第164章 選ばされた仕事
翌朝、男は約束の時間より少し早く北の水路へ着いた。
通りには、すでに何台もの荷車が並んでいた。作業員たちは荷札を確認し、運送業者は積み込みの順番を調整している。
一見すると、いつもと変わらない朝だった。
だが、男が昨日呼び出された場所には、普段の荷運びとは違う緊張があった。
十人ほどの作業員が集められ、全員が同じ方向を向いている。入口には二人の見張りが立ち、少し離れた場所で、昨日の男が帳面を確認していた。
「来たか」
昨日の男が顔を上げた。
「仕事の内容を聞きに来た」
「まず、こちらへ来い」
男は案内された机の前に立った。
机には、荷札の束と簡単な地図が置かれていた。地図には水路沿いの倉庫がいくつか記され、そのうち二か所に印が付いている。
「今日は、ここからここまで荷を運ぶ」
男は地図を見た。
出発地点は、昨日の騒ぎがあった荷置き場に近い。到着地点は、以前、運送業者が荷の受け取りを拒まれたと話していた区域だった。
「何を運ぶ?」
「金属部品だ。木箱に入っている」
「箱の中身を確認していいか?」
相手は首を横に振った。
「必要ない。指定された荷を、指定された場所へ運ぶ。それだけだ」
「荷札と受領書は?」
「出発前に渡す。到着したら、受領者の署名をもらえ」
「荷物が破損していた場合は?」
「報告しろ」
「受領者がいなかった場合は?」
相手の表情がわずかに変わった。
「その場合も報告しろ。勝手に別の場所へ運ぶな」
男は地図を見直した。
「運搬経路は指定されているのか?」
「指定されている。途中で道を変えるな」
「その経路が封鎖されていたら?」
「指示を待て」
「待っている間の報酬は?」
相手は机を指で叩いた。
「質問はそれくらいにしろ。仕事を受けるのか、受けないのか、どちらだ」
男はすぐに答えなかった。
仕事の条件は、一応説明された。
しかし、荷の中身は確認できず、経路は固定され、受領者がいなければ指示を待つ。問題が起きた場合の責任は、現場の作業員に集まりやすい。
そして、到着地点は、これまで調べてきた荷の移動と無関係とは言い切れない場所だった。
「報酬はいくらだ?」
相手が金額を告げた。
相場より少し高い。
危険を伴う仕事なら、特別に高いとは言えない。だが、短時間の運搬にしては十分な額だった。
男は、周囲の作業員を見た。
彼らの中には、報酬を聞いてすぐに頷く者もいた。別の者は、地図を見ながら不安そうに仲間と話している。
一人の若い作業員が、男に小声で尋ねた。
「お前も初めてか?」
「この仕事はな」
「俺は、先週も似た仕事を受けた。荷を運ぶだけだと言われたが、到着したら受領者がいなくて、何時間も待たされた」
「その分の報酬は?」
「待機中の分は出なかった。結局、荷を別の場所へ戻すよう言われたが、その運搬代も最初の報酬に含まれていると言われた」
男は相手の話を聞いた。
「それでも、今日も受けるのか?」
若い作業員は苦笑した。
「家賃がある。ほかの仕事がすぐに見つかるわけでもない」
彼はそれ以上話さず、列へ戻った。
男は、もう一度、机の上の地図を見た。
受領者がいない。
待機しても報酬が出ない。
指示に従って荷を戻しても、追加の報酬がない。
これらは、単なる条件の悪い仕事としても成立する。だが、昨日の荷置き場で起きたことと合わせれば、別の可能性も考えられた。
荷を動かす側が、現場の作業員に余計な判断をさせないため、わざと選択肢を狭めているのかもしれない。
「どうする?」
昨日の男が尋ねた。
「受ける。ただし、出発前に荷札と受領書を確認したい」
相手は少し考え、書類を差し出した。
男は荷札を一枚ずつ確認した。
番号、出発地点、到着地点、受領者の欄。
そのうち一枚の番号が、以前見た荷札と同じ形式だった。だが、記載されている番号そのものは違う。
受領者の欄には、個人名ではなく、倉庫の管理番号が記されていた。
「この管理番号は、どこの倉庫のものだ?」
「到着すれば分かる」
「事前に確認できないのか?」
「必要ない」
