第163章 仕事を受ける条件
翌朝、男は服装を整え、運送業と臨時作業員の紹介を扱う事務所へ向かった。
昨日までの調査で、仕事を配る者たちがどのように人を集め、荷を移動させているのか、その一端は見えてきた。
だが、外から観察しているだけでは限界がある。
実際に仕事を受ける者が、何を聞かされ、何を知らされず、どの段階で断れなくなるのか。
それを確かめるには、仕事を受ける側に立ってみる必要があった。
事務所に入ると、受付の奥にいた男が顔を上げた。
「仕事を探しているのか」
「そうだ。荷運びの仕事を探している」
「経験は?」
「倉庫での荷運びと、工房への部品の搬入を少し」
男は嘘をつかなかった。
ただし、これまで自分が追ってきた荷のことも、古い箱のことも話さなかった。
受付の男は一枚の紙を差し出した。
「ここに名前と、働ける日数を書いてくれ」
男は紙を受け取った。
名前を書く欄を見て、一瞬だけ手が止まる。
彼には、誰かが証明できる過去も、書類で裏づけられる経歴もなかった。これまで仕事を得るときも、名前や身元を詳しく聞かれない場所を選んできた。
しかし、ここで空欄のまま返せば、余計な疑いを招く可能性がある。
「名前は、何に使う?」
男が尋ねると、受付の男は面倒そうに答えた。
「仕事の割り当てと報酬の支払いだ。記録に残す必要がある」
「身元を証明する書類も必要か?」
「仕事による。荷物の管理を任せるなら必要になることもあるが、単純な運搬なら、紹介者の確認だけで済む場合もある」
男は、紙のほかの欄を確認した。
住所、緊急時の連絡先、過去の雇用先。
すべてを埋めるには、今の自分には不都合が多かった。
「紹介者はいない。まずは短期の仕事から始めたい」
受付の男は少し考えた。
「なら、今日の仕事は無理だな。明日、臨時の募集がある。荷の積み替えだ。報酬は作業終了後に支払う」
「荷の内容と場所は?」
「採用が決まってから説明する」
「仕事を受けるかどうか判断する前に、内容を確認したい」
受付の男は眉を寄せた。
「荷運びの仕事だ。危険なことはない」
「危険がないかどうかを、俺が判断するために聞いている」
しばらく沈黙が続いた。
受付の男は、男の顔を見てから紙を引き寄せた。
「仕事を選びたいなら、ほかを当たれ。うちは、いちいち細かい説明をするために人を集めているわけじゃない」
男は反論しなかった。
「分かった。今日は帰る」
事務所を出ると、男は建物の外で足を止めた。
受付の男は、単に面倒な客を追い払っただけかもしれない。
しかし、仕事を受ける前に内容を知りたいという要求が、これほど簡単に拒まれるなら、臨時作業員が仕事の実態を把握できないまま現場へ送られることもある。
重要なのは、説明を拒まれたことだけではない。
誰が説明する責任を負い、誰が説明しなくても仕事を成立させられるのか。
男はその違いを考えながら、通りを歩いた。
事務所から少し離れたところに、小さな食堂があった。
昼の準備をしていた店主に、男は荷運びの仕事について尋ねた。
「この辺で、臨時の仕事を探す人は多いのか」
「多いね。工房も倉庫も、忙しい時期には人手が足りなくなる」
「仕事を紹介する事務所もある?」
「あるよ。ちゃんとしたところもあるし、そうでないところもある」
「見分ける方法は?」
店主は包丁を置き、男を見た。
「仕事を始める前に、何をするのか、いくらもらえるのか、いつ払われるのか。それを説明するところは話が早い。説明を嫌がるところは、あとで揉めることが多い」
「それでも、説明を嫌がるところで働く人はいるんだな」
「仕事が必要だからね。明日の食費が必要な人間に、来週まで待てと言っても難しいだろう」
店主は、切り分けた野菜を鍋に入れた。
「ただ、働く人間が全員、条件を知らずに仕事を受けているわけでもない。事情を分かったうえで、短期間だけ働く人もいる。危険を承知で高い報酬を選ぶ人もいる」
男は頷いた。
人を一括りにすることはできない。
仕事の条件を知らされない者もいれば、条件を知ったうえで選ぶ者もいる。仕事を断れる者もいれば、断る余裕がない者もいる。
問題は、誰がどの情報を持ち、どの程度の選択肢を持っているのかだった。
食堂を出た男は、再び事務所の方へ向かった。
今度は中へ入らず、近くの通りから出入りする人間を観察した。
しばらくすると、二人の男が事務所から出てきた。
一人は作業着を着ており、もう一人は商人らしい服装だった。
商人は作業着の男に封筒を渡し、短い会話を交わした。
作業着の男は封筒を懐にしまい、通りの北側へ歩いていった。
男は、商人が事務所へ戻るのを待ってから、その後ろ姿を確認した。
