第176章 市場の裏側
夜が明ける前に、男は直人と合流した。
直人は、男の話を最後まで聞いてから、二つの紙を机に置いた。
一枚目には、前日に確認した古い運送記録が写されている。二枚目には、直人が別の商人から得た、保証金と受領資格に関する記録がまとめられていた。
「昨日の件を聞いて、こちらでも調べ直した」
直人は二枚目を指で押さえた。
「保証金を返してもらえなかった作業員がいる。ただし、全員が同じ仲介人を使っていたわけじゃない。荷物を受け取れなかった人間もいれば、仕事そのものが途中で取り消された人間もいる」
「共通点は見つかりましたか?」
「一つだけ。問題が起きた仕事の中に、通常の依頼書とは別に、受け取り先を変更できることを示す書面が添えられていた例がある」
男は、丸の中に二本の線を描いた。
「この印は?」
直人は紙を見た。
「似ている。ただし、同じ印だとは断定できない。線の長さと、丸の切れ目が違う」
「別の印なのか、同じ権限を示す別形式なのか」
「そこまでは分からない」
男は頷いた。
昨日の調査で見つかった印と、直人が確認した記録の印は、完全には一致しない。
それでも、どちらも受け取り先の変更に関係している可能性がある。
「今日、古い市場で会う人物は、箱について話すと言っていました」
「その話を信じるのか?」
「信じるかどうかは、話を聞いてから決めます。ただ、昨日の作業員が襲われたことと、箱の話が関係している可能性はあります」
直人は、しばらく考えた。
「一つ確認しておきたい。相手が本当に箱について知っているなら、なぜ昨日の段階で話さなかったんだ?」
「話せなかったのか、話す必要がなかったのか。あるいは、私を別の場所へ誘導したかったのかもしれません」
「どれもあり得るな」
「ええ。だから、今日の話し合いでは、相手の説明だけでなく、相手が何を知っていて、何を知らないのかも確認します」
直人は、男の前に小さな包みを置いた。
中には、傷の手当てに使う布と薬が入っていた。
「掌の傷は?」
「まだ痛みます。ただ、動かせます」
「無理はするな。昨日のような状況になれば、以前と同じようには動けない」
男は包みを受け取った。
「分かっています」
「それと、箱の保管場所は確認しておいた。異常はなかった。今のところ、誰かがそこを探していると分かる痕跡もない」
男は、わずかに息を吐いた。
箱が無事であることは重要だった。
しかし、保管場所が安全だからといって、問題が解決したわけではない。
相手が箱の存在を知っているなら、保管場所そのものではなく、箱を探している人間を追っている可能性もある。
男は、今日の行動を整理した。
古い市場では、相手の話を聞く。
その場で何かを約束しない。
相手が場所を指定した場合も、理由を確認する。
そして、箱について具体的な情報が出たとしても、現在保管している箱と結びつける前に、別の記録と照合する。
「夕方までには戻ります」
男が言うと、直人は頷いた。
「何かあれば、すぐに連絡してくれ」
*
古い市場は、町の東側にあった。
かつては遠方から来た商人が集まり、金属製品や布、木材などを売買していた場所だ。今は新しい市場に客を奪われ、営業している店も少ない。
それでも、荷物を扱う業者や、古い道具を修理する職人は残っていた。
男が到着したとき、約束の時刻まで少し時間があった。
彼は市場を一周し、出入口の位置を確認した。
正面の通りは人が多い。
西側には荷車が通れる広い道があり、東側には人が一人ずつしか通れない細い路地が続いている。
市場の裏手には、使われなくなった倉庫が並んでいた。
男は、そこで足を止めた。
倉庫の一つに、新しい錠前が取り付けられている。
建物自体は古いが、入口の周囲だけが修繕されていた。
壁には、剥がされた札の跡が残っている。
男は近づきすぎず、入口の状態を確認した。
新しい錠前。
古い札の跡。
そして、地面に残る荷車の車輪の跡。
それだけでは、何かを隠している証拠にはならない。
市場では、古い倉庫を別の用途に使うことも珍しくない。
男は、建物の位置と外観を記録して、その場を離れた。
約束の時刻になると、濃い色の上着の男が市場の入口に現れた。
相手は男を見つけると、周囲を確認してから近づいてきた。
「来たな」
「約束しましたから」
「昨日の作業員は?」
「医者に運ばれました。容体はまだ確認できていません」
相手は、わずかに目を伏せた。
「そうか」
「あなたは、彼が襲われることを知っていたのですか?」
「知らなかった」
返事は早かった。
男は、相手の表情を観察した。
しかし、それだけで真偽を判断することはできない。
