくつかのことが分かった。


旧水門は、今も一部の運送に使われている。


通常の運送許可とは別の承認が必要な荷物が存在する。


そして、金属片に似た部品が、特別な扱いを受けていた。


一方で、木箱が一つ消えた理由は分からない。


誰かが船の事故に乗じて持ち去ったのか。


事故が起きる前から、箱を狙っていたのか。


あるいは、別の事情があるのか。


まだ判断できない。


男は、直人へ連絡を送った。


《水門で荷船の事故が起きた。旧番号を使った荷物の運送が実際に行われていることを確認した。金属片に似た部品もあったが、作業員が回収して、確認できなかった。さらに、積み荷の木箱が一つ消えた》


少しして、直人から返事が届いた。


《こちらでも、管理事務所で旧番号に関する承認記録を確認できた。ただし、承認を出す部署は現在の管理組織とは別になっている。詳しいことは、直接話したい》


男は、返事を読んで顔を上げた。


水門の向こうには、古い水路が続いている。


その先に、何があるのか。


箱の移動先なのか。


過去の契約に関する記録なのか。


それとも、誰かが隠している別の目的なのか。


男は、まだ何も知らない。


しかし、これまでの調査で見つけた印や番号が、実際の運送現場で使われていることは確認できた。


今度は、その承認を出している者たちを調べる必要がある。


そして、消えた木箱を探すことも、後回しにはできない。


男は、掌の包帯を締め直した。


傷は悪化している。


それでも、今日の出来事は、これまでの記録調査とは違う情報をもたらした。


誰かが何かを隠しているという推測だけではない。


荷物が動き、金属片が回収され、箱が消えた。


現実に起きた出来事が、次に調べるべき場所を示していた。

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