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観客のいない世界  作者: 亀


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第165章 荷の行き先

別の倉庫へ向かう途中、監督役は何度も後ろを振り返った。


荷車は三台。


先頭の荷車には二人の作業員が乗り、残る二台を男たちが押している。目的地が変更されたため、当初の予定よりも遠回りになっていた。


「あとどれくらいだ?」


監督役が前の作業員に尋ねた。


「この道を抜ければ、すぐです」


「なら急げ。今日はもう余計な問題を起こすな」


男は返事をせず、周囲を観察した。


倉庫の並ぶ区域から離れるにつれて、商店は少なくなり、道幅も狭くなっていく。人通りが減った一方で、荷車の轍は途切れずに続いていた。


この道を使う運送業者は、ほかにもいるらしい。


やがて、前方に分岐点が見えた。


右へ進めば、地図に記された倉庫へ向かう。


左へ進めば、水路沿いの古い荷置き場に戻る。


監督役は右へ進むよう指示した。


その直後だった。


前方から、空の荷車が勢いよく走ってきた。


「止まれ!」


先頭の作業員が叫ぶ。


狭い道では、三台の荷車をまとめて避ける余裕がない。


男は荷車の取っ手を放し、道の端へ飛び退いた。


先頭の荷車が急停止する。


後ろの荷車がぶつかり、積み荷が大きく傾いた。


木箱が一つ、荷台から滑り落ちる。


男は反射的に手を伸ばしかけたが、掌の傷が痛んだ。無理に受け止めれば、箱の下敷きになる。


彼は箱を追うのではなく、落下地点から人を遠ざけた。


「下がれ!」


箱が地面に落ち、鈍い音を立てた。


封印は破れていない。


だが、箱の角が地面に当たり、側板の一部が割れていた。


監督役が駆け寄ってきた。


「何をしている! 荷を確認しろ!」


「まず、けが人がいないか確認する」


「荷が先だ!」


「人が巻き込まれていたら、荷を動かす方が危険だ」


男は周囲を確認した。


幸い、誰も箱の下敷きになっていない。後ろの作業員も、足を挟まれずに済んでいた。


しかし、空の荷車を引いていた男は、すでに走り去ろうとしていた。


男は追いかけなかった。


狭い道で荷車を追えば、こちらの荷が放置される。さらに、相手が何を狙っていたのかも分からない。


代わりに、空の荷車の特徴を記憶した。


右側の車輪に補修跡がある。


荷台の後ろには、古い縄が一本垂れていた。


そして、荷車を引いていた男は、衝突しかけた直後、こちらの荷ではなく、落ちた箱を見ていた。


事故を起こしたことに驚いたというより、箱がどうなったのかを確かめていたように見えた。


監督役は、割れた箱を前にして顔をしかめた。


「封印が無事なら問題ない。側板を固定して運べ」


「箱の状態を記録した方がいい」


男が言った。


「余計なことをするな。封印は破れていない」


「側板は割れている。受領先で確認されたら、誰が説明する?」


監督役は口を閉じた。


やがて、別の作業員が木片と縄を持ってきた。彼らは箱を固定し、受領書に破損の事実を記録した。


男は、破損した場所と時刻を自分の記録にも残した。


それから、落ちた箱を慎重に荷台へ戻した。


作業を再開してからも、男は背後を何度か確認した。


空の荷車は、もう見えなかった。


だが、あの衝突が単なる不注意だったと決めつけるには、気になる点が多すぎた。


*


目的地の倉庫は、周囲の建物よりも古かった。


正面には管理番号が掲示されているが、入口の看板は色あせ、壁の一部には修繕の跡がある。


門の前には、荷を受け取るための人間が待っていた。


監督役が書類を差し出すと、男は内容を確認した。


「三台か。聞いていた数と違うな」


「途中で受け入れ先が変更された。こちらの指示に従っている」


「変更の連絡は受けている」


受領担当者はそう答えたが、書類に目を落としたまま、すぐには署名しなかった。


「ただし、この荷はすべて受け取れない」


監督役の表情が変わった。


「またか。ここでも受け取れないというのか?」


「受け取れないのは、最後の一箱だ」


担当者は、三台目の荷車を指した。


そこには、側板の割れた木箱が載っていた。


「その箱だけ、別の番号が記録されている」


男は荷札を確認した。


番号は、ほかの箱と同じ形式だった。


受領書にも、三台分の荷が記されている。


「どの記録と違うんだ?」


男が尋ねると、担当者は初めて彼の顔を見た。


「お前は運送の作業員だろう。管理記録の話を聞いてどうする?」


「受け取られない荷を運んできた。理由を知らなければ、次にどこへ運ぶべきか判断できない」


担当者はしばらく黙っていた。


「この箱は、今朝の受け入れ一覧にない。荷札の番号自体は存在するが、今日の受領対象には登録されていない」


「では、出発前に渡された受領書は?」


「こちらが受け取った書類では、対象外になっている」


監督役が声を荒らげた。


「そんなはずはない。出発時には、三台すべてが記載されていた!」


「こちらに言われても困る。俺は、ここに届いた記録と照合しているだけだ」


二人の言い争いが始まった。


男は、口を挟まずに考えた。


出発時には受領対象だった。


最初の倉庫では、受け入れ停止を理由に別の場所へ回された。


そして、二つ目の倉庫では、最後の一箱だけが受領対象に登録されていない。


単に連絡が混乱している可能性はある。


だが、箱の番号が存在するのに、今日の受領対象には入っていないという点が気になった。


番号が偽造されたのではない。


