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観客のいない世界  作者: 亀


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第171章 奪われた金属片

男は、路地へ消えた人物を追わなかった。


今の掌では、相手に追いついたところで十分に対応できる保証がない。負傷者を助けた直後に、別の危険へ飛び込む必要もなかった。


代わりに、荷車のそばにいた中年の男へ近づいた。


「先ほど、荷物から何かを拾った人物がいましたね」


中年の男は、警戒するように男を見た。


「それがどうした?」


「何を拾ったのか、確認したいのです」


「荷物のことなら、私が責任を持って処理する。あんたには関係ない」


「分かりました。ただ、あの人物が何かを拾ったあと、あなたに話しかけていました。以前から知っている方ですか?」


中年の男は答えなかった。


男は、質問を変えた。


「この荷物は、どこから運んできたのですか?」


「倉庫からだ」


「どこの倉庫ですか?」


「いちいち答える必要はないだろう」


中年の男は荷車の壊れた部分を確認し始めた。


男は、それ以上問い詰めなかった。


相手が荷主なのか、運送業者なのか、それとも別の立場なのかも、まだ分からない。


ただ一つ、先ほどの人物が拾った金属片を、周囲に知らせず持ち去ったことは確かだった。


男は、荷車に残された荷札を見た。


そこには通常の運送番号と、短い補助番号が記されている。


だが、補助番号の一部は、荷車が倒れた際に泥で汚れていた。


男は、番号を記憶し、直人に伝えるための紙へ書き留めた。


*


直人のところへ戻ると、男は負傷者の救助から金属片を持ち去った人物まで、順番に説明した。


直人は、紙に書かれた番号を見た。


「この番号が、さっきの金属片と関係しているのか?」


「分からない。ただ、同じ荷物に関係する番号だから、比較する価値はある」


「金属片を持ち去った人物の顔は?」


男は、覚えている特徴を説明した。


年齢は三十歳前後。背は平均より少し高く、右足をわずかに引きずるように歩いていた。濃い色の上着を着ており、左手の甲に古い傷があった。


直人は記録を取った。


「この特徴だけで探すのは難しいな」


「そうだな。だから、まず荷主を調べる」


男は、荷車のそばにいた中年の男についても説明した。


直人は少し考えたあと、古い運送記録を取り出した。


「似た番号の記録なら、いくつかある。ただ、今回の荷物と同じだとは言えない」


「それでもいい。番号の形式が同じなら、運送経路を比較できるかもしれない」


二人は記録を並べた。


古い記録には、荷物を引き渡した場所、運送を担当した人物、受領先が記されていた。しかし、補助番号の欄は空白になっているものが多い。


「この記録を残した人は、何のために番号を分けていたんだろうな」


直人が言った。


「運送番号だけでは管理できない情報があったのかもしれない」


「例えば?」


「管理権限、受領資格、あるいは特定の場所へ入るための許可。今の段階では、どれか一つに決められない」


男は、箱に関する記録を取り出しかけて、やめた。


箱の記録に出てくる権限と、今回の金属片に刻まれた番号が関係しているかどうかは、まだ確認できていない。


似ているからといって、同じ仕組みだと決めつければ、調査の方向を誤る。


「明日、荷主を探してみる」


男が言うと、直人は頷いた。


「一人で行くのか?」


「話を聞くだけなら、一人でもできる。ただ、相手が警戒しているなら、無理に接触するつもりはない」


「掌の傷も、まだ治っていない」


「分かっている」


男は包帯を巻き直した。


傷口は塞がりかけていたが、力を入れると痛みが戻る。無理をすれば、また開く可能性がある。


今の自分に必要なのは、何でも自分で解決しようとすることではない。


どこまでなら自分で動けるのかを把握し、必要なところでは他人の力を借りることだった。


*


翌朝、男は荷車が倒れた場所へ戻った。


周辺の商店で聞き込みをすると、中年の男は定期的にこの地域へ荷物を運んでいることが分かった。


ただし、本人の名前や所属を知る者は少なかった。


「いつも別の人間が荷を運んでいるんだ。荷主も、そのときによって違う」


商店の主人はそう説明した。


「昨日の荷車は、どこから来たのか分かりますか?」


「北側の倉庫からだと聞いたよ。でも、あの辺りには倉庫がいくつもあるからね」


男は礼を言い、北側へ向かった。


途中、昨日の事故を見ていた作業員に出会った。


男が荷主について尋ねると、作業員は少し考えたあと、ある建物を指さした。


「確か、あの事務所で受領の手続きをしていたはずだ」


建物は、運送業者の共同事務所だった。


入口には数人の人間が出入りしている。男は受付で用件を説明したが、担当者はすぐには対応しなかった。


「昨日の荷物について確認したいのですが」


「荷主の方ですか?」


「違います。荷物を運んでいた現場で、事故に遭遇しました。荷物に関する番号を確認したいのです」


「事故の報告なら、別の窓口になります」


「事故の責任を追及するためではありません。荷物に付いていた番号について、確認したいことがあります」


担当者は男を見た。


「その番号を、なぜあなたが調べているのですか?」


男は、答えを選んだ。


「以前、似た番号の荷物を運んだことがあります。その荷物は受領を拒否され、行き先が変更されました。昨日の荷物にも似た形式の番号があったので、関係があるか確かめたいのです」


