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観客のいない世界  作者: 亀


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第十七章 触れてみたい世界

雨が上がった。


 青年たちは町の外れにある古い道路を歩いていた。


 昨夜まで降っていた雨で、道のところどころに水たまりが残っている。


 直人がその一つを避けた。


「南に行くって言ってましたけど、どこまで行くんですか?」


 青年は地図を見た。


「分からない」


「また?」


「目的地が決まっているわけじゃない」


 黒服の男が後ろから言った。


「だったら、俺は東へ行く」


 青年が振り返る。


「別行動するのか?」


「そのうち」


「今じゃないのか?」


「今は同じ方向だからな」


 黒服の男はそう言った。


 直人が二人を見る。


「じゃあ、今は一緒なんですね」


「そういうことになる」


「いつまで?」


「知らない」


 それ以上、誰も何も言わなかった。


 未来の画面には、その会話がそのまま映っていた。


 観測者数は、以前よりさらに増えている。


 しかし。


 今度は、数字だけではなかった。


 新しい項目が追加されていた。


 ――直接接触希望者。


 数字は、増え続けていた。


「一万を超えました」


 部下が報告する。


 女性は画面を見る。


「接触希望の内容を分類して」


「すでに分類しています」


 画面に項目が並んだ。


 過去の街を歩きたい。


 当時の食事を食べたい。


 歴史上の人間と会話したい。


 当時の自然を体験したい。


 雨に触れたい。


 自分の目で見たい。


 記録されていない日常を知りたい。


 女性は最後の項目を見た。


「記録されていない日常?」


「はい」


「具体的には?」


「歴史資料に残っていない普通の生活です」


「例えば?」


「朝、何を食べたか」


「誰と話したか」


「どんな店に入ったか」


「仕事から帰って何をしたか」


「誰にも知られずに終わった一日」


 女性は黙った。


「それを見たい人がいる?」


「かなりいます」


「歴史資料には残っていないのに?」


「だから見たいそうです」


 彼女は画面を閉じた。


 少し前まで。


 彼女たちは、記録されているものを価値あるものとして扱っていた。


 事件。


 人物。


 戦争。


 発明。


 政治。


 大きな変化。


 後世に残ったもの。


 しかし。


 観測者が求め始めているのは。


 その逆だった。


 誰にも記録されなかったもの。


 歴史に名前が残らなかった人間。


 重要ではないと判断された一日。


 それらを。


 実際に見てみたい。


「接触型観測を試験的に許可することはできる?」


 部下が驚いた。


「このプロジェクトで?」


「まだ決定ではない」


「規約上、かなり難しいです」


「知ってる」


「干渉リスクがあります」


「それも知ってる」


「過去の人間に直接接触すれば、行動が変わる可能性があります」


「それも」


 女性はそこで言葉を止めた。


 そして。


「だから、難しい」


 と続けた。


 やりたいから実行する。


 そんな単純な話ではない。


 過去の人間に触れるということは。


 観測者が、観測対象の人生に入るということだ。


 今までとは違う。


 見るだけではない。


 触れる。


 話す。


 歩く。


 食べる。


 場合によっては。


 選択そのものを変えてしまう。


「試験的に、非接触型の体験を作る方法は?」


 部下が答えた。


「あります」


「どんなもの?」


「観測者が過去の空間を体験できるようにする。ただし、現地には存在しない」


「再現空間?」


「正確には、観測データを基にした疑似体験です」


「つまり、本物ではない」


「はい」


 女性は首を振った。


「それでは、今までと同じです」


「ですが安全です」


「安全なのは分かっています」


「では?」


「観測者が求めているのは、そこじゃない」


 部下は黙った。


 女性も確信しているわけではなかった。


 ただ。


 これまで大量の再現コンテンツを扱ってきた経験から。


 そう感じていた。


     *


 その頃。


 青年たちは小さな集落を通り過ぎていた。


 住民の一人が、彼らに声をかけた。


「泊まっていかないか?」


 青年が立ち止まる。


「いいんですか?」


「空いている家がある」


 黒服の男が青年を見る。


「どうする?」


「泊まろう」


「追われているかもしれないぞ」


「だからって、毎日歩き続ける必要もない」


 直人が笑った。


「賛成です」


 四人はその集落に泊まることになった。


 夜。


 簡単な食事が出された。


 米。


 野菜。


 肉。


 味噌汁。


 特別な料理ではない。


 しかし。


 未来では、その食卓を見ている人間がいた。


「何を食べているんだ?」


「米だと思う」


「味は?」