「では、なぜ昨日、彼が来られなくなったと分かったのですか?」
「約束の時間になっても来なかった。現場を見に行ったら、荷車が倒れていた」
「偶然ですか?」
「そう思うかどうかは、お前の自由だ」
相手は歩き出した。
男は、すぐにはついていかなかった。
「どこへ行くのですか?」
「話をする場所だ。人目がある場所では、聞かれたくない話もある」
「人目がある場所で話せることから、先に聞かせてください」
相手は足を止めた。
しばらく男を見ていたが、やがて近くの屋台を指した。
「何か食べるか?」
「話が終わってからにします」
相手は小さく息を吐いた。
「慎重なのは悪くない。ただ、慎重であることと、何も決められないことは違う」
「決めるためには、判断材料が必要です」
「その判断材料を渡すかどうかは、こちらが決める」
「では、私が受け取るかどうかは、私が決めます」
二人の間に、短い沈黙が生まれた。
相手は、それ以上議論せず、市場の裏手へ歩いていった。
男は、距離を保ちながら後を追った。
*
市場の裏手には、小さな修理工房があった。
店先には、壊れた荷車の車輪や、古い金具が並んでいる。店主は二人を見ると、濃い色の上着の男に軽く頭を下げた。
「奥を使う」
相手が言うと、店主は何も尋ねず、作業台の横にある戸を開けた。
奥は、物置を兼ねた小さな部屋だった。
窓は一つしかなく、外からは内部が見えにくい。
男は入口の位置と、窓の外に続く路地を確認してから入った。
相手は椅子に座り、懐から一枚の紙を取り出した。
「お前が探しているものは、単なる木箱ではない」
男は、紙には手を伸ばさなかった。
「どういう意味ですか?」
「古い箱の中には、過去の契約に関係する記録が残されている。箱そのものより、そこに記された情報を必要としている人間がいる」
男の表情が変わった。
過去の契約。
それは、これまで調べてきた記録ともつながる言葉だった。
「その情報を、あなたは知っているのですか?」
「一部だけだ」
「誰が必要としているのですか?」
「それを話すには、まず、お前がどこまで知っているかを確認する必要がある」
「質問に答える代わりに、私の情報を求めるのですか?」
「互いに何も知らないまま話しても、時間を無駄にするだけだ」
男は少し考えた。
相手がこちらの情報を求めている理由は分からない。
ただし、何も話さなければ、相手から得られる情報も限られる。
男は、話す範囲を決めた。
「私は、古い箱が過去の契約に関係していることを知っています。箱を保管していますが、開ける方法は分かっていません。それ以上のことは、確認できていません」
相手は、男の目を見た。
「箱は一つか?」
「その質問に答える必要はありません」
「なるほど」
相手は、少しだけ笑った。
「少なくとも、何も知らない人間ではないようだ」
「あなたは、何を知っているのですか?」
相手は、紙を男の前に置いた。
そこには、古い倉庫の番号と、いくつかの短い記号が書かれていた。
男は、その記号を見た。
以前に確認した古い管理区の記録に似ている。
しかし、完全には一致しない。
「これは何ですか?」
「ある荷物の移動記録だ。三日前に運ばれた木箱とは別のものだが、同じ形式の印が使われている」
「どこから入手したのですか?」
「それは話せない」
「記録が本物であることを、どうやって確認できますか?」
「確認する方法はある。ただし、今すぐには教えられない」
男は紙を見たまま、考えた。
相手は、箱について知っていると主張している。
だが、提示された情報だけでは、古い箱との関係は分からない。
番号が似ているだけなら、無関係な記録を持ち出している可能性もある。
「この記録を見せた目的は何ですか?」
「お前が探している箱と、今、運ばれている箱が、同じ仕組みの中にあるかもしれないと伝えるためだ」
「なぜ私に?」
「お前が、その仕組みを調べているからだ」
「それだけですか?」
相手は答えなかった。
男は、紙を元の位置へ戻した。
「この記録を確認できる場所を教えてください。自分で調べます」
「場所を教えれば、お前はそこへ行く」
「行くかどうかは、確認できる情報と危険性を見て判断します」
「そして、そこに何があるかを確かめる」
「そうです」
相手は椅子の背にもたれた。
「お前は、自分で確かめなければ納得しないらしい」
「確認できない情報を、事実として扱うつもりはありません」
「なら、これだけ教えてやる。記録に書かれた番号は、現在の管理番号ではない。古い権限が失効したあとも、荷物を追跡するために使われている」
男は、顔を上げた。
「古い権限が失効したあとも?」
