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観客のいない世界  作者: 亀


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第172章 取引の条件

男は、濃い色の上着を着た人物が消えた通りを、しばらく見つめていた。


追いかけることはできた。


しかし、相手は自分から接触してきた。ここで追跡すれば、相手が用意した場所へ誘導される可能性もある。


男は、まず直人のもとへ戻ることにした。


途中、何度か背後を確認した。


誰かが尾行していると断定できるような動きはなかった。それでも、人混みの中で同じ人物を見かけるたびに、歩く速度を変えて位置関係を確かめた。


疑い続ければ、誰もが怪しく見える。


だからこそ、目にした事実と、自分の推測を混同しないことが重要だった。


*


直人は、男の話を聞き終えると、すぐに尋ねた。


「相手は、なぜわざわざお前の前に現れたんだろうな」


「俺がどこまで知っているか、確かめたかったのかもしれない」


「それなら、脅すだけでなく、金属片について説明することもできたはずだ」


「説明すれば、俺が何を調べるべきか分かってしまう。反対に、何も説明しなければ、俺が勝手に動く可能性がある」


男は椅子に腰を下ろした。


「相手が何を望んでいるのか、まだ分からない」


直人は、机に広げていた記録を片づけた。


「それで、これからどうする?」


「こちらから条件を出す」


「条件?」


「相手は、ここでは話せないと言った。なら、話す場所と方法を決める。俺が一人で指定された場所へ行く必要はない」


直人は少し考えた。


「相手が応じると思うか?」


「分からない。ただ、何かを伝えるつもりがあるなら、応じる余地はある」


男は紙を一枚取り出し、短い文章を書いた。


《話をする意思があるなら、明日の昼、南門近くの公開茶店へ来てほしい。こちらも確認したいことがある。荷物や記録の持ち込みは求めない。》


男は紙を読み直した。


相手に何かを持ってこさせるつもりはない。金属片の返却を要求するつもりもなかった。


最初に確認すべきなのは、相手が何を知り、どの立場で動いているのかだ。


直人が尋ねた。


「これをどうやって渡す?」


「相手が昨日いた事務所へ行く。受付に預けることができなければ、無理に渡そうとはしない」


「また拒否されるかもしれないぞ」


「そのときは、別の方法を考える」


男は立ち上がった。


今回は、相手を追いかけるのではない。


自分が話せる場所を選び、相手が応じるかどうかを確かめる。


それだけでも、今までとは違う。


*


翌日の午前、男は運送業者の共同事務所を訪ねた。


受付には、前日と同じ担当者がいた。


男は、濃い色の上着を着た人物について尋ねた。


「昨日、こちらで話をした男性に、伝言をお願いできますか?」


担当者は警戒するように男を見た。


「どのような伝言ですか?」


男は紙を差し出した。


担当者は内容を確認したが、受け取ろうとはしなかった。


「その方が、ここに所属しているとは限りません」


「分かっています。伝言を受け取れるかどうかだけ、確認していただきたいのです」


「お約束はできません」


「それで構いません」


担当者は少し迷ったあと、紙を受け取った。


「お名前は?」


男は一瞬、言葉を止めた。


自分には、他人に伝えられる名前がない。


それを説明する必要はなかった。


「昨日、金属片について話をした者だと伝えてください」


担当者は男を見たが、それ以上は尋ねなかった。


男は礼を言い、事務所を出た。


*


昼前、男は南門近くの茶店へ向かった。


店は通りに面しており、客の出入りも多い。奥には小さな中庭があり、そこから別の通りへ抜けられる。


男は入口に近い席を選び、飲み物を注文した。


掌の傷は、まだ完全には治っていない。包帯の上から力を入れると痛みが走るため、今日は重い物を持つことも避けていた。


しばらく待っていると、濃い色の上着を着た男が現れた。


相手は店内を見渡し、男を見つけると、向かいの席へ座った。


「本当に来るとは思わなかった」


「話すことがあると言ったのは、お前だ」


「俺は、ここで話すとは言っていない」


「だから、こちらから場所を提案した。嫌なら来なければよかった」


相手は、わずかに笑った。


「確かに、そうだな」


男は、先に質問した。


「お前は何者だ?」


「運送に関わる仕事をしている」


「それだけか?」


「今のところ、それ以上を話す理由はない」


男は頷いた。


「なら、俺も探しているもののすべてを話す必要はないな」


相手は、男の顔を見た。


「お前は、古い番号を探している。箱に関係する記録も調べている。そこまでは分かっている」


男は表情を変えなかった。


相手が、どこからその情報を得たのか。


それが今、重要だった。


「誰から聞いた?」


「複数の場所で、お前のことが話題になっている」


「誰が話題にしている?」


「それを全部教えれば、俺が何を知っているかまで明かすことになる」


相手は、そこで言葉を切った。


「代わりに、こちらから条件を出したい」


「聞こう」


「これ以上、あの番号を探るのをやめろ。そうすれば、昨日の金属片について説明する」


男は、すぐには答えなかった。


取引としては、単純だった。


調査をやめれば情報を渡す。


