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観客のいない世界  作者: 亀


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第175章 選ばれた荷物

翌朝、男は直人と別れて行動した。


直人は、以前から付き合いのある商人を訪ね、古い運送記録の中に保証金や受領資格の変更が記された事例がないか調べる。


男は、昨日話を聞いた作業員たちとは別の人間を探すことにした。


仕事を失った者だけでなく、今も同じ仲介人から仕事を受けている者。


両方の話を比べなければ、何が変わり、誰が利益を得ているのかは見えてこない。


水路の近くにある荷役場で、男は荷車から木箱を降ろしている若い作業員に声をかけた。


「少し、仕事について聞いてもいいですか?」


「仕事を探しているのか?」


「それもあります。ただ、最近、荷物の受け取り先が変更されることがあると聞きました。実際にそういう仕事を受けたことはありますか?」


若い作業員は手を止めた。


「誰から聞いた?」


「何人かの作業員からです」


「だったら、その人たちに聞けばいい」


「同じ仕事でも、受けた人によって条件が違うかもしれません。あなた自身の経験を聞きたいのです」


若い作業員は男の手を見た。


掌の包帯に気づいたのか、少し警戒を緩めた。


「一度だけある。最初に聞いていた倉庫が使えなくなって、別の場所へ運ぶように言われた」


「報酬は変わりましたか?」


「増えた」


「なぜですか?」


「遠回りになったからだと言われた。俺はその説明を信じた。実際、運ぶ距離は長くなったからな」


「受け取り先では問題が起きましたか?」


「いや。普通に受け取ってもらえた」


男は記録を取りながら尋ねた。


「その仕事を紹介した人は、以前から知っている人ですか?」


「いや、初めてだった。でも紹介状を持っていた。仕事を紹介する権限がある人間だと、元締めが確認してくれたんだ」


「紹介状には、どんな印がありましたか?」


若い作業員は少し考えた。


「丸の中に線が二本あった気がする」


男の手が止まった。


昨日、別の作業員から聞いた特徴と一致している。


「その紹介状を見せてもらうことはできますか?」


「もう返した。仕事が終わったら回収する決まりだったから」


「紹介した人の名前は?」


「覚えていない。名前よりも、紹介状が有効かどうかのほうが重要だった」


男は、それ以上追及しなかった。


印が一致したことは手掛かりになる。


だが、それだけで昨日の紹介人と同じ組織だとは判断できない。


「ありがとうございました。助かりました」


男が離れようとしたとき、若い作業員が呼び止めた。


「待ってくれ。あんた、箱を探しているのか?」


男は振り返った。


「どうしてそう思ったのですか?」


「最近、古い箱を運ぶ仕事があったんだ。普通の荷物とは扱いが違った。受け取り先も、報酬を払う人間も、途中で変わった」


男は表情を変えなかった。


「いつのことですか?」


「三日前だ」


「箱はどこへ運ばれましたか?」


「それは分からない。途中で別の荷車に積み替えたからな」


「積み替えた場所は?」


若い作業員は、周囲を見回した。


近くでは、ほかの作業員が荷物を運んでいる。少し離れた場所には、管理事務所の職員が立っていた。


「ここでは話せない」


男は頷いた。


「では、話せる場所を指定してください。無理に聞き出すつもりはありません」


若い作業員は迷ったあと、荷役場の北側にある古い石橋を指した。


「今日の夕方、仕事が終わったらそこへ行く。来るなら一人で来てくれ」


「分かりました」


男は約束の時間を確認し、その場を離れた。


箱。


それが祖先の箱と同じものなのか、ただの木箱なのか、今の時点では分からない。


だが、これまで追ってきた荷物の流れとは別に、箱そのものを運ぶ仕事が存在していた可能性がある。


もし本当に古い箱なら、物流の管理権限だけを調べていても、必要な情報には届かない。


男は、直人へ連絡を送った。


《三日前に古い箱を運んだという作業員に会った。夕方、詳しい話を聞く予定だ》


直人から返事が届いた。


《箱の特徴を確認するまでは、こちらの箱と結びつけないほうがいい。会う場所も、周囲を確認してから接触してくれ》


男は了承した。


*


昼過ぎ、男は北の水路を離れ、以前に古い荷札の記録を見せてもらった商店を訪ねた。


店主は、男の顔を見るなり、奥から一冊の帳面を持ってきた。


「ちょうど、あんたに見せたいものがあった」


帳面には、過去に運ばれた金属部品や木箱の記録が残っていた。


店主は、あるページを開いた。


「三日前、ここに記録されている荷物の受け取り先が変更された。最初の届け先は北の水路沿いの倉庫だったが、途中で別の場所へ移されたらしい」


「変更を指示したのは誰ですか?」


「荷主からの指示だと聞いている。ただし、私が直接確認したわけではない」


「荷物の内容は?」


「古い木箱が一つ。それと、金属部品が入った箱が二つ」


男は記録を見た。


荷物の番号は、以前調べた番号とは異なっていた。


しかし、欄外に小さな印がある。


丸の中に、短い線が二本。


「この印は何を意味するのですか?」


店主は、帳面を覗き込んだ。


「受け取り先を変更できる人間が持っている印だと聞いたことがある。ただ、正式な管理権限を示すものなのか、単なる業者間の確認印なのか、私には分からない」


「この記録を作成した人は?」


「当時の帳簿係だ。もう店にはいない」


「連絡を取ることはできますか?」


店主は首を横に振った。


「何年も前に町を離れた。行き先も知らない」


男は、印の形と記録の日付を写し取った。


若い作業員の話と一致するものが、もう一つ見つかった。


だが、印が同じだからといって、荷物の運搬と受領資格の変更が同一の組織によって管理されているとは限らない。


男は帳面を閉じた。


「この木箱は、最終的にどこへ運ばれたのでしょうか?」


「記録には残っていない。受け取りの署名もない」


「荷物が届かなかったということですか?」


「そうとは限らない。別の帳簿に記録されたのかもしれないし、記録を残さない取引だったのかもしれない」


店主は、少し声を落とした。


「ただ、こういう記録が増えたのは最近のことだ。以前は、届け先を変更すれば、その理由と新しい受け取り先を帳面に書いていた。今は、変更の事実だけが残っていることがある」


