第166章 茶屋の待ち人
男は、約束された茶屋へ行く前に、直人のもとへ戻った。
帰り道では、何度か背後を確認した。誰かが尾行していると断定できる状況ではなかったが、今日の仕事を紹介した男が自分を観察していた可能性を考えれば、警戒を解く理由もなかった。
直人は、男の手を見て顔をしかめた。
「また傷が開いたのか」
「少しだけだ。荷車の事故で、荷を避けるときに痛めた」
「少しだけ、という顔には見えないがな」
直人は新しい布を用意した。
男は抵抗せず、手当てを受けた。傷口は完全には塞がっていない。これ以上無理をすれば、しばらく物を握ることさえ難しくなるかもしれなかった。
「それで、今日は何が分かった?」
男は、荷の受け入れが二度拒否されたこと、最後の一箱だけが受領対象から外されていたこと、そして北の水路へ戻す指示が出たことを説明した。
直人は黙って聞いていた。
「最初から、北へ戻すつもりだった可能性があるわけか」
「そう考えることはできる。でも、まだ断定できない。途中で本当に受け入れ先が変更された可能性もある」
「紹介した男は、何か知っているのか?」
「少なくとも、俺が何を見たのかを知りたがっている」
男は、今夜の約束についても話した。
直人は眉を寄せた。
「一人で行くつもりか?」
「まず、相手の話を聞く。ただし、相手の指定した場所に行くことと、相手を信用することは別だ」
「場所は?」
男が茶屋の名を伝えると、直人は少し考えた。
「その近くに、以前、荷車の修理を頼んだ店がある。表通りから入る道も知っている」
「なら、万一のときに連絡できる場所を決めておこう」
二人は、茶屋の周囲の道と、何かあった場合に離れる方向を確認した。
直人が茶屋へ同行することはしない。
相手が一人で話したいと考えているなら、直人が現れたことで話が中断する可能性がある。それに、直人まで巻き込まれる必要はなかった。
ただし、男が一定の時間までに戻らなかった場合には、直人が指定した場所から様子を確認することになった。
「無理はするな」
直人が言った。
「相手が何かを知っているとしても、今夜すべてを聞き出す必要はない」
「分かっている」
男は立ち上がった。
箱は、すでに信頼できる人物の保管場所へ移されている。今夜の話が罠だったとしても、以前のように自分が倒れれば箱まで失う状況ではない。
それは、彼にとって大きな違いだった。
*
日が暮れてから、男は茶屋へ向かった。
店は水路から少し離れた通りにあり、客の数は多くなかった。入口の近くでは、二人の商人が荷物の受け渡しについて話している。奥の席には、仕事帰りらしい男たちが座っていた。
指定された相手は、まだ来ていなかった。
男は店の中央ではなく、入口と奥の両方が見える席を選んだ。
店員に茶を頼み、周囲を観察する。
しばらくして、一人の男が入ってきた。
黒い上着を着ている。背丈は中くらいで、歩き方に目立った特徴はない。
男は店内を一度見渡し、こちらへ近づいてきた。
「待たせたな」
「それほどでもない」
相手は向かいに座った。
「今日の仕事は、どうだった?」
「報酬は受け取った。荷は最後まで運んだ」
「それだけか?」
「受け取りを拒否された。二か所でな」
相手は頷いた。
「ほかには?」
男はすぐに答えなかった。
相手が何を知っているのか、どこまで知っているふりをしているのか。それを確かめる必要があった。
「途中で荷車の事故が起きた。箱が一つ落ちたが、封印は無事だった」
「それで?」
「その箱だけ、二つ目の倉庫で受領対象から外されていた。最後には、北の水路へ戻す指示が出た」
相手は、茶を一口飲んだ。
「お前は、何が起きていると思う?」
「今の段階では、いくつかの可能性がある。受領記録と現場の指示が一致していない。誰かが意図的に変えているのか、管理する側が分かれていて連絡が遅れているのか、それとも別の事情があるのか。まだ判断できない」
「慎重だな」
「分からないことを、分かったことにはできない」
相手は、わずかに口元を緩めた。
「だが、今日の荷が偶然にああなったと思っているわけでもないのだろう?」
「偶然だと決める材料も、偶然ではないと決める材料も足りない。ただ、誰かが俺にこの仕事を紹介したことは事実だ」
相手は、そこで初めて男を正面から見た。
「俺が紹介した」
「それは知っている」
「では、もう一つ聞こう。お前は、あの箱が何なのか知りたいのか?」
男は答えを急がなかった。
今日運んだ箱は、先祖の箱と同じものではない。外見の一部に似た特徴はあったが、それだけで関係があるとは言えなかった。
「知りたいのは、あの箱だけじゃない。荷がどう動き、誰が行き先を決め、誰がその変更を知っているのかだ」
「なぜ、そこまで調べる?」
「今まで調べてきたものと、今日見たものの間に、何かつながりがあるかもしれないからだ。ただし、つながりがあると決まったわけじゃない」
相手は、しばらく黙っていた。
やがて、懐から小さな紙片を取り出した。
紙片には、管理番号らしき数字と、二つの場所の名前が書かれている。
そのうち一つは、今日の運搬で立ち寄った倉庫だった。
もう一つは、男がまだ訪れたことのない場所だった。
「この番号を調べてみろ」