しかし、相手が何を知っているのか分からない以上、その情報が調査をやめるほどの価値を持つとは限らない。


「その条件は受けられない」


相手の表情が固くなった。


「なぜだ?」


「お前が説明する内容を、俺はまだ知らない。価値も確かめられない。なのに、先に調査をやめろというのは、取引にならない」


「俺を信用できないということか?」


「信用するかどうか以前の問題だ。条件が釣り合っていない」


相手は、テーブルの上で指を組んだ。


「なら、どうすればいい?」


「まず、金属片が何なのか、分かる範囲で説明してくれ。俺が調べている番号と関係があるのか。お前がそれを持ち去った理由は何か。その二つだ」


「それを話せば、俺が危険になる」


「俺も、何も知らないまま調査を続ければ危険になる。お互いに、自分が抱えている問題があるということだ」


男は、相手の目を見た。


「全部を話せとは言っていない。お前が話せる範囲と、話せない範囲を分ければいい」


相手は黙り込んだ。


茶店の中では、客たちが普通に会話をしている。誰も二人のやり取りを気に留めていないようだった。


やがて、相手が口を開いた。


「昨日、俺が拾った金属片は、荷物の受領資格を確認するためのものだ」


男は、すぐに質問した。


「荷物そのものの番号とは違うのか?」


「違う。運送番号は荷物を識別するためのものだ。あの金属片は、特定の荷を受け取る資格があるかどうかを確認するために使われる」


「誰が発行する?」


「管理権限を持つ側だ」


男は、以前見た記録を思い出した。


旧管理区。


返却先のない権限。


契約終了後の接続閉鎖。


まだ同じ仕組みだとは断定できない。しかし、単なる運送番号よりも、箱に関する記録へ近づく情報だった。


「なぜ、あの荷物に付いていた?」


「本来、あの荷物は通常の受領手続きを通るはずだった。だが、受領資格が変更されていた」


「誰が変更した?」


「それは知らない」


「なら、なぜ金属片を持ち去った?」


相手は、少し視線を落とした。


「その金属片が、どこへ戻されるのか確認する必要があった」


「誰のために?」


「それは話せない」


男は、そこで質問を止めた。


今の説明で、すべてが分かったわけではない。


金属片が受領資格を確認するためのものだという話も、相手の説明に過ぎない。実際に、そのような用途があるのかは別の方法で確認する必要がある。


しかし、調べるべき対象は変わった。


運送番号の変更だけではない。


荷物を受け取る資格そのものが、どこかで変更されている可能性がある。


「一つ、こちらからも提案がある」


男は言った。


「俺は、調査をやめない。だが、お前が金属片の用途について知っていることを、今後も少しずつ教えてくれるなら、こちらも確認できた事実を共有する」


「俺に何の得がある?」


「お前が金属片の行き先を確認したいなら、俺が調べている記録の中に、役立つ情報があるかもしれない。逆に、俺もお前の知っていることを必要としている」


相手は、しばらく考えた。


「俺が教えた情報を、他人に渡さないと約束できるか?」


「約束できない。誰に何を共有する必要があるかは、内容を確認してから決める。お前が秘密にしたいことがあるなら、最初にそう言えばいい」


相手は、男を見つめた。


「ずいぶん正直だな」


「できない約束をしても、後で困るだけだ」


相手は、短く息を吐いた。


「分かった。次に何か分かったら、ここで会おう。ただし、俺から連絡できない場合もある」


「その場合は、こちらから探し回らない。お前が来るまで待つこともしない」


「それでいい」


二人は、それ以上の約束をしなかった。


相手が本当に協力するつもりなのか、それとも男の調査を監視するために接触してきたのかは、まだ分からない。


それでも、互いに何を求めているのか、最低限の条件は確認できた。


*


茶店を出たあと、男は直人のもとへ戻った。


「受領資格を確認する金属片か」


直人は、話を聞いて眉を寄せた。


「それなら、運送番号とは別の管理制度があることになるな」


「そうだ。ただし、まだ相手の説明しかない。実物の確認もできていない」


「次は、その制度を使っている人間を探すのか?」


「まずは、受領資格が変更された荷物について、正式な記録が残っていないか確認する。もし制度が実在するなら、発行や変更に関わる手続きがあるはずだ」


直人は頷いた。


「箱の記録とつながる可能性は?」


「ある。でも、まだ同じものだと決めつけない」


男は、今日の会話を記録した。


相手が話したこと。


話さなかったこと。


そして、自分が確かめる必要のあること。


その三つを分けて書いた。


彼は、相手を味方だとは考えていない。


しかし、敵だと決めつける理由もなかった。


互いの利益が一致する部分があるなら、そこでは協力できる。


利益が衝突する部分では、距離を取ればいい。


問題は、相手の言葉を信じるかどうかだけではない。


どこまでなら情報を共有できるのか。どこから先は自分で確認しなければならないのか。


その境界を、自分で決めることだった。


男は記録を閉じた。


明日からは、運送番号ではなく、受領資格の変更に関する手続きを調べる。


それが箱に関係するものなのか、別の管理制度なのか。


答えは、まだ出ていない。


だが、少なくとも、調査の対象は一段階先へ進んだ。

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