「分からない」


「食べてみたい」


「再現データならある」


「再現じゃなくて、本物がいい」


 その会話が。


 次々に別の観測者へ広がっていった。


 そして。


 ある一人が書き込んだ。


――「あの時代の人間と同じ場所で食べてみたい」


 別の人間が答える。


――「それが可能なら、俺は戦闘よりそっちを選ぶ」


 さらに。


――「歴史を見るんじゃなくて、歴史の中に入りたい」


 コメントが流れていく。


 女性は、その画面を見ていた。


 そこで初めて。


 プロジェクトの価値が。


 観測時間だけでは測れなくなっていることに気づいた。


 この人たちは。


 次の事件を待っているのではない。


 次の「本物」を待っている。


     *


 翌日。


 プロジェクト会議が開かれた。


 複数の管理者が参加している。


「観測者数は増加しています」


「それは確認済みです」


「直接接触希望も増えています」


「規約違反にならない範囲で対応できるでしょうか」


「難しいでしょう」


「なぜ?」


「接触すれば、観測対象が観測者を認識する可能性があります」


「それが問題?」


「問題です」


 別の管理者が口を挟んだ。


「もし過去の人間が、未来の存在を知ったら?」


「歴史が変わる」


「変わるだけならまだいい」


「もっと大きな問題が?」


「観測そのものが成立しなくなる可能性があります」


 部屋が静かになった。


 女性は資料を見ていた。


「では、観測者が直接触れることはできない」


「現行規約では」


「分かった」


 そこで会議は終わるはずだった。


 しかし。


 彼女が一つの資料を開いた。


「では、別の方法を考えます」


「別の方法?」


「観測対象の行動を操作しない」


「それが条件ですか?」


「はい」


「それで接触体験を作れると?」


「まだ分かりません」


 彼女は画面に映る青年を見た。


「ただ、今まで私たちは、番組を面白くするために出来事を作りすぎていた」


「……」


「でも、このプロジェクトでは、出来事を作らなくても観測者が増えている」


 画面には。


 青年。


 黒服。


 直人。


 そして。


 名前も知らない無数の人間。


「なら、次に必要なのは、もっと大きな事件ではないかもしれない」


「では何ですか?」


 女性は答えた。


「選択肢です」


 部下が聞く。


「観測者に?」


「違う」


 彼女は画面を見た。


「出演者に」


 誰かが眉をひそめた。


「選択肢を増やす?」


「はい」


「しかし、選択肢を増やせば予測不能性も増えます」


「それでいい」


「管理できなくなります」


「完全に管理する必要がありますか?」


 部屋が静かになった。


 彼女は続けた。


「私たちが全部決める必要はない」


「……」


「むしろ、決めない方が観測価値が高いなら」


 彼女は申請書を開いた。


「決めない」


 それは。


 小さな方針変更だった。


 新しい敵を作らない。


 無理に事件を起こさない。


 出演者を特定の方向へ誘導しない。


 ただ。


 彼らが選べる環境を維持する。


 そして。


 その選択を観測する。


     *


 その夜。


 青年は一人で外に出た。


 空には星が見えていた。


 黒服の男が後ろから声をかける。


「眠れないのか?」


「少し」


「未来のことを考えてる?」


「違う」


「じゃあ?」


 青年は空を見た。


「この先、どうなるんだろうって」


「同じじゃないか」


「違う」


 青年は笑った。


「未来のことじゃない」


「?」


「明日、自分が何をするのか分からない」


 黒服の男はしばらく黙った。


「それが怖いのか?」


「分からない」


「……変な奴だな」


「よく言われる」


 二人は星を見ていた。


 その光景を。


 未来の何十万人もの人間が見ていた。


 そして。


 女性の端末に新しい数字が表示された。


 ――観測者数、過去最高。


 ――平均観測時間、過去最高。


 ――人工介入率、過去最低。


 そして最後に。


 これまで存在しなかった項目が追加された。


 ――長期観測希望率。


 その数字も。


 上昇していた。


 女性は画面を見た。


 これまで。


 番組とは。


 人を飽きさせないために作るものだと思っていた。


 しかし今。


 このプロジェクトでは。


 人を飽きさせないことより。


 人が見続けたいと思う時間そのものを壊さないことの方が。


 重要になり始めていた。


 彼女は静かに端末を閉じた。


 その瞬間。


 別のプロジェクトから緊急通知が届いた。


 ――観測者流出率、上昇。


 ――資源不足。


 ――継続予算の再検討を要請。


 女性は通知を見た。


 そして。


 初めて。


 自分のプロジェクトが。


 他のプロジェクトにとっても。


 無視できない存在になっていることを知った。

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