男は書類を戻した。
「分かった。荷を見せてくれ」
相手が合図すると、作業員たちが木箱を運んできた。
箱は五つ。
外側には封印があり、荷札も取り付けられている。見たところ、昨日の荷置き場で見た箱と似ているが、同じものだとは判断できない。
男は箱を持ち上げる前に、外側を確認した。
封印に破損はない。
荷札の番号も、受領書と一致している。
ただし、箱の側面に、古い金具を取り付けた跡が残っていた。
男は、ほんの一瞬だけ目を止めた。
その形は、これまで調べてきた箱の金具とは違う。しかし、古い荷物を繰り返し使う倉庫なら、似た跡が残っていても不思議ではなかった。
男はその場で結論を出さず、箱の状態を記録した。
「準備はできた」
作業員の一人が声を上げた。
昨日の男は、地図を指した。
「指定された道を通れ。途中で止まるな。到着したら受領者の署名をもらう。それだけだ」
荷車が動き出した。
男は二台目の荷車を担当した。
前を進む荷車には、ほかの作業員が乗せた木箱が積まれている。後ろには、監督役らしい男が歩いていた。
最初の道は問題なかった。
水路沿いを進み、商店街の外側を抜ける。人通りは多いが、荷車が通るには十分な幅がある。
しかし、指定された経路の分岐点に差しかかったとき、前方に人だかりができていた。
道の中央には、壊れた荷車が横倒しになっている。
周囲では、商人たちが荷物を拾い集め、何人かの作業員が車輪を起こそうとしていた。
「止まれ!」
先頭の作業員が叫んだ。
荷車が次々に止まる。
監督役の男が前へ進み、現場の人間に尋ねた。
「何があった?」
「車輪が外れた。道を塞いでいる。しばらく通れない」
「いつ直る?」
「分からない。車軸が壊れている」
監督役は舌打ちした。
「脇道を使え」
男は地図を見た。
近くには、荷車が通れそうな道が一本ある。ただし、そこは指定された経路ではなかった。
「先ほど、道を変えるなと言われたはずだ」
男が言うと、監督役は睨みつけた。
「今は通れないんだ。ここで待つつもりか?」
「道を変えた場合、誰の許可を記録する?」
監督役は一瞬、答えに詰まった。
「俺が指示した。問題ない」
「では、受領書に記録しておいてくれ」
監督役の顔が険しくなった。
「余計なことを言うな。荷を運べばいい」
男は動かなかった。
「荷札には指定経路が記載されている。受領者が経路の変更を問題にした場合、現場の作業員が責任を負う可能性がある。指示を出した人間の記録が必要だ」
監督役は男の胸元をつかもうとした。
男は半歩下がった。
「触る必要はない。俺は、仕事を拒否しているわけじゃない」
「なら、さっさと動け!」
そのとき、壊れた荷車のそばにいた商人が声を上げた。
「そっちの荷車は通すな!」
監督役が振り返った。
「何だと?」
商人は、倒れた荷車の荷物を指した。
「その荷車が通ろうとしたら、こっちの荷物がさらに崩れる。道を空けるまで待て」
監督役は苛立ちを隠さず、周囲を見回した。
待機するか、脇道へ進むか。
どちらを選んでも、何らかの問題が起きる。
男は、荷車から降りた。
まず、壊れた荷車の状態を確認する。
車輪が外れた原因は、車軸の破損らしい。積み荷が片側へ偏っており、無理に起こせば荷物が落ちる危険があった。
「この荷物を先に降ろそう。車体を軽くしてから起こした方がいい」
男が言うと、商人は警戒した。
「誰の指示で動いている?」
「この道を通りたい運送の作業員だ。ここで荷車を押し通せば、事故が増える」
商人は監督役を見た。
監督役は不満そうだったが、ほかに手段がないことも分かっているようだった。
「手伝うなら、勝手に荷を動かすな。持ち主の確認を取れ」
男は頷いた。
荷物の持ち主を確認し、許可を得たうえで、作業員たちと一緒に荷を降ろし始めた。
途中、男の掌が痛んだ。
傷口が再び開いたのか、布に血がにじんでいる。
男は手を止め、左手を中心に作業を続けた。
無理に力を入れれば、後の仕事に響く。
数人が協力したことで、荷物は安全に降ろされた。壊れた荷車も、道の端へ移すことができた。