相手は紙片を机の上に置いた。
男は、すぐには手を伸ばさなかった。
「これは何だ?」
「ある荷の記録だ」
「誰の記録だ?」
「そこまでは教えられない」
「なぜ俺に渡す?」
相手は、少し考えた。
「お前が、自分で調べようとしているからだ」
「それだけか?」
「それだけではない」
相手は言葉を選ぶように、一度視線を落とした。
「お前が探しているものに、近い情報があるかもしれない」
男の目が紙片へ戻った。
「俺が何を探しているか、どこまで知っている?」
「古い箱だ。昔の記録だ。お前は、そういうものを追っている」
「誰から聞いた?」
「それは答えられない」
男は紙片を取った。
ただし、相手の言葉を信じたからではない。
そこに書かれた番号と場所を、自分で確認するためだった。
「これが間違った情報だった場合、俺は時間を失う」
「そうだな」
「危険な場所へ誘導される可能性もある」
「その可能性もある」
相手は否定しなかった。
「それでも、調べるか?」
男は紙片を折らずに、懐へしまった。
「調べるかどうかは、記録を確認してから決める。お前の話だけで動くつもりはない」
相手は、小さく頷いた。
「それでいい」
男は相手を見た。
「今日の仕事は、俺に何かを見せるために用意したものなのか?」
相手は、すぐには答えなかった。
茶屋の外を荷車が通り、車輪の音が短く響いた。
「すべてが俺の計画どおりだったわけではない」
「では、計画はあったのか?」
「お前が、荷を運びながら何を見るのか。それを知りたかった」
男は、相手の言葉を頭の中で整理した。
今日の事故まで相手が仕組んだとは限らない。
受領先の変更も、相手が決めたとは限らない。
しかし、男が荷を運ぶことで、普段は外から見えない仕組みに触れられることを、相手は予想していたらしい。
「俺を利用するつもりか?」
「お前も、俺を利用すればいい」
相手は静かに言った。
「俺が知っていることを使い、お前が知りたいことを調べる。互いに必要なものがあれば、取引は成立する」
「俺は、お前の目的を知らない」
「だから、今は信用しなくていい」
相手は立ち上がった。
「ただし、その紙片に書かれた場所へ行くなら、一つだけ覚えておけ。そこにあるものを、勝手に持ち出すな」
男は眉を寄せた。
「なぜだ?」
「持ち出せば、持ち主が誰なのかを確かめる前に、盗んだ人間として扱われる可能性がある」
「なら、何をしに行く?」
「まず、そこに何があるのかを確かめろ」
相手はそれだけ言うと、代金を机に置き、店を出ていった。
男は、すぐには席を立たなかった。
紙片を取り出し、書かれた番号をもう一度確認する。
今日の荷札と同じ形式だった。
だが、番号が示すものは分からない。
相手が真実を話しているのか、都合のいい部分だけを伝えているのかも分からなかった。
それでも、紙片は具体的な手掛かりだった。
ただ荷札を見比べるだけでは得られなかった情報が、そこにある可能性がある。
男は茶を飲み終え、店を出た。
*
帰り道、男は紙片をしまったまま、今日の出来事を振り返った。
相手は、彼が古い箱を探していることを知っていた。
しかし、箱の詳しい内容や、開けるために必要な条件まで知っているとは限らない。
相手が示した場所も、先祖の記録と直接つながっているとは限らなかった。
それでも、調べる価値はある。
問題は、どの順番で動くかだった。
すぐに指定された場所へ行けば、相手の望むとおりに動くことになるかもしれない。
一方で、慎重になりすぎれば、情報が失われる可能性もある。
男は、直人と決めた合流場所へ向かった。
直人は、彼が戻ってきたのを確認すると、ようやく肩の力を抜いた。
「何を聞けた?」
男は、紙片を見せた。
「今日の仕事は、俺が何を見るかを確かめるためだったらしい。それから、これを渡された」
直人は紙片を読み、顔を上げた。
「相手は、お前が探しているものを知っているのか?」
「少なくとも、古い箱と記録を追っていることは知っている。ただし、どこまで知っているのかは分からない」
「この場所へ行くのか?」
「行く。ただし、明日すぐにではない。先に、番号と場所が実在するか確認する」
直人は頷いた。
「なら、今日は休め。手の傷も、これ以上悪くしたら困る」
男は、傷のある掌を見た。
今日一日、彼は仕事を受け、荷を運び、事故に対処し、受領先の変更を記録した。
その結果、相手は彼に新しい手掛かりを渡した。
しかし、情報を得たことと、相手の思惑を理解したことは同じではない。
男は紙片を、これまでの記録とは別の場所へ保管した。
まだ、既存の箱の記録と結びつけることはしない。
同じ形式の数字が使われているからといって、同じ管理者がいるとは限らないからだ。
彼は明日、まず自分で確認できることから始めるつもりだった。
そして、もしその場所に本当に古い記録が残っているのなら、今度はただ情報を受け取るだけでは終わらせない。
誰がそこを管理し、何を守り、何を失うことを恐れているのか。
その条件を確かめたうえで、どう動くかを決める。
男は、灯りを消した。
明日の調査が、また新しい疑問を生むことになるのか。
それとも、これまでの出来事をつなぐ手掛かりになるのか。
今はまだ、分からなかった。