担当者はしばらく考えたあと、奥へ引っ込んだ。


数分後、一人の男が出てきた。


昨日、荷車のそばにいた中年の男だった。


男は、相手の顔を見た瞬間に気づいた。


中年の男も、こちらを覚えていたらしい。


「またあんたか」


「昨日の荷物について、少し確認したいことがあります」


「話すことはない」


中年の男は受付の担当者へ目を向けた。


「この人間を帰してくれ。仕事の邪魔だ」


担当者は困ったように男と中年の男を見比べた。


男は、すぐには引き下がらなかった。


「一つだけ聞かせてください。昨日、荷物から金属片を拾った人物を知っていますか?」


中年の男の顔から、わずかに表情が消えた。


「何の話だ?」


「荷車が倒れたとき、荷物のそばにいた人物です。彼は金属片を拾い、あなたに何かを伝えていました」


「見間違いだ」


「そうですか」


男は、相手の反応を観察した。


否定はしたが、驚いた様子はなかった。


金属片を持ち去った人物を知らないのか。それとも、知っているからこそ話したくないのか。


今の反応だけでは判断できない。


「では、別のことを聞きます。昨日の荷物は、どこへ運ぶ予定だったのですか?」


「答える必要はない」


中年の男は、今度こそ背を向けた。


男は追わなかった。


代わりに受付の担当者へ向き直った。


「正式な手続きで、荷物の受領先を確認する方法はありますか?」


担当者は困った顔をした。


「荷主か、正式な運送担当者でなければ難しいです」


「分かりました。手続きの説明をありがとうございました」


男は礼を言って事務所を出た。


扉を閉める直前、中年の男が奥の廊下へ向かう姿が見えた。


その先には、一般の受付からは見えない部屋があった。


*


建物を離れた男は、少し先の角で足を止めた。


中年の男が、自分の質問を警戒していることは分かった。


しかし、金属片を拾った人物との関係は、まだ不明だった。


男は、直人に報告するため、見たことを整理した。


荷主は、正式な窓口を通じて確認できる立場にある。


一方、金属片を持ち去った人物は、荷主と直接会話していた。


その人物が運送業者なのか、管理権限を持つ者なのか、あるいは別の組織に属しているのかは分からない。


それでも、昨日までとは違うことが一つあった。


今までは、古い番号や管理記録を追い、その先にいる人間を探していた。


今回は、目の前で起きた事故から、実際に荷物を扱っている人間へ接触できた。


相手が何を隠しているかを推測するだけでは、先へ進めない。


必要なのは、相手が何を知り、どのような立場で動いているのかを、一つずつ確かめることだ。


男は、通りを歩き始めた。


そのとき、背後から足音が近づいた。


振り返ると、濃い色の上着を着た男が立っていた。


右足をわずかに引きずり、左手の甲には古い傷がある。


昨日、金属片を持ち去った人物だった。


男は、反射的に周囲を確認した。


通りには人がいる。すぐ近くに店もある。


逃げ道は一つではない。


相手は、男の掌に巻かれた包帯を見てから、静かに言った。


「昨日のことを、どこまで話した?」


男は答えなかった。


相手は一歩近づいた。


「余計なことを調べるのはやめておけ。次は、あの荷車の事故だけでは済まない」


男は、相手の目を見た。


「昨日の金属片は、何だったんだ?」


相手の表情が変わった。


その変化を見て、男は確信した。


少なくとも、質問は相手の知らないことではなかった。


「答えろ」


男が続けると、相手は短く息を吐いた。


「それを知れば、今までのように荷物を運ぶだけでは済まなくなる」


「もう、そうなっている」


男は言った。


「俺が何を調べているのか、お前たちは知っている。なら、俺が何も知らないまま引き下がると思うな」


相手はしばらく男を見つめていた。


やがて、視線を男の背後へ移した。


「……ここでは話せない」


そう言い残し、相手は人混みの中へ歩き出した。


今度は、男も追わなかった。


相手は金属片について何かを知っている。


そして、話すことを拒みながらも、完全に関係を断とうとはしなかった。


それが罠なのか、警告なのか、それとも取引の始まりなのか。


男には、まだ分からなかった。


だが、次に接触する機会があれば、相手が何を差し出せるのかだけでなく、何を恐れているのかも確かめる必要がある。


男は、掌の包帯を押さえた。


調査は、記録を読むだけの段階を越え始めていた。

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