男は礼を言って店を出た。


調査の方向が、少しずつ変わり始めていた。


管理権限の変更によって、荷物を受け取る資格が失われる。


その一方で、特定の印を持つ者は、受け取り先を変更できる可能性がある。


さらに、古い箱を運ぶ仕事では、荷物の移動先が記録に残らない場合がある。


それぞれが別の問題である可能性は残っている。


しかし、三つが重なるなら、偶然だけで説明できるとは限らない。


*


夕方、男は石橋へ向かった。


橋の周囲には人通りがあり、近くには小さな市場もある。逃げ道が一つしかない場所ではない。


男は橋の手前で立ち止まり、周囲を確認した。


若い作業員の姿は見えなかった。


約束の時刻を少し過ぎたころ、橋の向こうから一人の男が歩いてきた。


昨日、荷物の受領資格について話した、濃い色の上着の男だった。


男は足を止めた。


相手も、こちらを見ていた。


「あなたが来るとは思わなかった」


濃い色の上着の男が言った。


「私も、あなたが来るとは思っていませんでした」


「ここで待ち合わせをしたのか?」


「ええ。古い箱を運んだという作業員と会う約束でした」


相手の目が、わずかに動いた。


「誰から聞いた?」


「本人です」


「その人間は来ない」


「どうして分かるのですか?」


男は答えず、橋の下へ視線を向けた。


そこには、空の荷車が一台倒れていた。


車輪の片方が外れ、積み荷を固定するための縄が切れている。


男が橋の下へ近づこうとすると、濃い色の上着の男が腕を伸ばして制止した。


「近づくな」


「何があったのですか?」


「見れば分かる。罠だ」


男はすぐには動かなかった。


荷車の周囲には、争ったような跡がある。地面には靴跡が重なり、橋脚の近くには木箱の破片が散らばっていた。


そして、荷車の陰から、かすかな声が聞こえた。


「……助けてくれ」


人がいる。


男は、相手の腕を振りほどいた。


「待て。誰がいるか分からない」


「分からなくても、声が聞こえた以上、確認します」


男は慎重に橋の下へ降りた。


倒れた荷車の向こうに、若い作業員が横たわっていた。先ほど会った人物だった。


脚が車体の下敷きになっている。額から血が流れ、呼吸は浅い。


男は荷車の状態を確認した。


一人で持ち上げるには重すぎる。無理に動かせば、車体が傾いて、作業員の脚をさらに圧迫する可能性がある。


「聞こえますか。動かないでください」


作業員は苦しそうに頷いた。


男は周囲へ声を上げた。


「誰か、手を貸してください! 荷車の下に人がいます!」


市場の方向から、二人の男が駆け寄ってきた。


濃い色の上着の男も、橋の下へ降りてきた。


「車体を支える。お前は、車輪が外れた側に入るな」


相手は短く指示を出した。


男はその指示に従い、車体が傾かない位置から荷車の枠を支えた。


三人で慎重に持ち上げ、別の男が木片を差し込んで車体を固定する。


男は作業員の脚を引き抜いた。


作業員は痛みに顔を歪めたが、意識は保っていた。


市場の者が医者を呼びに走った。


男が作業員のそばに膝をついたとき、濃い色の上着の男が低い声で言った。


「ここから先は、私に任せろ」


「どういう意味ですか?」


「お前が探している箱について、話してやる。ただし、今ここで質問を続けるな」


男は相手を見た。


「この人を置いていくつもりはありません」


「置いていけとは言っていない。医者が来るまで、ここにいればいい」