昨日、荷置き場で見た男とは違う。
だが、荷の運搬を手配する者が一人だけとは限らない。複数の仲介者が、異なる仕事を担当している可能性もある。
男は、作業着の男を追った。
相手は市場の外れにある小さな倉庫へ入り、しばらくして一人で出てきた。
その手には、先ほどまで持っていなかった紙袋があった。
男は距離を保ちながら、倉庫の入口を確認した。
扉の横には、運送業者の印がある。
それは、以前見た荷札の印と似ていた。
ただし、同じ印とは断定できない。形が似ているだけで、別の業者が使っている可能性もある。
男は、倉庫へ近づく前に、周囲を見た。
通りには人がいる。荷車も出入りしている。だが、倉庫の奥は外から見えない。
無理に入る理由はなかった。
男がその場を離れようとしたとき、倉庫の扉が再び開いた。
中から出てきたのは、昨日の荷置き場で見た男だった。
男はすぐに視線を外した。
相手がこちらに気づいたかどうかは分からない。
昨日の追跡で、自分が何を探しているのか、相手はすでに察している可能性がある。
それでも、ここで逃げるように立ち去れば、相手に余計な情報を与えることになる。
男は通りを普通の速度で歩いた。
背後から足音が聞こえた。
「おい」
呼び止められた。
男は立ち止まり、振り返った。
昨日の男が、数歩離れたところに立っていた。
「最近、この辺をうろついているな」
「仕事を探している」
「荷運びの仕事か?」
「そうだ」
相手は男の服装を見た。
「うちの仕事を受けたいのか」
男は、すぐには答えなかった。
相手が自分の目的をどこまで知っているのか、まだ判断できない。
「条件が分かれば、考える」
相手は短く笑った。
「条件を選べるほど、仕事に困っていないらしいな」
「仕事が必要だからといって、何でも引き受けるわけじゃない」
「その考え方で、食っていけるのか?」
「今のところは」
相手の笑みが消えた。
「明日の朝、北の水路へ来い。仕事の内容はそこで説明する」
「荷は何だ?」
「来れば分かる」
「報酬は?」
「仕事が終われば払う」
男は相手を見た。
今日、事務所で聞いた説明とほとんど同じだった。
仕事の内容は現場で説明する。報酬は作業終了後に払う。受ける前に判断するための情報は与えない。
「受けるかどうかは、内容を聞いてから決める」
男がそう言うと、相手は不機嫌そうに顔をしかめた。
「来るだけ来ればいい。断るのはそのあとだ」
それだけ言うと、相手は倉庫の方へ戻っていった。
男は追わなかった。
明日の朝、北の水路へ行けば、相手がどのような仕事を用意しているのか分かるかもしれない。
だが、相手が本当に仕事を紹介するつもりなのか、それとも自分を特定の場所へ誘い出そうとしているのかは不明だった。
男は、直人のもとへ戻った。
直人は箱の保管場所から戻ったところだった。
「何か分かったか?」
男は、事務所でのやり取りと、倉庫で昨日の男に会ったことを説明した。
直人は最後まで聞いてから言った。
「明日、行くのか?」
「行くつもりだ。ただし、仕事を受けると決めたわけじゃない」
「相手は、お前が何かを調べていると気づいているかもしれない」
「そうだろうな。だから、こちらも相手が何を知っているのかを確かめる必要がある」
直人は腕を組んだ。
「一人で行くなとは言わない。ただ、逃げ道は確保しておけ。何かあったときに、すぐ連絡できる方法も考えよう」
男は頷いた。
「箱の場所は、引き続き別に管理する。明日の行き先も、必要以上に広めない」
二人は、翌日の行動について細かく確認した。
男が北の水路へ向かう時間。
直人が待機する場所。
一定の時間が過ぎても連絡がなかった場合、直人がどこまで動くか。
無理に救出へ向かえば、二人とも危険にさらされる。かといって、何も決めずに待つわけにもいかない。
二人は、連絡が途絶えた場合の合図と、直人が確認できる範囲を決めた。
その夜、男は持ち物を点検した。
右手の傷は、まだ完全には治っていない。戦いになれば不利になることは分かっていた。
それでも、相手の用意した仕事の内容を確かめる価値はある。
仕事を配る者が誰なのか。
何を運ばせようとしているのか。
そして、なぜ説明を避けるのか。
明日の朝、その一端が見えるかもしれない。
男は灯りを消した。
箱は、もう以前の場所にはない。
守るべきものを切り離したことで、動ける範囲は広がった。
だが、自由に動けることと、安全に動けることは違う。
明日は、相手が用意した条件の中へ入る。
その条件を受け入れるか、拒むか。
最後に決めるのは、自分でなければならなかった。




