第177章 荷車の行き先
荷車は、市場の西側へ進んでいた。
男は、追跡していると気づかれないよう、一定の距離を保った。人通りの多い通りでは店先に目を向け、荷車が角を曲がると、少し遅れて同じ道へ入る。
掌の傷は、歩くたびにわずかに痛んだ。
走れば距離を詰められる。しかし、今の状態で無理をすれば、必要なときに動けなくなる。
男は急がなかった。
荷車は二度、通りを曲がった。
一度目は、古い市場から離れるための道だった。二度目は、運送業者の倉庫が集まる区域へ入る道だった。
そこには、荷車を修理する店や、積み荷を一時的に保管する小さな倉庫が並んでいる。
荷車を引く男は、途中で一度も立ち止まらなかった。
やがて、荷車は壁の高い建物の前で止まった。
入口には看板がない。
ただ、扉の横に小さな金属板が取り付けられていた。文字は削られているが、板の周囲には古い固定穴が残っている。
荷車を引いてきた男は、扉を三回叩いた。
内側から人が出てきた。
短いやり取りのあと、荷車は建物の中へ入っていった。
扉が閉まる。
男は、道の反対側にある修理店の前で足を止めた。
ここからでは、建物の内部は見えない。
無理に近づけば、さきほどの男に顔を覚えられる可能性がある。
男は、建物の位置と入口の特徴を記録し、周囲を確認した。
通りには荷車が何台も往来している。
この区域に荷物を運ぶこと自体は、不自然ではない。
問題は、看板もなく、管理者を示す表示もない建物に、なぜあの木箱が運び込まれたのかということだった。
男がその場を離れようとしたとき、建物の裏側から声が聞こえた。
「予定より早いな」
「市場で余計なことがあった。長く置いておくのは危険だ」
「箱は確認したのか?」
「外側だけだ。中身には触れていない」
男は足を止めた。
会話は短く、断片的だった。
箱の中身が何なのか、彼らが何を知っているのかは分からない。
ただ、運び込まれた箱が、単なる一般貨物ではない可能性は高まった。
男は建物の裏側へ回ろうとせず、修理店の店主に声をかけた。
「すみません。この近くで荷車を修理してもらえる場所を探しているのですが」
店主は、男の手を見た。
「自分の荷車か?」
「いえ、知人の荷車です。車輪の調子が悪いそうです」
「それなら、二本先の通りにある店へ行くといい。ここは金属部品の修理が中心だからな」
男は礼を言った。
「一つ聞いてもいいですか。あの建物は、何を扱っているところなのでしょうか?」
店主は、男が指さした方向を見た。
「知らないね。前からある建物だが、管理者が何度か変わったらしい。最近は荷車が出入りすることもある」
「どのような荷物ですか?」
「木箱や金属部品だ。珍しいものじゃない」
店主はそこで話を切り上げた。
男は、それ以上質問しなかった。
建物の管理者が変わったという話は、これまで調べてきた管理権限の変更と関係している可能性がある。
しかし、店主は詳しい事情を知らないのかもしれない。
知っていて話さないのかもしれない。
どちらなのかを判断する材料は、まだなかった。
*
男が市場へ戻ると、直人から連絡が届いていた。
《古い水門について、追加の記録が見つかった。管理権限が変更された後、一部の荷物については旧番号を使った移動が認められている。ただし、対象となる荷物の種類は限定されているらしい》
男は、すぐに返信した。
《対象となる荷物の種類は分かりますか?》
《まだ確認中だ。記録には、通常の運送許可とは別の承認が必要と書かれている》
男は、荷車が入っていった建物のことを伝えた。
直人からの返事は、すぐには来なかった。
男は、これまでの記録を並べて考えた。
古い管理番号。
受領資格を変更する印。
旧番号を使った荷物の移動。
そして、管理者の表示がない倉庫へ運ばれた木箱。
それぞれの関係は、まだ明らかではない。
しかし、古い水門と今回の建物が、同じ仕組みの中にある可能性はある。
男は、翌朝に予定していた水門の調査を、もう一度検討することにした。
相手から示された場所だから行くのではない。
直人の記録と、自分が確認した現場の情報を照らし合わせた結果、調べる必要があるかどうかを判断する。
そう考えていたとき、通りの向こうから一人の男が歩いてきた。
以前、男が箱を探していることを知りながら、詳しい事情を話そうとしなかった、黒い上着の仕事仲介人だった。
相手は男を見つけると、まっすぐ近づいてきた。
「ここで何をしている?」
「用事があって来ました」
「この区域に、何の用事だ?」
「あなたに説明する必要がありますか?」
仲介人は、わずかに眉を動かした。
「ないな。ただし、ここで何かを探しているなら、余計なことをしないほうがいい」
「余計なこととは?」
「お前が調べているものは、すべての人間に歓迎されるわけじゃない」
「それは以前にも聞きました」
「なら、覚えておけ」
仲介人は、男の横を通り過ぎようとした。
男は、相手を呼び止めた。
「この区域に、管理者の表示がない倉庫があります。あそこでは、旧番号を使った荷物の移動が行われている可能性があります」
仲介人の足が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、男は見逃さなかった。
「その倉庫を知っていますね?」
仲介人は振り返った。
「知っているかどうかと、お前に教えるかどうかは別だ」
「では、知っているのですね」
