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観客のいない世界  作者: 亀


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第169章 権限を持つ者

管理所の入口には、長い列ができていた。


荷物の受領証明を求める商人、運送経路の変更を申請する作業員、許可証の更新を待つ荷主。窓口の職員たちは、それぞれの書類を確認しながら、順番に対応していた。


男は列の最後尾に並んだ。


ここで怒鳴っても、順番が早まるわけではない。何を申請できるのか、どこまで情報を確認できるのか。それを知ることが先だった。


しばらくして、男の番が来た。


窓口の職員は、顔を上げた。


「ご用件は?」


「古い運送番号について確認したいことがあります。現在使われていない番号が、どのような手続きで停止されたのか知りたいのです」


「番号をお持ちですか?」


男は紙片を差し出した。


職員は番号を確認し、机の上に置かれた台帳を開いた。


ページを何枚かめくったところで、手が止まった。


「こちらの番号は、現在の管理番号ではありません」


「以前は使われていたのですか?」


「記録上は存在します。ただし、現在の管理区分では照会できません」


「では、どの部署に照会すればいいのでしょうか?」


職員は別の帳面を取り出した。


「管理権限に関する照会は、こちらでは受け付けていません。担当部署が別になります」


「担当部署の名称と、申請に必要な書類を教えていただけますか?」


職員は少し考えたあと、申請窓口の場所を書いた紙を差し出した。


「こちらへ行ってください。ただし、記録の閲覧が認められるとは限りません」


男は紙を受け取り、礼を言った。


*


担当窓口は、管理所の奥にあった。


入口には、一般の受付とは異なる札が掲げられている。


《旧管理記録・権限照会》


中では数人の職員が書類を整理していた。


男が窓口へ近づくと、担当者が用件を尋ねた。


男は、先ほどと同じ説明をした。


担当者は紙片を確認したが、すぐに台帳を開こうとはしなかった。


「この番号について、何を知りたいのですか?」


「現在使われていない理由と、過去にどの管理区域で使用されていたのかを確認したいのです」


「その情報が必要な理由は?」


男は少し考えた。


「運送の仕事で、旧番号のついた荷物を扱いました。受領先が変更され、別の場所でも受け取りを拒否されました。現場では、番号が無効になった理由も、次の行き先も分からないまま、荷物を動かすよう指示されています」