「そうだ。正式な受け取り資格を失った荷物でも、別の仕組みで移動できる場合がある」
「誰が、その仕組みを使えるのですか?」
「全員ではない」
「あなたは使えますか?」
相手は、わずかに沈黙した。
「使える場合もある」
その答えは、明確ではなかった。
だが、少なくとも相手は、古い番号と現在の管理権限が別の仕組みであることを知っている。
男は、その点を記録した。
「最後に一つ聞きます。昨日の作業員が運んだ箱は、あなたが見せた記録に関係していますか?」
相手は紙を回収した。
「その可能性はある」
「確証はないのですね」
「今のところはな」
男は立ち上がった。
「分かりました。記録を確認できる場所を教えてください」
「場所は教えない」
「では、今日の話はここまでです」
男は入口へ向かった。
相手が、背後から声をかけた。
「待て。お前は、箱を探し続けるつもりか?」
男は振り返った。
「探しています」
「誰かが、お前に箱を集めさせようとしている可能性は考えたことがあるか?」
男は、すぐには答えなかった。
匿名の手紙。
古い記録へ導く断片的な情報。
そして、こちらの調査を知っているような人間たち。
誰かが意図的に道を作っている可能性は、すでに考えていた。
「考えたことはあります」
「それでも探すのか?」
「箱を集めさせたい人間がいることと、箱を探す必要があるかどうかは、別の問題です」
相手は黙った。
男は続けた。
「誰かが私を利用しようとしているなら、その目的を知る必要があります。ただ、利用される可能性があるからといって、調べること自体をやめる理由にはなりません」
相手は、しばらく男を見ていた。
やがて、懐から別の紙を取り出した。
「明日の朝、ここへ行け」
紙には、市場から北へ少し離れた場所にある古い水門の位置が記されていた。
「何があるのですか?」
「お前が確認したいものがある」
「それは、箱ですか?」
「箱そのものではない」
男は紙を受け取らなかった。
「そこへ行く前に、危険性を確認する方法を教えてください」
「そんなものはない」
「では、今は受け取れません」
相手は、紙を机に置いた。
「持っていくかどうかは、お前が決めろ」
男は、紙をそのままにして部屋を出た。
*
市場を離れたあと、男は直人へ連絡した。
相手が提示した記録の内容と、古い水門の場所を伝える。
直人は、しばらくしてから返事を送ってきた。
《その水門は、以前の運送記録にも出てくる。数年前に管理権限が変更されているが、完全に閉鎖されたわけではない。今も一部の業者が使っているらしい》
男は、すぐに次の質問を送った。
《古い箱に関係する記録はありますか?》
返事は、少し遅れて届いた。
《直接の記録は見つかっていない。ただし、管理番号の形式が古いものと一致する資料がある。明日までに詳しく調べる》
男は、画面を閉じた。
水門へ行くかどうかは、まだ決めていない。
相手が示した場所に、何かがある可能性はある。
同時に、昨日の作業員が襲われたことを考えれば、誰かがその場所を利用して人間を誘導している可能性もある。
男は、まず負傷した作業員の容体を確認することにした。
そのうえで、直人の調査結果を待つ。
相手が差し出した道を、そのまま進む必要はない。
自分が確認できる情報を集め、自分で進むかどうかを決める。
それが、今の男にできることだった。
しかし、帰り道の途中、男は一つの異変に気づいた。
朝、市場の裏手で見かけた、錠前の新しい倉庫。
その入口に、二人の男が立っていた。
一人は倉庫の扉を開け、もう一人は通りを警戒している。
扉の内側から、木材が床を擦る音が聞こえた。
男は、通りの反対側で足を止めた。
しばらくすると、倉庫から木箱が一つ運び出された。
箱には、古い布が巻かれている。
運び出した男は、箱を荷車に積み、布の端を何度も確かめていた。
男は、その手つきを見逃さなかった。
荷物を隠したいというより、箱に付けられた何かを見られたくないように見える。
荷車が動き出す。
男は、すぐには追わなかった。
まず、倉庫の入口と、残った男の位置を確認する。
荷車は市場の西側へ向かった。
倉庫に残った男は、しばらく周囲を見回したあと、扉を閉めた。
男は、歩き出した。
今度は、ただ荷物を追うのではない。
どの道を使うのか。
誰が荷車を待っているのか。
そして、運ばれる箱が、どこで別の荷物に変わるのか。
その三つを確認する。
男は、掌の痛みを感じながら、荷車との距離を保った。
箱を追うことは、誰かの計画に乗ることかもしれない。
それでも、何も知らないまま立ち止まるつもりはなかった。