「言葉尻を取るな」
仲介人は声を低くした。
「お前は、荷物を追いかけることに夢中になっている。だが、荷物を動かす人間と、荷物を必要としている人間が同じとは限らない」
「その違いを知るために調べています」
「調べ方を間違えれば、何も分からないまま、誰かの都合のいい場所へ連れていかれる」
男は相手を見た。
「あなたは、私がどこへ誘導されていると思っているのですか?」
仲介人は答えなかった。
代わりに、一枚の紙を取り出した。
紙には、古い倉庫の番号が記されている。
男が市場の裏手で見た金属板の番号とは異なるが、書式には共通点があった。
「これは、過去に使われていた運送番号だ。現在の管理番号とは対応していない」
「どこで入手したのですか?」
「それを聞く必要はない」
「この番号の荷物は、今どこにあるのですか?」
「分からない」
男は、紙を見つめた。
「では、なぜ私に見せるのですか?」
仲介人は、しばらく黙っていた。
「お前が、何を調べているのか知りたいからだ」
「私の調査内容を知るために、情報を渡しているのですか?」
「そうだ」
相手は隠そうとしなかった。
「こちらも、何も知らないまま動くわけにはいかない」
男は、紙を受け取らなかった。
「私が調べていることを知りたいなら、あなた自身が知っていることも話してください」
「取引をするつもりか?」
「一方的に情報を渡すつもりはありません」
仲介人は、少しだけ笑った。
「前よりは、考えるようになったな」
男は、その言葉に反応しなかった。
相手が自分を評価しているのか、それとも単に情報を引き出そうとしているのかは分からない。
「明日の朝、古い水門へ行くつもりです」
男は、あえてそう伝えた。
仲介人の表情は変わらなかった。
「好きにしろ」
「何か問題がありますか?」
「行けば分かる」
仲介人は紙をしまい、歩き出した。
男は、追いかけなかった。
相手は、水門について知っている可能性がある。
しかし、行けば分かるという言葉は、忠告にも脅しにも、単なる情報提供にもなり得る。
男は、その意味を今すぐ決めなかった。
*
夜、男は直人と再び合流した。
直人は、新しく見つけた記録を机に広げた。
「水門の記録を調べていて、もう一つ分かったことがある」
「何ですか?」
「旧番号を使って移動する荷物は、通常の管理手続きから外れているわけじゃない。別の承認を受けている。ただし、その承認を出す組織が、現在の管理事務所とは違うらしい」
男は、すぐに尋ねた。
「その組織は、どこにありますか?」
「記録には名前がない。承認番号だけが残っている」
直人は、紙の一部を指した。
そこには、丸の中に二本の線が描かれていた。
男が今日見た印と、よく似ている。
「これも同じですか?」
「同じ形式に見える。ただし、細部が違う。印の種類が複数あるのかもしれない」
男は、倉庫で見た木箱のことを説明した。
荷車が運び込まれた建物。
新しい錠前。
剥がされた看板。
そして、箱の中身には触れていないという会話。
直人は、黙って聞いていた。
「明日、水門へ行くなら、先に確認しておきたいことがある」
「何ですか?」
「今まで見つけた箱は、いずれも過去の契約や管理権限に関係していた。だが、今回運ばれている箱が同じものだとは限らない。似た印が付いているからといって、箱の価値まで同じだと考えないほうがいい」
「分かっています」
「それと、相手がわざと情報を渡している可能性もある。お前が水門へ行くことを、誰かが利用するかもしれない」
男は頷いた。
「だから、明日は水門へ向かう前に、周囲の状況を確認します。必要なら、現場に入らずに戻ります」
直人は、少し考えたあとで言った。
「一人で行くのか?」
「現時点では、そのつもりです。ただ、何かあった場合に連絡できるようにしておきます」
「分かった。こちらでも別の記録を調べる。お前が水門にいる間に、管理事務所へ行って、旧番号の承認手続きについて確認してみる」
男は直人を見た。
「管理事務所が説明してくれるでしょうか?」
「分からない。ただ、こちらは正式な記録を確認する。現場で何かを見つけることとは別の方法で、同じ問題を調べられる」
男は頷いた。
二人で同じ場所を調べる必要はない。
別々の経路から確認できれば、片方が間違っていた場合にも気づきやすい。
男は、翌朝の準備を始めた。
必要な記録をまとめ、包帯を交換し、移動経路を確認する。
そして、箱を保管している場所については、直人に引き続き注意を払ってもらうことにした。
明日、水門に何があるのかは分からない。
箱そのものがあるのか。
古い契約の記録が残っているのか。
それとも、誰かが自分を待ち受けているだけなのか。
どの可能性も、まだ排除できなかった。
男は、灯りを消す前に、今日見た印をもう一度紙に描いた。
丸の中に二本の線。
同じように見える印が、複数の場所で使われている。
だが、それが一つの組織を示すのか、異なる権限を持つ者たちが共有している形式なのかは、まだ分からない。
男は紙を折り、記録の中にしまった。
明日は、印の意味を推測するのではなく、実際に何が承認され、誰がその承認を利用しているのかを確かめる。
そのために必要なら、これまでの調査方法も変える。
荷物を追うだけでは、荷物を動かす仕組みの全体像には届かない。
今度は、荷物が動くことを許している仕組みそのものへ近づく必要があった。