担当者は、男の話を聞きながら書類に目を落とした。


「あなたは、運送業者の正式な担当者ですか?」


「臨時の作業員です」


「それでは、管理記録を閲覧する権限はありません」


「閲覧できないことは理解しました。ただ、運送の指示を受ける側として、無効になった番号の荷物をどこへ運ぶべきか、確認する方法はないのでしょうか?」


担当者は、すぐには答えなかった。


「通常であれば、荷主か運送業者を通じて照会します」


「荷主が分からない場合は?」


「依頼元へ確認してください」


「依頼元が回答しない場合は?」


担当者は、そこで初めて男の顔を見た。


「その場合は、通常の手続きでは解決できない可能性があります」


男は頷いた。


「分かりました。では、正式な照会が出された場合、どのような情報が確認できますか?」


「申請内容によります。現在の管理区分、使用停止の通知、受領先の変更履歴など、必要性が認められた範囲です」


「通知を出した部署も確認できますか?」


担当者は、慎重に答えた。


「公開可能な範囲であれば」


男は、それ以上質問を重ねなかった。


閲覧できないと分かった以上、同じ窓口で押し問答を続けても意味はない。


ただし、正式な申請を行うための条件は分かった。


必要なのは、単に古い番号を知っていることではない。


その番号のついた荷物を扱った事実と、照会が必要な理由を示すことだった。


*


管理所を出た男は、通りの向こうに立っている人物に気づいた。


黒い上着。


昨日、仕事を紹介した男と同じ服装だった。


男は足を止めた。


相手もこちらに気づいている。


しばらく視線が合ったあと、相手は人混みの中へ歩き出した。


男は、すぐには追わなかった。


相手が自分を待っていたのか、それとも偶然ここにいたのかは分からない。


追いかけることで、相手の望む場所へ誘導される可能性もある。


男は周囲を確認し、管理所の入口から少し離れた場所で待った。


数分後、黒い上着の男が戻ってきた。


「追ってこなかったな」


「追う必要があると思わなかった」


「俺が逃げたと思わなかったのか?」


「逃げたかどうかは、今のところ重要じゃない」


相手は小さく笑った。


「管理所へ行ったのか」


「そうだ」


「何が分かった?」


男は、答える前に尋ねた。


「お前は、俺が何を調べているのか知っているのか?」


「ある程度はな」


「なら、なぜ自分で説明しない?」


相手は、周囲を一度見渡した。


「説明できることと、説明できないことがある」


「それは、昨日も聞いた」


「そうだったな」


相手は、少しだけ表情を変えた。


「お前が探している記録には、現在の管理者がいないものがある」


男は黙って聞いた。


「管理者がいないというのは、単に担当者が辞めたという意味ではない。管理権限そのものが返却されていない場合もあれば、返却先がなくなっている場合もある」


男は、箱に関する記録を思い出した。


《契約終了後、権限を返却する》


《返却先が存在しない場合、接続は閉鎖される》


「その番号も、そういうものなのか?」


「その可能性はある」


「確かなことは?」


「お前が調べるしかない」


男は相手を見た。


「お前は、俺をその番号へ導いている。だが、何があるのかは教えない」


「そうだな」


「俺が危険な場所へ入る可能性もある」


「それも否定しない」


相手は、言い訳をしなかった。


男は、相手の目的を考えた。


この男は、情報を小出しにしている。


自分が何を知り、何を知らないのかを明かさず、男がどこまで調べるのかを見ている。


それが、単なる取引のためなのか。


それとも、男を特定の場所へ向かわせるためなのか。


まだ分からない。


「一つ聞きたい」


男は言った。


「この番号の使用停止によって、誰が利益を得る?」


相手は、少し意外そうな顔をした。


「なぜ、そう考える?」


「番号が使えなくなれば、その番号で荷を運んでいた人間は仕事ができなくなる。荷の受領先も変わる。誰かが困る一方で、別の誰かが決定権を持つことになる」


相手は、しばらく黙っていた。


「必ずしも、利益を得る者がいるとは限らない」


「分かっている。だが、権限を変更する理由はあるはずだ」


「理由は一つではない。安全上の問題かもしれないし、契約が終わったのかもしれない。管理する側が変わっただけという可能性もある」


男は頷いた。


相手の説明は、特別なことではなかった。


だが、どの理由であっても、現場で荷を運ぶ人間が困っていることは変わらない。


「なら、まず理由を確かめる」


「そうするべきだろうな」


相手は、男から視線を外した。


「ただし、管理所の記録だけで分かるとは限らない」


「それは、どういう意味だ?」


「記録に残るのは、正式な手続きを通ったことだけだ。現場で何が起きたか、誰が困っているかまでは、すべて記録されるわけではない」


男は、その言葉を頭の中で整理した。


確かに、今日の窓口では、使用停止の理由を確認することができなかった。


正式な照会を出すには、荷主か運送業者を通す必要がある。


だが、荷主が誰なのか分からない以上、その方法だけでは先へ進めない。


「現場を調べろということか?」