荷札の形式が間違っているわけでもない。


箱そのものが、ある記録には存在し、別の記録には存在していない。


男は担当者に尋ねた。


「その番号を最初に登録した日付は分かるか?」


「作業員に教える情報ではない」


「分かった」


男は、それ以上追及しなかった。


今、必要なのは担当者を説得することではない。


この場で受領されない箱を、誰が、どのような指示で動かすのかを確かめることだった。


監督役は、しばらくして倉庫の外へ出た。


誰かに連絡を取っているらしい。


男は、残った作業員たちに声をかけた。


「この箱は、ここへ来る前にも受け取りを拒否された。次の指示が出るまで、勝手に動かさない方がいい」


「だが、指示が来なかったらどうする?」


作業員の一人が尋ねた。


「それは、指示を出す側が決めることだ。俺たちだけで行き先を決めれば、後で責任を負わされる」


「そんなことを言っていたら、仕事が終わらない」


別の作業員が反論した。


「分かっている。でも、勝手に動かした荷の責任を、俺たちが取れるわけでもない」


作業員たちは、不満そうに黙った。


男は彼らを説得しようとはしなかった。


全員が同じ判断をする必要はない。今日の報酬がなければ生活に困る者もいる。危険を承知で仕事を続ける理由は、それぞれ違う。


やがて監督役が戻ってきた。


「最後の箱は、別の場所へ運ぶ」


「どこへ?」


「北の水路だ」


男は監督役の顔を見た。


「そこへ戻すのか?」


「そうだ。荷の受け取り先が変わった」


「誰の指示で?」


監督役は、苛立ったように息を吐いた。


「上からだ。お前に説明する必要はない」


男は頷いた。


「分かった。指示が出た時刻だけ、受領書に記録してくれ」


監督役は、もう反論しなかった。


*


北の水路へ戻る道中、男は箱を注意深く観察した。


側板の破損部分は、縄で固定されている。


封印は無事だ。


荷札も変わっていない。


それでも、受け入れ先だけが二度変わった。


男は、箱の行き先を決める仕組みが、現場の作業員からは見えない場所にあることを理解し始めていた。


しかし、見えない仕組みがあることと、誰かが意図的に荷を動かしていることは別の問題だ。


彼は、まだ誰かの陰謀だと断定するつもりはなかった。


北の水路に戻ると、朝に荷を積み込んだ場所とは違う入口へ案内された。


そこには、昨日の仕事を紹介した男が立っていた。


「ご苦労だった」


男は、すぐには返事をしなかった。


「この箱は、最初から北の水路へ戻す予定だったのか?」


相手は、わずかに目を細めた。


「なぜそう思う?」


「出発時の受領先では受け取られず、別の倉庫でも一箱だけ受領対象から外された。最後に、北の水路へ戻す指示が出た」


「それで?」


「最初から戻すつもりだったのなら、今日の運搬は何のためだった?」


相手はすぐには答えなかった。


周囲では、別の作業員たちが荷車を動かしている。


彼らの仕事は続いている。男との会話を気に留める者はいなかった。


「荷の移動には、いろいろな事情がある」


相手は言った。


「受領先の変更も、その一つだ」


「事情があることは分かっている。だが、今日の荷は、二か所で受け取りを拒否された。偶然にしては、都合よく元の場所へ戻ってきたように見える」


相手は、少しだけ笑った。


「お前は、仕事を受ける前よりも、よく周囲を見るようになったな」


男は、その言葉を聞き逃さなかった。


「俺が何を見るかを、確かめたかったのか?」


「そうだとしたら?」


「なら、確かめたいことは分かったはずだ。俺は荷札だけを見ているわけじゃない」


相手は、笑うのをやめた。


しばらく二人の間に沈黙が流れた。


やがて、相手は荷車の方へ目を向けた。


「今日の仕事は終わりだ。報酬は入口で受け取れ」


「一つだけ聞きたい」


「何だ?」


「この箱を、今度はどこへ運ぶ?」


相手は男を見た。


「それを知りたいのか?」


「知りたい。ただし、指示に従うかどうかは、条件を聞いてから決める」


相手は、すぐには答えなかった。


やがて、男のそばへ一歩近づいた。


「今夜、ここへ来い。仕事の話ではない」


「何の話だ?」


「今日、お前が見たものについてだ」


男は相手の目を見た。


罠かもしれない。


だが、断れば、相手が何を知っているのか確かめる機会を失う。


「場所と時間を指定してくれ。こちらから行くかどうかは、それを聞いてから決める」


相手は、少し意外そうな顔をした。


それから、倉庫の裏手にある古い茶屋の名を告げた。


「日が暮れてからだ」


男は、その場所を記憶した。


相手はそれ以上説明せず、荷車の方へ歩いていった。


男は報酬を受け取ると、北の水路を離れた。


帰る前に、今日の記録を整理する必要がある。


箱の番号。


受け入れ停止の時刻。


二つ目の倉庫での受領拒否。


最後の箱だけが受領対象から外されていたこと。


そして、北の水路へ戻す指示が出た時刻。


それらを並べれば、何かが見えてくるかもしれない。


だが、今日、最も重要だったのは、別のことだった。


仕事を紹介した男は、彼が何を見たのかを知りたがっている。


つまり、相手は今日の運搬を通じて、彼の行動だけでなく、判断の仕方まで観察していた可能性がある。


男は、痛む掌を布で押さえた。


自分が相手を調べているつもりだった。


しかし、相手もまた、自分を見ていた。


その事実を、男は初めて具体的に意識した。

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