「あなたは、なぜ彼がここにいると分かったのですか?」


濃い色の上着の男は、少しだけ沈黙した。


「約束した場所に、本人が来られなくなった。それだけだ」


「誰が彼を襲ったのですか?」


「それを知るためにも、ここで話を広げるな」


男は納得していなかった。


しかし、今は相手を問い詰めるより、負傷者の状態を確認するほうが先だった。


医者が到着すると、作業員は担架に乗せられた。


運ばれていく直前、作業員は男の袖をつかんだ。


「箱は……あの人たちが……」


「誰ですか?」


作業員は答えようとしたが、痛みに顔を歪め、言葉が途切れた。


医者は男の手を離させ、作業員を運んでいった。


残された男は、橋の下を見回した。


木箱の破片。


切られた縄。


外れた車輪。


そして、地面に残された複数の足跡。


事故と断定するには、不自然な点が多すぎる。


だが、誰が何のために作業員を襲ったのかは、まだ分からない。


濃い色の上着の男は、橋の上へ戻ろうとしていた。


男はその背中へ声をかけた。


「箱について、話すと言いましたね」


相手は振り返った。


「明日の朝、北の水路から離れた古い市場へ来い。人の多い場所だ。そこで話す」


「今日では駄目なのですか?」


「今日ここで話せば、お前は今夜、何をすべきか分からなくなる」


「それは、私にとって必要な情報ですか。それとも、あなたにとって都合のいい情報ですか?」


相手は答えなかった。


やがて、短く言った。


「それを判断するのは、お前だ」


男は、その言葉を記録した。


相手は橋を渡り、人混みの中へ消えていった。


男はすぐには追わなかった。


負傷した作業員が話そうとした内容。


荷車が倒れていた状況。


相手が現場に来た理由。


そして、古い箱について知っているという発言。


どれも、明日の話し合いまで保留にしてよい情報ではない。


男は直人へ連絡を送り、現場で起きたことを伝えた。


最後に、こう付け加えた。


《箱を運んだ作業員が襲われた。事故かどうかは分からない。明日は、古い市場で金属片について話した男と会う。ただし、相手の説明をそのまま信じるつもりはない》


返事が届くまで、男は橋の周囲を確認した。


地面に残された足跡のうち、いくつかは水路の方向へ続いていた。


別の足跡は、橋の反対側にある狭い路地へ向かっている。


男は、その二つの方向を見比べた。


今まで追っていたのは、荷物がどこへ運ばれたかという経路だった。


だが、今日の出来事で、別の可能性が浮かんだ。


箱を運ぶ仕事そのものが、誰かをおびき出すために使われているのかもしれない。


そして、誰かがその仕事を利用して、箱を探す人間を選別している可能性もある。


まだ、何一つ確定していない。


それでも、男は翌日の行動を変える必要があると判断した。


古い市場へ行く前に、負傷した作業員の容体を確認する。


直人には、箱を保管している場所の安全確認を頼む。


そして、自分は一人で行動する場合でも、退路と連絡手段を確保する。


男は、掌の痛みを確かめながら、ゆっくりと手を握った。


相手の思惑に乗るかどうかは、明日、話を聞いてから決めればいい。


少なくとも、今日のように、目の前で誰かが傷つく状況を、ただの調査対象として扱うつもりはなかった。

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