「俺は何も指示していない」


相手はそう言って、歩き出した。


「お前が何を調べるかは、お前が決めればいい」


男は、その背中を見送った。


相手はまた、具体的な答えを残さなかった。


しかし、管理所の記録だけでは分からないことがあるという指摘は、正しかった。


*


その日の午後、男は北の水路へ戻った。


以前、事故に遭った作業員の兄から聞いた話を思い出し、荷物を扱う人間が集まる場所を訪ねた。


そこでは、複数の運送業者が荷の受け渡しを調整していた。


男は、仕事の依頼を待つ作業員たちに話を聞いた。


「最近、受領先が急に変わる仕事は増えているか?」


一人の作業員が頷いた。


「増えたな。昨日まで使えていた番号が、今日は使えないと言われることもある」


「その場合、報酬はどうなる?」


「仕事による。最初の運搬分だけ支払われることもあれば、受け取りが完了するまで支払われないこともある」


別の作業員が口を挟んだ。


「だから、最近は受ける前に条件を確認する奴が増えた。だが、仕事が欲しい奴は、結局受けるんだ」


男は尋ねた。


「荷主に確認することはできないのか?」


「荷主と直接話せる仕事ならな。仲介が何段階も入っている仕事では、誰が最終的に指示を出しているのか分からないこともある」


「仲介を通さずに仕事を受ける方法は?」


作業員は肩をすくめた。


「知り合いを作るしかない。だが、信用できる知り合いがいなければ、仲介に頼るしかない」


男は、話を聞きながら記録した。


番号の使用停止は、単なる管理上の問題ではない。


仕事を受ける人間の収入にも影響している。


しかも、荷主と現場の作業員の間に複数の仲介者がいる場合、誰が最終的な判断をしているのか分からなくなる。


その構造を利用する者がいるのかどうかは、まだ分からない。


しかし、少なくとも、指示を出す側と責任を負う側の距離が大きいことは確かだった。


男が記録をしまおうとしたとき、若い作業員が近づいてきた。


「お前、昨日の箱を運んでいた奴だろう?」


男は相手を見た。


「そうだが」


「なら、気をつけた方がいい」


「何に?」


若い作業員は、周囲を確認した。


「お前が運んだ箱の番号について、今日、誰かが聞き回っていた」


男の表情が変わった。


「誰が?」


「知らない。黒い上着を着た男だ。俺にも、あの番号を見たことがあるかと聞いてきた」


男は、昨日からの出来事を振り返った。


仕事を紹介した男。


古い倉庫の封鎖。


管理所での照会。


そして、今、別の男が同じ番号を探している。


「その男は、何を知りたがっていた?」


「番号がどの倉庫へ運ばれたのか。それと、荷を運んだ作業員が誰なのか」


男は、すぐには返事をしなかった。


若い作業員は、話を続けた。


「俺は、見たことがないと答えた。実際、詳しくは知らないからな」


「話してくれてありがとう」


「礼はいらない。俺も、変な仕事に巻き込まれたくないだけだ」


若い作業員は、そう言って離れていった。


男は、その場に立ったまま考えた。


自分が運んだ箱の番号を、誰かが探している。


それは、箱が重要だからなのか。


あるいは、箱を運んだ人間を特定したいからなのか。


どちらも考えられる。


しかし、これ以上、同じ場所で情報を集め続けるのは危険かもしれない。


男は、直人と決めた場所へ向かった。


*


直人は、男の話を聞くと、すぐに記録を広げた。


「昨日の仕事を紹介した男とは別の人間が、同じ番号を探しているのか?」


「そうだ。少なくとも、若い作業員はそう話していた」


「二人は仲間なのか?」


「分からない。服装が似ているだけでは、同じ組織だとは言えない」


直人は頷いた。


「ただ、誰かが番号を探していることは確かだな」


男は、今日の記録を整理した。


管理所では、番号の使用停止について詳しい情報を得られなかった。


現場では、番号の変更によって仕事を失う作業員がいる。


そして、同じ番号を探している人間が複数いる可能性がある。


「次は、どうする?」


直人が尋ねた。


男は、少し考えた。


「番号を探している人間を追うこともできる。でも、今は相手の目的が分からない。まず、今日の荷を受け取るはずだった倉庫の記録を調べたい」


「受領先の倉庫か?」


「そうだ。荷を受け取れなかった理由が、管理権限の変更によるものなら、倉庫側にも何らかの通知が残っている可能性がある」


「そこで、また立ち入りを拒否されたら?」


「そのときは、別の方法を考える」


男は、記録をまとめた。


今まで、彼は荷の移動を追ってきた。


しかし、荷の行き先を決めるのは、現場の作業員ではない。


管理権限を持つ者がいて、受領先を決める者がいて、指示を伝える仲介者がいる。


それぞれが何を知り、何を決められるのか。


その違いを理解しなければ、誰かの都合で動かされ続けることになる。


男は、紙片を懐にしまった。


古い番号が何を意味するのか、まだ分からない。


だが、誰かがその番号を必要としている。


そして、その番号を探す人間は、男が思っていたよりも多いのかもしれなかった。

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