しかし、通行できるようになった頃には、予定していた時間をかなり過ぎていた。
監督役は荷車を急がせた。
「遅れた分を取り戻すぞ。止まらずに進め」
男は荷札を確認した。
「受領予定時刻を過ぎている。到着が遅れることを、先に連絡した方がいい」
「必要ない。向こうには分かっている」
「連絡した記録は?」
「お前は黙って荷を運べ!」
男は、それ以上言わなかった。
ただし、受領書の余白に、通行止めが発生した時刻と、作業を再開した時刻を書き留めた。
これは、誰かを責めるための記録ではない。
後から何が起きたのかを確認するための記録だった。
ようやく到着地点に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
そこは、外から見る限り、普通の倉庫だった。
入口には管理番号が掲示され、荷車を誘導する作業員が二人立っている。
監督役が荷札を見せると、作業員の一人が首を横に振った。
「この番号の荷は受け取れない」
監督役の顔がこわばった。
「どういうことだ。指定された受領先だぞ」
「今朝、受け入れ停止の指示が出た」
「誰から?」
「管理所からだ」
監督役は荷札を見せ直した。
「こちらは、今朝の指示で出発している。受け入れ停止の連絡など受けていない」
「こちらも、指示に従っているだけだ」
作業員は同じ言葉を繰り返した。
男は、荷札と受領書を見た。
受領者の署名欄は空白のまま。
荷は届いたが、受け取る者がいない。
昨日、若い作業員が話していた状況と似ていた。
監督役は、倉庫の責任者を呼ぶよう要求した。しかし、受付の作業員は、責任者は不在だと答えた。
「荷はどうする?」
監督役が男たちを振り返った。
「元の場所へ戻すのか、それとも待つのか」
誰も答えなかった。
指示を出す側は、そこにいない。
ここで勝手に荷を移せば、現場の作業員が責任を負うことになる。
男は、監督役を見た。
「指示を確認してくれ。誰が、いつ、この荷の受け入れを停止したのか。その記録が必要だ」
「分かっている!」
監督役は怒鳴ったが、すぐに声を落とした。
彼自身も、何が起きているのか分かっていないようだった。
しばらくして、監督役は倉庫の奥へ連絡を取りに行った。
男は、その隙に荷札をもう一度確認した。
番号は、出発時と同じだった。
封印も崩れていない。
箱の中身を見ていない以上、何が運ばれてきたのかは分からない。しかし、受け入れ停止の指示が出ていたなら、誰かが出発前にその情報を知っていた可能性がある。
あるいは、出発後に急きょ決まったことなのかもしれない。
どちらにしても、現時点では断定できない。
監督役が戻ってきた。
「荷は一度、別の倉庫へ移す。受け入れ先の指示があるまで、そこで待機だ」
男は尋ねた。
「別の倉庫の番号は?」
監督役が告げた番号を、男は受領書へ書き留めた。
それは、昨日見た荷札と似た形式だった。
しかし、同じ管理系列かどうかはまだ分からない。
荷車が再び動き出した。
男は、指定された場所へ荷を運びながら、今日の仕事の意味を考えていた。
相手は、わざわざ彼を仕事に参加させた。
その結果、彼は荷の移動を実際に経験し、受領先の変更と受け入れ停止に直面した。
偶然の可能性もある。
しかし、もし誰かが彼を特定の場所へ導こうとしているなら、今日の出来事は、そのための仕掛けだった可能性もある。
男は、目の前の荷車を見た。
この荷が何なのか。
なぜ、受け入れ先が突然変わったのか。
誰が、どの時点で変更を知っていたのか。
そして、自分をこの仕事に呼んだ男は、何を確かめたかったのか。
答えはまだない。
ただ一つ確かなのは、今日の仕事を通じて、彼自身が記録の外側から内側へ入ったことだった。
彼は、ただ荷札を追う者ではなくなった。
荷を運び、指示を受け、責任を負わされる側の立場から、仕組みの動きを見ることができるようになった。
それが、相手の望んだことなのか。
それとも、相手の計算を外れたことなのか。
男には、まだ分からなかった。




